第9話 自己実現

 電車は終点に辿り着き、ドアが開くと高温多湿な夏のどんよりとした熱気が車内に充満じゅうまんする。周りの乗客たちは程よく冷房の効いた電車を名残惜しむように足取り重くそれぞれの目指すべき場所に向かおうとする。そんな中、僕は大学の講義をサボる罪悪感と単位がとれなくなるかもしれないという焦燥感しょうそうかんに駆られる一方、たかが1回の欠席ぐらいで何が変わるはずもあるまいと自分をはげまそうとするなど、感情がごちゃ混ぜになりながら葛藤かっとうに苦しんでいた。弱冷房車と書かれた車両内は、不思議と冷や汗をかいていた僕にとって寒すぎるくらいだった。


 一呼吸置いて、ホームに降り立つ。じめじめとした外気にあてられて、芯まで冷え切った僕の体は表面からじっくりと温められていく。今日の予定は全て白紙となってしまった今、僕は行く当てもなく駅の構内を彷徨さまよっていた。このまま帰宅しても良いのだが、せっかくここまで来たのだから、普段はやらないような目新しいことをしてみたい。


 ──そういえば、と突然ふと思い出した。僕は自分の容姿にほとんど気を使ったことがないことに。外出の際に身を包んでいる洋服も高校時代にまとめ買いしたローブランド品を未だに着まわしているし、髪型にも特にこだわりはないため、ひと月に一度くらいの頻度で行く床屋でも1000円カット以外の注文はしたことがなく、生来の自然な形を維持したままだ。ピアスやネックレスなどのアクセサリーを身に着けたり、お洒落しゃれな香水をまとってみたりなどもっての外だ。


 大学生となって2年目の夏、感染症の拡大が影響して通学期間が1年間失われた僕にとって、初めて大学の構内へ足を踏み入れた数か月前は驚きの連続だった。誰も彼もが独自の世界観によるファッションセンスを持っていて、それぞれが毎日欠かさず小洒落た服を別日のコーディネートと重複することなく着こなしてくるのだ。そして一度誰かとすれ違えば、柑橘かんきつ類や花の香りが漂ってくる。ジャラジャラとした金属類を耳や手指しゅしなどにくっつけている者など珍しくもなければ、人によってはタトゥーを入れていることもある。僕にとっては理解できないことだらけだったが、これも時代の変化の一環なのだろうと、同じ大学に在籍していることから大して年も変わらないだろうに、どこか達観たっかんしてしまうのは何故だろうか。


 正直に言うと、僕にも少なからずそのような人たちに対する憧れはある。それに後日、許斐このみさんに改めて自身の想いを伝え、あの日すれ違ってしまった互いの心情を確かめ合い、過去を清算しようというのに、みすぼらしい格好で出向く訳にはいかないだろう。


 ──僕もいい加減言い訳ばかり考えるのではなく、変わるべき時ではないだろうか。そう思い立った僕は、途端とたんきびすを返して駅構外へと歩を進め、繁華街はんかがいへと繰り出した。


 ここは山手線や中央線をはじめとする複数の主要路線の交差点となっている。したがって駅の周辺には多種多様な商業施設が立ち並んでおり、具体的に何か欲しい物があるという訳ではなく、単に漠然ばくぜんと買い物をしようというのなら、これほど御誂おあつらえ向きな場所はない。


 僕は人生で初めてたった一人で飛び込んだ繁華街の異様な雰囲気に気後きおくれしながらも、固い決意を胸に中でも一際目立つ大きなショッピングセンターに飛び込んだ。さっきまで滝のように溢れ出ていた汗が、外気との寒暖差により一気に乾いていくのを感じる。そのことに一瞬身震いしながらも、僕はとりあえずエスカレーターに飛び乗り、メンズ・ファッションと書かれた掲示が見えるまで上がり続けることにした。フロア案内などもろくに見ず、一直線で向かってきたためなかなかファッションフロアが訪れず不安になってきたところだったが、4Fと書かれた掲示の下にはメンズ・ファッションと表示されていた。僕は螺旋階段のように続くエスカレーターの輪廻から脱出し、フロアへと降り立ち物色を始める。


 一先ひとまずフロア全体をぐるりと一周し、収容されている店舗の数を把握はあくする。存外ぞんがい多くの店舗が立ち並んでいたため、ファーストインプレッションでじっくり見るべき店に当たりをつける。よし、まずはここにしようと訪れたのは、LEVI’SやEDWINなど僕でも一度は耳にしたことがあるような世界的有名ブランドを取り扱う品揃えの多い店だ。ここなら何かしらピンとくるものがあるはずだ。とはいっても、僕は若者の間でどういうファッションが流行っているとか、どういう着こなしが格好いいとかいうことにはうとく、さっぱりわからない。店内をうろつきながら頭を悩ませていると、涼しげな白のロングスリーブシャツにダメージジーンズを合わせた高身長の青年が歩み寄ってくる。


「何かお探しでしょうか?」


 ──僕に話しかけているのか。身長差が20cmはあろうかという一見して同年代の若者に声をかけられた僕はわかりやすく狼狽ろうばいする。


「い、いえ。ただ見てるだけですので……。」


「そうですか。何かお困りごとなどございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。」


 ──勘弁してくれ。不意を突かれた僕はとにかく何かしら返事をするので精一杯となり、つい突き放すような言い方になってしまった。対して店員とおぼしき男性はそんな僕の対応などかいする素振そぶりもなく、淡々たんたんと親切に接してくれた。男として、いや、人間としての格の違いを感じされた。


 すっかり意気消沈して強烈な屈辱感に苛まれた僕は、すごすごと店を後にして距離をとる。場所を変えようか、いや、いっそ今日はもう帰って一旦何もかも忘れてしまおうかと考えていた最中、1体のマネキンが目に入った。

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