齟齬

第20話 自己満足

許斐このみさん、これ、どうぞ。」


「えへへ、否己いなきくん、ありがとぉー。」


 その後、僕と許斐さんは急いで終電に乗り込むべく歩を進めた。だが、酩酊状態の許斐さんは牛歩の如く足取りは重く、どう足掻いても駅まで辿り着けそうにないので、諦めて近くの公園のベンチに腰を下ろした。僕は自動販売機で500mlの水入りペットボトルを買って、彼女に手渡す。


 少しずつ会話が成立するくらいには思考が明瞭になってきた様子の許斐さんは、笑い上戸になったようで、にこにこと微笑んでいる。


 仮に終電を逃したとしても、タクシーを拾って彼女の自宅の最寄駅を伝えれば特に支障なく辿り着くだろう。正直、学生の身分である僕にとってタクシーでの長距離移動は手痛い出費となるが、許斐さんには先日昼食を御馳走になった恩義がある。それに何より、好意を寄せる人には不思議と何でも尽くしたくなるというのが、僕の性らしい。そう自分を騙すようにして、不合理な自身の行動を正当化する。


 真相究明に向けて、泥酔して口が軽くなった彼女から直接情報を引き出せば話が早いといっていた柳楽なぐらさんの言葉が頭を過る。だが、いくら彼女を助けたい一心でも、彼女自身が隠し通そうとしている窮愁きゅうしゅうについて、僕がパターナリスティックな行動によって解決を試みようとするのは、単なる僕の独りがりで、そんなこと彼女は望んでいないのではないかと、葛藤し始める。


 つい先日も似たような迷いが生じたが、いざ本人を目の前にすると、今までのような欺瞞ぎまんは通用しないと考えさせられる。──僕如きが彼女を救ってあげられるというのが、そもそも思い上がりじゃないのか?彼女はもはや、僕との関係をきっぱり諦めているかもしれないのに?もし彼女のために行動したことが裏目に出て、一層彼女を傷つけたらどうする?


 様々な負の感情が心の中で入り混じって、僕の脳をハイジャックする。制御を失った脳内では自己嫌悪に基づくネガティブな思考が氾濫している。だが、その一方で、気を病みそうになる僕の背後から、鈴を転がすように透き通った声が聞こえてきた。


「否己くん、だいじょーぶ?」


 その声に僕はふと我に返る。そうだ、僕の気持ちがどうだのと、そんなことは関係ない。彼女のこの笑顔を脅かす、確かな危険が迫っているのだ。それなのに、何も行動を起こせないような日和見主義者に、この人を好きになっていい資格などない。


「大丈夫です。そろそろ歩けますか?」


「歩けるけど……。否己くん、やっぱり私のこと、嫌いになっちゃった?」


「えっ……?」


 不意を突かれるような問いに、僕は言葉に詰まった。


「だって、否己くんは他の皆とは親し気に話してるのに、私に対してはずっと敬語のままだから……。」


 ──なんだ、そんなことだったのか。言われてみれば確かに許斐さんに対してだけは、未だに敬語を使っていた。だがそれは、今更になって語調を変えるタイミングを完全に見失っていたからに尽きる。特に他意はないのだ。


「そんな……! 嫌いになんて、なれる訳ないじゃないですか。」


「許斐さんが望むなら、話し方なんていくらでも変えますから。」


「うぅ……。本当に?」


「本当です!」


 今度は泣き上戸になってきた許斐さんに対して、僕は安心させるように宣言する。


「じゃあ、敬語はやめて、私のことは、佳容かよって、呼んで?」


 ──聞き間違いだろうか。僕が許斐さんを下の名前で呼べと、そう言われたのか。好きな人にそう言ってもらえるのはこの上ない光栄だが、つい先日交際の申し出を断られたばかりの僕にとっては、生殺しも同然の仕打ちだ。


「わかりまし──いや、わかったよ……。ただ、許斐さんを呼び捨てにすることは、まだできない……。」


「やっぱり、私のこと、嫌いになったんだね……。」


「違う! 許斐さんのことは、今でもずっと好きなままだ。僕は話し方を変えると言っただけだし、今はこれくらいで勘弁して……。」


 苦し紛れの言い訳で急場を凌ごうとする。──待てよ、今僕はとんでもなく恥ずかしいことを口走っていなかったか?自分の発言を思い返しながら顔を赤らめる僕を余所目よそめに、彼女は僕の言葉に渋々納得した様子だった。


