第10話 自己実現-2

 完全に出鼻をくじかれてしまった僕の足は、1体のマネキンの前で止まった。


「これ……。」


 マネキンが身にまとっていたは純白のシャツによく映える黒のテーラードジャケット、夏らしいネイビーのスラックス。なんとなく見覚えがあった。昨日、ゼミで許斐このみさんに話しかけていた短髪の男子学生がちょうどこんな感じの服装だったと記憶している。フォーマルで清楚せいそよそおいだが、堅すぎず、どこか明るく涼しげな印象を受ける。端的たんてきに言えば、すごくお洒落だ。


「カッコ良いですよね! これ!」


 一見して今年55歳を迎える僕の母親と同じか少し若く見えるくらいの中年女性が声をかけてくる。店員の方から声を掛けられることは先程の一件でり込み済みなので、比較的落ち着いてしっかりと受け答えしようとする。


「はい。僕はあまり最近の流行とかに詳しくないんですが、店員さんの目から見てもこういうのはイケてるって感じなんですかね……?」


「ええ。お客様にもよくお似合いになられると思います! ウール素材を使用しているので冬には保温性も発揮はっきしますから、オールシーズンに対応しておりますし、普段着としても、フォーマルファッションとしてもお使いいただけます!」


 ──なるほど。店員の女性の話に耳を傾けながらそっと目線を値札の方にやると、上下セットで僕の一月分の食費をも凌駕りょうがするような値段設定に眩暈めまいがした。一人暮らしの大学生にとってこれはあまりにも痛すぎる出費だ。


「取り敢えず、試着してみてもよろしいですか?」


「もちろんです! こちらへどうぞ!」


 女性の案内で試着室へと向かい、カーテンを閉じて手早く着替える。どうやらサイズはピッタリらしく、スラックスの方も裾上げなどの必要はなさそうだ。一度カーテンを開けて女性店員と一緒に確認してもらう。


「ちなみに、例えば友達に大事な話をしようとするときカッコつけてこんな服を着てやってきたら、引かれると思いますか……?」


 ──僕は鏡を見ながら、買い物の目的を少し脚色して、女性にアドバイスを求めた。すると彼女は何かを察したかのように短い相槌あいづちを打つと微笑んだ。


「そんなことはありませんよ。むしろお客様の誠実さが強調されて相手に親しみやすさを与えてくれるはずです。心配することなんてございませんよ。」


 そう迷わず返答した女性店員の真っ直ぐな瞳に、何もかも見透かされているような気がした僕はその言葉を信じて、1年中着ることができるなら安いものだと思い切って購入することに決めた。


「ありがとうございます! すぐにお包みいたしますね!」



 ◆◇◆



「ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております!」


 結局商品のラッピングを待つ間、半ば強引に勧められた紺のスニーカーも追加で購入した。こういうのは中途半端が一番よくない。僕みたいなファッションの素人はプロである店員の言うことに素直に従っていれば間違いないのだ、決して商売上手な店員にまんまとカモにされたとかそういうのではないのだと、存在しない空想上の誰かに出費の言い訳を始める。──はぁ。またバイト増やさなきゃいけないかもな。


 その後、いろいろと吹っ切れた僕はこれ見よがしに先程購入した商品が詰まった大きめの紙袋を引っ提げて、あたかも常連の買い物客であるかのような振る舞いを見せて、隙を見せれば声をかけてきそうな店員らを牽制けんせいする。来た道を引き返してエスカレーターに乗り、1つ下った先のフロアにある化粧品売り場に向かった。その一角にたたずむのは香水のショーケースとテスターの陳列棚ちんれつだなだ。


 片っ端から試していくものの、はっきり言ってほとんど違いがわからない。無論、それぞれ商品によって香りの系統が異なることは容易に理解できるが、その良し悪しというのが全くわからないのだ。とにかく、匂いがきついものはやめておこう。香りが弱い分にはプッシュの回数などでいくらでも調整が効く。


 僕は比較的安価な商品のうち、フルーティーな柑橘とジャスミンの優しい香りが印象的なものを選んだ。陳列棚ちんれつだなのカードを一枚手に取ってレジへと向かい、代金を支払って商品を引き換えてもらう。既に買い物袋を手に提げていた僕は「そのままで結構です」といって商品を受け取り、紙袋に突っ込んで足早に店を後にした。


 ──ミッションコンプリートだ。午前中のうちに感じていた絶望感はどこへやら、ションピングセンターの外に出た僕はすっかり清々しい気分で、人気が無いことを確認してからマスクを取り外し、1つ深呼吸した。よし、許斐さんとの再会に向けた下準備として、大きな一歩目を踏み出せた。まずはそのことを喜ぶべきだろう。


「明日も早いし、今日はもう帰って、早めに休むことにしよう……。」


 そう考えた僕は、駅の方面へと方向転換し、帰路にいたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る