第14話 自己暗示-2

 いつものカフェで、普段は注文しないエスプレッソをダブルショットで飲み干し時間を潰した後、3限の開始時刻に合わせて教室に足を運ぶ。すると、今日は早めに到着したのか、教室内には既に許斐このみさんの姿があった。どうやら先日の男子学生と談笑だんしょうしているようだ。


 僕はこういうとき、普段なら後ろ側のドアからひっそりと気づかれないように侵入し、その場に溶け込むようにそのまま後ろ側の席に座ってやり過ごすのだが、今日は違う。僕は、堂々と前側のドアから教室に入り込む。でも、このまま前方の席に座ると、後方から降り注ぐ視線が気になって講義に集中できなくなってしまうので、颯爽さっそうと後ろの席まで歩き、あくまで自然体を取りつくろって着席する。


 許斐さんは横を通り過ぎた僕の人影に気付くや否や、ぱっと顔を上げて目線を移す。先週とは明らかに異なる僕の変貌へんぼうっぷりに彼女はどのような反応を示してくれるのかと、心中穏やかでないながらも、談笑中の彼女を邪魔しないようにと挨拶がてら目線を合わせてマスク越しに微笑えむ。すると、許斐さんは何故か気まずそうに目を逸らしてしまった。──少々気持ちが悪かっただろうか。


 ──しかし、後になって思い返してみればこの時から既に、許斐さんの様子は段々とおかしくなっていた。



 ◆◇◆



 定刻を迎え、講義が始まる。この後のことを考えると、集中力を最後まで維持できる気が一切しないというのが正直なところだが、流石に上級生も多数受講しているゼミの中で下級生が一人だけ、いつまでも私事にうつつを抜かして不真面目な態度をとってはいられない。


「今日から本格的な内容にシフトしていくので、気合をいれて取り組んでください。」


 まるでそんな僕の心境を見透かしているぞと言いたげなように、教授が生徒全員にげきを飛ばす。最初の50分間は、これまでも他の講義で学んできたような一般的な基礎知識の復習のようなものだった。


「えー、それでは。これより皆さんには、科学的不確実性が認められる状況下においてA国がB国に対して越境的環境損害を惹起した際に取りうる対応について説明してもらうので、過去の実例を基に各班で議論を行ってください。各班のメンバーの内訳はこれから発表します。」


 ──どうやら、2回目の講義にして早くも班でのグループワークが行われるらしい。僕は確かに人見知りだが、学問の一環として必要なコミュニケーションだと割り切れば、必要最低限は誰とでも問題なく会話できる。


「今後も何か作業をしてもらう機会がある度に、基本的にこの班のメンバーで取り組んでもらうので、お互いによく知りあっておくように。」


 ──だが、この状況は大変な誤算だった。僕が割り当てられたC班のメンバーは、許斐さんと、講義開始前に彼女と歓談していた男子学生。そしておそらく僕と同級生だと思しき見知らぬ女学生だった。よく見ればどの班も男女比1:1、上級生と下級生とがバランスよく振り分けられているようで、しっかりと計算された上で班決めが成されていることが分かる。


 ──しかし事もあろうに、許斐さんと一緒の班になるなんて。それだけでも気まずいのに、件の男子学生も一緒だ。先週はこのゼミの仲良しグループの一角で和気藹々わきあいあいと会話を楽しんでいたところを見るに、所謂陽キャと呼ばれる人種で、僕の苦手な部類の人間だ。しかも、どうやら彼は許斐さんの知り合いのようだ。知り合いの知り合い、というのはどうにもやりにくい。


 班のメンバーが発表された後、それぞれが共同作業に移行するため、座席を移動する。C班として呼ばれた面々も、横長のテーブルを1つ挟んで一堂に会する。しかし、誰一人として口を開こうとはせずに、気まずい沈黙が流れる。すると、間が持てない複雑な状況を察してか、男子学生が静寂を破る。


「みんなよろしくね! 時間的にはまだまだ余裕がありそうだから、まずは改めて軽く自己紹介でもしようか!」


「俺は宮良友樹みやらゆうきっていいます! 3年生だから、このゼミでは上級生ってことになるけど、先輩後輩とか一切気にしなくて大丈夫だし、敬語で話しかけなきゃーとか考えなくていいからね!」


 ──助かった。前回のゼミで他の受講生の自己紹介をろくに聞いてなかった僕にとっては、この重苦しい雰囲気を打破するという意味でも、闇夜の提灯ちょうちん同然だ。


「わ、私も宮良みやらくんと同じ3年生で、許斐佳容このみかよです。私に対しても変に気を使って遠慮したりしなくていいから、気軽に話しかけてくれるとうれしいな……!」


 許斐さんも1つ上の先輩としての責務を感じてか、率先して軽く挨拶を済ませる。すると、僕はテーブルを挟んで向かい合うようにして座っていた宮良先輩にまじまじと見つめられる。その何かを訴えかけるかのような視線とタイミングに、僕は直感的に何かを読みとった。彼も許斐さんのただならぬ様相ようそうに気付いて、僕にその理由があると踏んでいるのではないだろうか。


