第11話 自己実現-3

「はい。でしたら金曜日の10時からでお願いいたします。えぇ、よろしくお願いいたします。」


「あ、はい。それでは失礼いたします。」


 今日は水曜日、時刻は11時15分。今日の講義は午後からなので、比較的ゆったりとした時間を過ごす。昨日はあれから早めの夕飯を外食で済ませてから帰宅して、出かける前に残していったままだった洗い物を片付け、シャワーを浴びて歯を磨いたらスマホをいじる暇もなく力尽き、気づいたらベッドの上にいた。それにしても、昨夜は久々にぐっすりと眠ることができた。晴れやかな気分でベッド周りを整理整頓した僕は起床して早々に、近所にもかかわらず一度も足を運んだことがない美容院の予約をとった。正直、美容院なんて興味本位で中学生のころに一度行ったきりで、それ以来いつも通り安い床屋のお任せカットで済ませていた僕にとって、この決断は相当の勇気がった。だが、一度変わってみせると決心したならば、前進あるのみである。ここまで来て後退の2文字はないのだ。


 たかが電話の1本でここまで精神を摩耗まもうさせるなんて、のみの心臓にもほどがあるんじゃないか。僕の精神の脆弱性ぜいじゃくせいについてはほとほと呆れるばかりだが、それが生まれ持った性であるというのなら甘んじて受け入れるほかない。とはいえ、僕の場合は後天的な要因も多分に含まれていることは自覚している。これまで毎晩のように思い出してきた数々の黒歴史を振り返ってみれば、僕が如何いかにして人間不信の臆病で弱い人間になったのか、容易に合点がてんがいく。


 心の中でいつものようにぶつくさと思い悩み始めていると、スマホがけたたましい電子音と共に振動を開始する。どうやら今度は誰かから電話がかかってきたようだ。大学に友達はいないし、一人っ子の僕に電話をかけてくる相手など、両親くらいしか心当たりはないのだが。そう思っていぶかしげにスマホの画面をのぞき込むと、そこには許斐佳容このみかよの名前が表示されていた。そう、実は先日、連絡が取れないのは不便だろうということで、わかれ際に連絡先を交換していたのだ。


 ──いやいや、だからなんだというのだ。確かに連絡先は交換した。しかしだからといって許斐さんが僕に電話してくる用など特に思い当たらない。一体何用だろうか。それが気になる反面、謎の緊張感に包まれた僕は応答ボタンをタップすることを躊躇ためらってしまう。そう逡巡している間に、不在着信の通知と共に電話は切れてしまった。


 ──これではまるで僕が許斐さんからの電話を無視したみたいじゃないか。いや、客観的に見れば事実としてその通りなのだが、そんなつもりはなかった。僕は覚悟を決めて、折り返し連絡を取ろうとする。呼出音が1回鳴り切らないうちに、許斐さんと電話がつながる。


「もしもし。すみません。お手洗いに行っていたので電話に出られませんでした。」


 僕は咄嗟とっさに口から出任でまかせを言ってしまった。しかし、許斐さんから突然電話がかかってきたもので緊張して出られませんでしたとありのまま伝えるのははばかられたので、嘘も方便だろうと意味もなく正当化し始める。


「あぁ、全然いいよ! こっちこそ突然電話してごめんね? どうしても聞いておきたいことがあって。」


 聞きたいこと、と言われて一瞬心臓が僅かに跳ねるが、別に尋問を受ける訳ではないのだから警戒する必要はない。聞かれて困ることなど何もないだろう。


否己いなきくんって、誕生日はいつ?」


 誕生日?そんなものを聞いてどうするのだろう。よくわからないが、別に秘密にしておくようなことではないので素直に答える。


「誕生日ですか? 7月3日ですけど……。」


「そっか、つまりもう20歳なんだね。おめでとう!」


 8月に突入し、夏真っ盛りの現在、僕は20歳を迎えてから一か月が経過していた。


「あ、ありがとうございます。でも、どうして突然僕の誕生日を聞いたんですか?」


 僕は率直な疑問を投げかける。


「大したことじゃないんだけどさ。暇だったし、ちょっと気になってね! 詳しいことはまた今度話すよ!」

 