「仕方ないなぁ。わかったよ……。」


 ──ふぅ、助かった。これ以上ハードルが上がれば、僕の心臓がもたない。それよりも、許斐さんは先程の僕が放った言葉を覚えているだろうか。彼女が今日の出来事に関する記憶を明日にはきっぱり失っているように、ただ祈るばかりだ。


「じゃあ、行こうか。」


 スマホの地図アプリでを表示する。タクシーの配車を依頼できるアプリが普及している昨今、付近にタクシーを呼び出すこともできるのだが、この場でじっとしているようでは、いつまた許斐さんが眠ってしまうか分からない。


 表示された地図情報によれば、この公園を抜けて路地を進めば大通りに出られるらしい。そこでならば、運が良ければものの数分で乗車することができるだろう。歩き始めようかと、許斐さんに肩を貸そうとしたが、彼女は覚束おぼつかないながらも、しっかりと自ら立ち上がって見せた。


「よいしょ、っと。うん、行こー!」


 大通りへと向かうため、道幅の広い散歩道が続く人っ子一人もいない公園の敷地内を進む。疎らに設置された街頭が照らす先を見れば、虫が一斉に群がっていて、すこぶる気持ちが悪い。少々距離があるらしく、歩く速度もかなり遅いため、僕は思い切って許斐さんに、例の一件に関してそれとなく探りを入れる。


「そういえば、許斐さん。誕生日プレゼントありがとう。」


 ぎこちないながらも、まずは前に頂いたプレゼントについて礼を言っていなかったことを思い出し、話を切り出す。


「う、うん……。」


 すると先週の出来事を思い出した様子の許斐さんは、引け目を感じているのか、何やら委縮してしまう。


「メッセージも見たけど、僕は許斐さんに対して恨んだりなんて、一切ないから。」


「何か特別な事情があったんだってことは、簡単に分かったよ。ただ、それなら一人で悩んだりしないで、前以まえもって僕に相談してほしかった。」


 そう言い切った瞬間、許斐さんはその場に立ち止まって、込み上げてくる感情をこらえるように肩を震わせる。


「だめなの……。否己くんに助けてもらったら、君を傷つけることになるから。」


 許斐さんはぽつりぽつりと、内に秘めた思いを僕に打ち明け始めた。僕は直感的に、彼女が今から話そうとしている内容は、彼女を陥れているものの正体、その核心に迫っていると感じた。


「僕にとって、許斐さんから拒まれること以上に傷つくことなんてないよ。」


「違う! 否己くんは分かってないの! 私は君を危険に巻き込みたくはないだけなの!」


 まさか、あの許斐さんにここまではっきりと拒絶されるとは思っていなかった僕は、声を荒らげて主張する彼女の強い意志に、狼狽を隠せない。


 だが、今の短い問答の中にも許斐さんに何が起きているのかを読み取るための手掛かりが、僅かながら存在していた。──そう、彼女は僕を危険に晒してしまう可能性があることに怯えていた様子だった。つまり、彼女には明らかに、何者かの害心が向けられている可能性が高く、それが彼女を悩ませる存在の正体ではないだろうか。親睦会で宮良みやら先輩が立てた仮説は、やはり的を射ていたのかもしれない。


「ごめん、ごめんね……。でも、これは私の問題だから……。」


 ──どうしても彼女に協力したい僕と、どうしても一人で解決しようとする彼女の言い争いは、このままでは平行線を辿るだけだ。そう考えた僕は、これ以上追求しようとすることもなく、もう一度許斐さんと共に歩き出した。


 ──だが、僕が思い出した件の仮説は、奇しくも、この後すぐに裏付けられることになった。


 公園の散歩道を通り抜けて、もう一度地図アプリを起動して現在地を確認する。経路案内の機能に従って歩を進めれば、車道を1つ跨いで細い路地へと誘われる。


 酔っ払った女子大学生と深夜、人目に付かない裏路地に入っていくなど本来であれば誤解を招きかねない、忌避きひすべき行為だ。だが、僕は許斐さんを一刻も早く安全に家まで送り届けなければならないという責務に駆られて、最短距離で突き進もうとする。