 ──生憎だが、僕には許斐さんの異常に心当たりはない。この後僕による告白のやり直しが控えているからといって、彼女が今更ここまで動揺するとは思えないし、僕の急激な変貌を遂げた外見に驚いているにしても明らかに不自然だ。僕は自身の潔白を証明するかのように、宮良先輩の視線に応える。


 僕が対面の先輩と水面下で交信を図っている間に、隣に座っていた女学生が話し始める。


「私は柳楽楓なぐらかえで、2年生です。大学に通って講義を受けるのは今年からで、初めてのことばかりで緊張しているのですが、優しい先輩方で良かったです! よろしくお願いします!」


 ──やっぱり彼女は同級生だった。というのも、3年生といえばそろそろ就職活動などの進路選択に係る重要局面を意識し始める時期だ。それにもかかわらず、彼女は茶髪に染まったロングヘア―をなびかせて、指先には派手目のネイルアートを施している。しかし口を開くと彼女は、存外真面目で物腰柔らかな印象を与える話し方で淡々と自己紹介を終えた。──次は僕の番だ。


否己影太いなきえいたです。彼女と同じく2年生で、僕も全く同じ境遇なので慣れない大学生活に戸惑っているところです。でも、頼りになりそうな先輩方と同じ班になれたので嬉しいです。よろしくお願いします!」


 僕は彼らに対してまだ完全に心を開けておらず、マスク越しの作り笑いを必死に取り繕うのが精一杯だ。それでもせっかく盛り上がりつつある雰囲気を壊すまいと、宮良先輩が良きタイミングで合いの手をいれてくれる。


「そうだよねー。今の2年生は感染症のせいで実質大学1年目みたいなとこあるから。右も左もわからなくて当然だし、頼りにしてくれて嬉しいよ! ね、許斐ちゃん?」


 そう宮良先輩は、許斐さんに対して探りを入れようとする。


「あ、うん。そうだね……。」


 だが当の彼女は、どこか上の空というか、心ここにあらずといった様子で、まるで先週の僕と立場が逆転しているようだった。


「まあお互い、もっと深く知り合う機会はこの後いくらでもあるから、一先ず作業の方を終わらせようか! 2年生の2人は書記担当で、俺がファシリテーターとして進行役として話を回していくから、許斐ちゃんはタイムマネジメントをお願い!」


 宮良先輩は、完全に注意散漫となっている許斐さんに代わってあっという間にその場を仕切り、的確に必要となる役割を考え、適材適所に振り分ける。ふんわりとしたマッシュヘアーに鈍色のイヤリングが目立つ、派手な格好をしている彼だが、その見てくれとは裏腹に有能な一面を持ち合わせているようだ。


 こうして簡単なアイスブレイクを終えた僕たちは、教授に指示されたテーマで議論を行い、宮良先輩が僕たちの意見をまとめ上げて代表者として発表した。そして今日の講義は、教授が各班の出した結論に対するフィードバックを行い、幕を閉じた。


 ──さあ、いよいよだ。僕は今日、許斐さんに伝えなければならないことがある。この日、この時に向けて、入念に準備を進めてきた。後は持てる勇気を全て振り絞って、真摯しんしな態度で彼女への想いを表現するため、言葉を尽くすのみだ。


 ゼミ自体が解散した後、学生も疎らとなった教室内で僕は先週の約束通り、許斐さんを遅めの昼食に誘うため声をかけようとするが、彼女は哀愁あいしゅうを帯びた何とも言えない表情で呆然としていた。


「許斐さん。」


「あ、否己くん……。」


 ──やはり、おかしい。誰が見ても今の許斐さんには普段の溌溂はつらつとした面影はなく、悲愴感に満ちている。


「とりあえず、ですか?」


 しくも僕は、先週許斐さんが言っていた誘い文句をそのまま彼女に対して使うことになった。──この場合のとは、無論、彼女と交わした約束を指している。


「そうだね、行こうか。」


 許斐さんは何かを覚悟したかのような表情で今度はしっかりと返事をして、勢い良く立ち上がる。僕は彼女の進行方向にあった椅子を引いて進路を開けておく。僕のさりげない気遣いがかえって心苦しいとも言いたげなように、彼女は複雑な表情で笑う。そんな彼女の表情を見ていたのか、まだ教室に残って隅の方で友人らと語らっていた宮良先輩が、すれ違いざまに言い放つ。


「今度何があったか、俺にも聞かせてくれ。」

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