 どこか煮え切らない回答が腑に落ちないが、しつこく詰問きつもんするようなことでもないので「ちょうど暇だったので、お話しできて良かったです」と締めくくり電話を切った。


 ──許斐さんの朗らかな透き通るような声を聴くと、僕の心は激しくき乱されてしまい、図らずも他人行儀な態度をとってしまう。彼女は僕とのテンションの温度差に疲れていないだろうか、冷たくつまらない男だという印象を与えているのではないだろうか、などと僕は許斐さんの立場になって考えてみる。正直、僕が許斐さんほどの美人で気立てが良く、人望も厚い女性だったら、僕のような平凡で自己肯定感の低い男は真っ先にお断りだろう。僕のような人間は本来、許斐さんと対等に肩を並べて歩いたり、口を利いたり、ましてや連絡先を交換したりすることは許されないのだ。ところが、その全てが現実に起こった出来事であるというのだから、人生何があるかわからない。僕は一生分の運を使い果たしたのではないだろうか。


 生まれ持った容姿や身長はそう簡単に変わるものではないが、せめて体つきだけでもたくましく、頼りがいのある男になろうと考えた僕は、筋骨隆々のマッチョに憧れて中学生の時に始めて以来、今まで欠かさず日課にしてきた筋トレをするため、実家から持ち出してきたプッシュアップバーや腹筋ローラーといった用具を引っ張り出し、床が傷つかないようにストレッチマットを敷く。もう何年も同じメニューをルーティンとしてこなしてきたため、ある程度引き締まった体を手に入れてはいる。だが、慣れというのは恐ろしいもので、人間、日常的な運動であれば少しでも体にかかる負荷を軽減しようと、無意識のうちに動きを最適化して楽をしようとしてしまう。そのため、僕の体はここ数年変化がないままだ。


 より強く、より逞しい筋肉を手に入れるためには、ジムに行くのが手っ取り早い。中学生の時は実家から自転車で10分の場所にあった市民館に併設されていた1回100円程度の激安ジムに通っていた。だが、小さな体でたどたどしくマシンやダンベルを操る僕の姿が奇妙に映ったのか、他の利用客の目線が居心地悪かった。また、一人で黙々とトレーニングしているときにトレーナー気取りの一般利用客がああしろこうしろと頼んでもいないのに横から注文を付けてくることも多々あった。僕は「そうですね」と相槌を打ってやり過ごすのにかなりの時間を要するので、それが鬱陶うっとうしくてジムからは次第に足が遠ざかっていった。


 まあ、自宅であろうと工夫次第でトレーニングの幅は広がるものだ。胸筋を鍛えるための腕立て伏せもプッシュアップバーを使って一つ一つの動作をゆっくりと行えばかなりの負荷を得られるし、逆立ちした状態で行えば肩にも効かせることができる。下の段にPCデスクが設置できるタイプの2段ベッドを置いてある僕の寝室では、ベッドの端にぶら下がって懸垂ができる。順手で背中を、逆手で腕を鍛えて、ゆっくりと体を降ろす。自重のみを負荷とするトレーニングも最近マンネリ化してきているので、僕は試しに足にダンベルを括りつけて重り代わりにする。


 なるほど、これはなかなかつらい。一通りトレーニングを終えると、気づけば1時間余りが経過していた。僕はキッチンの棚に置いてある粉のプロテインの袋からさじを取り出し、り切り1杯をそっと口に入れ、牛乳で流し込む。これを2度繰り返し、匙を袋に戻して一息ついた。そろそろ午後の講義が迫っているので、僕は手早くシャワーで汗を洗い流して服を着替え、いつもより念入りに出発の準備を整えた。

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