 夜更け過ぎ、辺りは暗闇に包まれて、僕は焦燥感からか気が急いており、注意散漫だった。しかし、これが仇となったのか、僕は路地の中程まで進んでから初めて、背後から小走りで近づいてくる気配に気が付いた。


 ──いけない。許斐さんに歩幅を合わせてもっとゆっくり歩いてあげなければ。そう思って振り返ろうとするが、彼女はしっかりと隣を歩いていた。異変に感付く頃にはもう遅かった。謎の人物は、背後から僕の後頭部めがけて何かを振り下ろす。


 声を上げる暇もなかった。間一髪、僕は前方に倒れこむようにして衝撃を和らげようとするも、硬質の物体で不意に殴られてしまった僕は悶絶し、吐き気が込み上げてくる。


「否己くん!」


 許斐さんも突然の事態に気が付いたようで、狼狽えるように絶叫する。


 僕を殴打した物体が光線を放つ。どうやら凶器は懐中電灯だったようで、凶漢きょうかんは慌てた様子でスイッチを切る。僕はまだ足がすくんで、立ち上がることができない。──いけない、このままでは許斐さんに危害が及んでしまう。彼女だけでも守らなければ。


 しかし、眼前の奴はまず僕にとどめを刺そうとしているのか、じりじりと距離を詰めてくる。


「くそ、立てない……!」


 僕は歪む視界の中、せめてその顔だけでも拝んでやろうと、再び懐中電灯を振り下ろそうとする謎の人物を睨みつける。だが奴は、黒尽くろずくめのジャージにフードを深くかぶって肌の露出を最小限にしており、その外見からはおよそ男であろうということしか分からない。


「許斐さん、走れるか! 逃げてくれ……!」


 僕は断末魔の代わりに、許斐さんだけでも助かるようにと、この場から急いで逃げるよう発破を掛ける。


 大声を張り上げる僕に苛立ちを隠さない悪漢は、急いで僕を黙らせようと、頭部目掛けて懐中電灯を振りかぶる。


「やめろ……!」


 死を覚悟した僕だったが、鈍器が僕の頭を叩き割ることはなかった。なぜなら、ついさっき逃げろと言ったはずの許斐さんが暴漢に体当たりをして、壁際に突き飛ばしたからだ。


 許斐さんが稼いでくれた数秒の時間が、僕に回復の隙を与えて命を繋いだ。なんとか立ち上がれるまでになった僕は、同様にのそのそと壁伝いに立ち上がってくる男と対峙する。──後頭部の痛みと殴られたことへの怒りでアドレナリンが多量に分泌ぶんぴつされた僕の脳は、もはや逃げるのではなく、目前の奴を警察に突き出すことで仕返ししてやろうという考えに支配された。


 ナイフや拳銃といった特段殺傷力の高い武器を装備している訳でもない。見たところ奴も壁に叩きつけられてダメージを受けたようだ。僅かに早く動けるようになった僕は、犯人を捕まえて改めてその御尊顔を拝見しようかとフードに手を掛けようとする。


 すると奴はじたばたと暴れまわって僕の拘束を解く。──そうか、なら掛かってこい。と息巻いて臨戦態勢をとる僕を無視して、犯人はそそくさと逃げ去ってしまい、拍子抜けする。


 なんとかこの場を無事に切り抜けた僕は、命が助かったことの喜びよりも、許斐さんに怪我がなかったことの安堵が勝る。僕はまず、命の恩人である許斐さんに礼を言わなくてはと、彼女の方を向き直ろうとする。だが、彼女は号泣して、話どころではなかった。


「ごめん、ごめんね……。」


 そう譫言うわごとのように繰り返す許斐さんに、僕はなんとなく察するものがあった。


「一先ず、ここは危険だから、大通りに出ようか。」


 先程の僕と同じように、足が竦んで立ち上がれなくなってしまった彼女に改めて肩を貸して、僕たちは歩き出す。大通りに出た僕は、運よく近場を通りかかったタクシーを止めて、彼女と一緒に乗り込む。目的地を端的に伝えてドライバーの了解を得ると、緩やかに発進したタクシーの車内で、彼女は諦念ていねんに達したように、少しずつ語り始めた。

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