第12話 自己実現-4

 金曜日の午前9時、休日を直前に控えていることもあってか、心なしかいつもより安らかな気分で時間を過ごす。とはいえ、1時間後には美容室の予約が迫っているので、そろそろ外出の準備に取り掛かろうかといったことを考えていた。


 シャワーを浴びて歯を磨き、電動シェーバーでひげる。買い置きしていた卵とベーコンを焼いてトーストした厚切りの食パンにのせ、軽い朝食を済ませると、予約の時間まではまだしばらくの余裕があったが、なんだか居ても立っても居られずに家を飛び出した。


 徒歩で5分もしないうちに辿り着いたのは、一目見ただけでそれと分かる清潔感漂うガラス張りにウォーターカーテンがかかった特徴的な店構えだ。透き通るような水の遮蔽しゃへい越しに外からは、明るい店内の様子と先客と思しき人影をうかがい見ることができた。


 さて、僕は予約の時間よりも15分ほど早く着いてしまった訳だが、どうするべきだろうか。そんなもの、店内の待合室で待てば良かろうと思われるかもしれないが、ただでさえこんなお洒落な外観の美容室にたった一人で突入することだけでも心細くて仕方ないのに、自分の番が訪れるまで店内の待合室で過ごそうなんて、居たたまれないにもほどがある。


「あのー、お客様でしょうか。」


 所在しょざい無くうろうろと店の様子を窺っていたその時、僕は突如とつじょとして背後から声をかけられたことに驚き、飛び跳ねる。


「は、はい……!」


 僕は咄嗟とっさに返事をして振り向くと、そこにはおそらく僕と同年代の女性がいた。


「そうでしたか。何かお困りの様でしたのでお声かけさせていただいたのですが...。ご予約のお客様ですか?」


「あ、はい。10時から予約しております、否己いなきです……。」


「わかりました。今ならそこまで混雑してませんし、すぐご案内できるかと思います。店内へどうぞ!」


 なるほど、この人はこの美容室のスタイリストといったところか。ちょうど今出勤してきたところか、はたまた休憩を終えてきたところかは知らないが、僕にとっては渡りに船だ。


「それでは本日担当させていただきます峯川みねかわと申します。よろしくお願いします。」


 店内へと案内されて施術台せじゅつだいへと向かう間、辺りを見回してみる。客層はほとんどが若い女性で、ヘアカラーリング中に雑誌を読みながら時間を潰している者やトリートメントをしている者などがちらほらと目に付く。ようやく座席に到着した頃には、極度の緊張に凍り付いた僕の心情などつゆ知らず、峯川と名乗った女性は早速施術を開始しようとする。


「本日はどのようになさいますか。」


 ──あぁ、うっかりしていた。僕は一先ず、明るく垢抜あかぬけた印象を与えられるような所謂いわゆる今どきの髪型にしてもらいたいという、極めて抽象的な考えに基づいてヘアカットを所望しょもうしたが、具体的な要望はなく、彼女の質問に対する明快な回答を用意していなかった。だが、今まで通りなんとなく「短く整えてください。」と言ってしまえば、場違いを承知の上で恥を忍び、大枚叩たいまいはたいてわざわざここに出向いた甲斐かいがない。


「えっと、これまでとは趣向しゅこうを変えて、思い切って髪型を変えたいんですが、何が自分に似合うのかとか、流行りの髪型とかは全然詳しくなくて……。」


「何かお勧めの髪型があれば、お任せしたいです。」


 僕は自分であれこれ悩むよりも、美容室に勤めるスタイリスト、すなわちその道の専門家に意見を求める方が賢明だと考え、助けをうように尋ねる。


「わかりました。お客様はお好みの髪型などございますか?」


「よくわからないんですが、短い方がすっきりしていて、手入れも楽そうでいいかなとは思います。」


「なるほど。今まではどちらのお店でカットされていたんですか?」


「大衆向けの1000円カットで、伸びてきたらその分短くして、って感じでした。」


「では、今回こちらにお越しいただいたのは何かきっかけがおありになられたんですか?」


 年が近いということもあって、峯川さんの前では先程まで感じていた緊張も和らぎ、自然体で会話することができた。そして僕は、今回思い切って許斐このみさんの横に立っても恥ずかしくない、彼女に相応しい男になるために思い切って変わろうとする決心をありのままに伝えた。


「わぁ、素敵ですね! 彼女さんも自分のために変わろうとしてくれているお客様のお気持ちがまず嬉しいと思うし、きっとお喜びになると思います!」


「いや、まだ彼女ではないんですけどね……。でもそういっていただけると勇気が持てます。」


「それは良かったです! では、少々お待ちください。」


 その後もいくつか彼女の質問に答えていくと、峯川さんは一度席を外し、すたすたとどこかへ向かった。しかし彼女の言葉には、思いがけず背中を押してもらうこととなった。普段とは違った生活を送ると、また普段とは違った出会いもあるものだと、僕は早くもこの美容室に来てみて良かったと感じた。すると峯川さんは、奥の棚からメンズ向けの雑誌を1冊選んで持って来た。


