異変

第13話 自己暗示

「できました! こんな感じですが、いかがでしょうか。」


「ありがとうございます。意識して髪型を変えてみるなんて初めてで……。なんだか生まれ変わったような気分です……!」


「それは良かった! 次来るときは、彼女さんとのお話の続き、是非お聞かせくださいね!」


「ですから、まだ彼女じゃありませんよ……。でも、次はもしかしたら良い報告ができるかもしれません。」


「それは楽しみです! ご予約の際にご指名いただければ、また今日みたいな感じでカットさせていただくことも、新しい髪型に挑戦するのをお手伝いさせていただくこともできますから、今後とも御贔屓ごひいきにお願いします!」


 ──帰り際まで丁寧に接客していただいて、ありがたい限りだ。次回からもこの方に定期的にカットをお願いしようと思い、改めて名前を確認するため、彼女の胸ポケット付近にある名札に目をやる。峯川心海みねかわここみ、31歳。なんと、僕よりも一回り年上だったというのか。すっかり同い年に対してするような接し方で会話してしまっていたが、何か失礼はなかっただろうか。それにしても、流石は敏腕びんわんスタイリストか。彼女は自身の形貌なりかたちについても研鑽けんさんを怠っていないようで、見た目の美しさは若々しさにも直結するものなのだと、容姿に気を使うことの重要性を再認識した。


 店を出て、雲一つない夏空の下で伸びをする。長時間座りっぱなしだったので、身体の節々が音を立ててきしむ。しかし、なんて晴れやかな気分なのだろうか。僕はここに来た時とは打って変わって、自身に満ちあふれた表情で胸を張って歩き始める。一度自宅まで荷物を取りに戻り、その足で大学へと向かう。今日は午後から講義が3つほど立て込んでいるが、今の僕にとっては些末さまつなことだ。



 ◆◇◆



 ──午後の講義も全て終了し、大学を離れ家路についた僕は、駅構内に設置された緑色の時計を確認すると時刻は20時30分を指していた。自宅の最寄り駅の改札に向かう階段に一番近い車両を逆算して、いつも通り先頭から3番目の車両に乗り込み、座席の一番端っこに腰かけて電車の揺れに身を任せ、お気に入りのワイヤレスイヤホンを鞄から取り出そうとすることもなく、ただ心地良い疲労感と共に物思いに耽る。


 月曜日から立て続けに巻き起こった自身と、それを取り巻く環境の変化について振り返りながら、激動の1週間を過ごしたものだと僕は感慨一入かんがいひとしお。退勤するサラリーマンや帰宅途中の学生たちが大勢押し寄せるラッシュの時間帯は既に過ぎたためか、帰りの車内はちらほらと空席が目立つくらいに空いていた。


 ──許斐このみさんとの再会は3日後に迫っている。僕にできることは最大限やったはずだ。あとは確固たる意志と自信を持って、あの日砕け散ったはずの片思いを改めて成就じょうじゅさせるのみだ。


 僕は帰宅した後、一通り寝支度を調え、とこくと、少々気が早いことは自覚しつつも当日のイメージトレーニングをしながら、いつの間にか意識を闇に放り出した。



 ◆◇◆



 土日を跨いで8月二度目の月曜日が訪れる。普段なら憂鬱ゆううつな気分となる1日が始まるところだが、今日だけは違う。先週は自己嫌悪で、昨夜は不安と緊張でろくに眠ることができず、相変わらず寝不足のままなのだが、今日の僕に限っては思考が明瞭めいりょうだ。


 僕は洗顔も兼ねて軽くシャワーを浴び、歯を磨くついでにブラシで舌苔ぜったいをとる。ダメ押しにマウスウォッシュで口をすすげば、一先ず口臭の心配はないだろう。そして、火曜日にショッピングセンターで購入して以来、タグだけ取ってクローゼットにかけておいた洋服一式を取り出して袖を通す。値段も高いだけあって、着心地は抜群だ。試着した際に既に確認済みだが、サイズもぴったりで動きやすい。次に、美容室で峯川さんに教わった方法で頭髪を丁寧にセットする。ただでさえ時間の限られた朝だというのに、今までの僕にとっては考えられないほど、身支度には相当な時間がかかった。まだ不慣れで習慣化できていないこともあるが、これを通学前に毎朝当たり前のようにこなしているのであろう世の大学生諸君には、本当に頭が上がらない。


 出発前に、これまた先日購入したばかりの香水を2プッシュ身にまとい、準備は万端だ。玄関の近くに置いてある姿見すがたみの前でえりを正し、改めてまじまじと自身の風貌を観察する。──誰だこの男は。そこには、清潔感のある涼しげな頭髪に鍛え上げられた肩幅広めの上半身にジャケットが良く似合う好青年が立っていた。これは客観的に見ても、小粋で上品な身なりだと思う。最高だ。僕はおろての靴を履いて、勢い良く自宅を飛び出した。


 その後、通学中はもちろんのこと、大学に到着してからでさえ僕は許斐さんのことばかり考えていたため、正直言って1限の内容は全く頭に入っていなかった。というか、もはや僕の頭には、彼女へどのように思いを伝えるべきかということだけがこびりついて離れなかった。もしかしたら最悪の結果もあり得る。彼女は地元の高校でさえ、崇高すうこうな存在として誰からも愛されていた人だ。都内の有名大学ともなれば、そんな彼女に匹敵ひってきするような完璧超人の一人や二人くらい居てもおかしくないし、そのような人が彼女と接点を持っていたならば、僕に勝ち目はない。それに、許斐さんとの再会を意識して、付け焼刃の小細工によってよそおいをらした僕を彼女が気に入ってくれるとは限らない。彼女と僕の美的センスに相違があれば、ただのダサい男だと思われてしまうかもしれない。


 一度悪い考えが過ると、途端に際限なくマイナス感情が脳内を伝播でんぱする。──いけない。自分にすら自信が持てない人間が、そんな自分を何故他人に受け容れてもらおうとすることができるのだ。僕が僕を認めてあげられないのなら、許斐さんが僕の告白に応じてくれる訳もない。そう僕は自分を戒めるように心の中でかつを入れる。きっと大丈夫だ。そう考えているうちに、1限の終了を知らせるチャイムが教室内に響き渡った。

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