「思い切って短く、そして清潔感のある髪型となりますと、お客様にはこういうのがお似合いになるかと。」


 ぺらぺらとページをめくり、指差された場所にはさわやかなツーブロックにグラデーションカットがほどこされたまさに今時感いまどきかんのある髪型をしたメンズモデルの姿があった。


「これなら比較的お手入れも簡単ですし、涼しげで今の季節にぴったりだと思います!」


 峯川さんはその若さながら、こんな僕に対しても丁寧なヒアリングで情報を引き出し、顧客としての特徴を的確に分析して、十分に満足のいく最適の提案をしてくれた。スタイリストとして仕事に誇りを持って取り組み、それを全力で楽しんでいるのが傍から見ても分かる。僕は彼女に羨望せんぼうの眼差しを向けると同時に感じた、無意識の劣等感に少しだけ心を痛めた。


「いいですね……! では、これでお願いします!」


「はい、お任せください!」


 誠心誠意対応してくれた彼女の姿勢に応えるように、威勢いせいよく返答する。僕の承諾しょうだくを得た峯川さんは軽く僕の髪全体を霧吹きで湿らせ、早速カットに取り掛かる。その後は店内に響き渡るジャズミュージックのリズムと共に、ゆったりとした時間が過ぎていった。


「それにしても、高校時代の先輩に大学で再会するって、とっても運命的ですよねー。」


 作業も後半へ差し掛かろうかというところで、バリカンをハサミに持ち替えた彼女が僕に話しかける。


「まぁ、そうですかね。一応少し名の通った都内の私立大学なので、まああり得なくはない、ってとこですかね。」


「しかも、高校時代に一目惚れした先輩に告白って、なかなか大胆ですね。今時珍しいんじゃないですか?」


 聞かれていないようなことまでぺらぺらと喋ったのは僕の方だが、改めて蒸し返されると途端に恥ずかしくなる。幸い、周りに僕以外の客はほとんどいないし、遠くの方ではドライヤーの音が騒がしく、僕の恥部ちぶが他人に晒されることはないだろう。そう冷静に考え直し、安堵あんどの溜息と共に返答する。


「大胆なのは百も承知です。ただ、一目惚れというのはきっかけに過ぎないんです。」


 そう、僕は高校の入学式で許斐さんを目にしたとき、初めて恋に落ちる感覚というものを味わった。だが、それからひそかに恋心を募らせていったのは、彼女自身について良く知るようになってからだった。



 ◆◇◆



 許斐さんは僕の1つ上の先輩で、僕の入学時には高校2年生だった。その時には既に在校生代表として入学式で新入生に向けた祝辞を担当するなど、人望の厚い人だった。後から聞いたところによれば、彼女は当時すでに2年生ながら生徒会長を務めるほど、求心力に長けた人気者だったようだ。また、体育祭や球技大会といったスポーツイベントが行われる度に各所かくしょで彼女の名前が挙がるほど運動神経も抜群で、定期テストでは成績上位者の名簿に彼女の名前が記載されないことはなかった。おまけに彼女は品行方正で、教師、学生問わず評判は常に高かった。端的に言えば、彼女は完璧だ。


 だが、僕も負けてはいなかった。あまり世間的に有名とは言えない平凡な地元の高校から、有名大学へと進学したいと漠然と考えていた僕は、日頃から成績は常に優秀で、定期テストでもほぼ毎回上位を独占していた。運動神経も抜群とはいえないまでも、何をやっても期待される以上のことはやってのけたつもりだ。しかし、換言すれば僕の能力など所詮しょせんそれまでだった。独力でも、たゆまぬ努力を継続すれば一定の成果が表れることもある一方で、誰もが羨む美貌びぼうや身長の高さといったルックス、社交性といった、どれだけがむしゃらに頑張っても一朝一夕では獲得できないものもある。


 僕は当初、許斐さんのことを激しくねたみ、自身に芽生えた恋心を否定した。彼女のような完璧な人間など居ていいはずがない、どんな人間にも何かした欠落した一面はあって然るべきなのだ、そうでなければ不公平だと、彼女のあら探しに奔走ほんそうした日々もあった。そして僕はその一環として生徒会役員に立候補したこともあったが、不純な動機が見透かされたのか、実現することはなかった。


 しかしある日、定期テストを控えていたため勉強するために何気なく立ち寄った図書室にて、黙々と一人で勉強に取り組む許斐さんの姿を見つけたことで、僕の下劣な固定観念は破壊された。そう、普通ならば顔面の美貌だとかスタイルの良さだとか、誰もが羨む身体的要素を生まれ持った人間は周囲にちやほやされ、それが自身のステータスであると錯覚し、慢心するものだ。黙っていても人が寄ってくるものだから、自然と社交性が身に付くだろうし、所謂陽キャと呼ばれる集団に美男美女が多いのは意外とそういうメカニズムなのかもしれない。だが、彼女は違った。どれほど美人だと持てはやされても、どれほど能力に恵まれていても、それを誇示こじすることなく、ひたむきに努力を続けているからこそ今の彼女があるのだと僕は悟った。その日から僕は許斐さんに対する恋慕れんぼの情を加速させていくことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る