第30話 自己顕示

 ──ピッ、ピッ、ピッ……。


 断続的に鳴り続ける機械音によって目が覚める。こんな時間にアラームを設定した覚えはないのだが。そう思いながら目を開けると、真っ白な天井に涙を目一杯に浮かべた許斐このみさんの顔があった。まるでキャンバスに描かれた絵画のように美しい。その美貌に思わず見惚れていると、彼女はハッとした表情で叫ぶ。


否己いなきくん、私が分かる!?」


「先生! 否己くんが目を覚ましたみたいです! すぐに来てください!」


 ──なるほど。何やら色々と思い出してきたぞ。一先ず分かることは、僕は今現在病院と思しき施設のベッドでいくつかの管に繋がれながら仰向けに寝かされている状態だということのみだ。


「おぉ。これは驚いた。凄まじい回復力ですねぇ……!」


 医者の説明によれば、僕は宮良みやらにより受けた脇腹と左胸部の計2箇所の刺傷によって緊急搬送され、集中治療室に担ぎ込まれた後、凡そ27時間にわたって生死の境を彷徨っていたらしい。また、仰向けに倒れこんだ際に線状骨折していたはずの後頭部を地面に叩きつける格好となってしまったため、峠を越えてからも、医者の見立てではあと数日は寝込んだままだと推測されていたところ、僕は1日と待たずに目を覚ましたらしい。不幸中の幸いというやつだろうか。


 聞けば救急車は僕が脇腹を刺された時点で許斐さんが手配してくれていたという。しかも、宮良との対面後、証拠確保のための動画撮影をある程度終えた後、許斐さんが頃合いを見計らって警察を呼んでいたというので、そちらの方が到着は早かったくらいだ。もう少し時間を稼ぐことができていれば、僕は瀕死の重傷を負うこともなかったのだが、所詮しょせんは結果論に過ぎない。


 他方、宮良の安否についてだが、結局奴も死亡していなかったらしい。僕が奴の首を絞めたことに起因する窒息と血流の阻害によって何らかの後遺症が生じるかもしれないが、命に別状はないというのだ。もっとも、許斐さんのストーカー被害を記録した証拠、及び宮良による2度の殺人未遂に係る証言は矛盾なく並び立ち、僕自身の潔白は証明されていたため、事件は正当防衛として処理される方向だというのは変わりないという。宮良本人も意識が回復し次第、司法の裁きに掛けられる。厳罰は不可避だろう。


 とどのつまり、僕は許斐さんを危険に晒したくないとのたまいながら、彼女に何もかも助けられっぱなしだったという訳だ。許斐さんに助けられたと言えばもう1つ、僕の左胸部にあった刺傷は本来であれば刃渡り10㎝以上のナイフが突き刺さって心臓に到達したことが予想されるため、即死だったと医者は言った。実際に僕が死を免れたのは、ストーカー逮捕の作戦決行日、僕が家を出発する前に胸ポケットに折り畳んでしまっておいた許斐さんからのプレゼントであるハンカチが緩衝材かんしょうざいとなってナイフの勢いを弱め、ほとんど刺さっていなかったからだと、医者は分析した。


 御守り代わりに持ち歩いていたハンカチによって、僕は正真正銘命拾いした訳だ。許斐さんには彼是かれこれもう何度も命を救われている。その恩は一生掛かっても返しきれないだろう。そのことを許斐さんに伝えると「否己くんが無事でいてくれるだけで、十分な恩返しだよ」と言われてしまった。彼女は聖女の生まれ変わりか何かなのだろうか。


「それにしても、健気けなげな彼女さんですねぇ。あなたが眠っている間、泊まり込みで様子を窺っていましたよ……。」


 年配の男性医師はさも微笑まし気に僕と許斐さんを見比べる。冷静に考えて、何故誰も彼も僕のような人間と許斐さんが付き合っていると、そういう発想に行き着くのだろうか。彼女に好意を寄せる立場で言うのは虚しいが、そう思わざるを得ない。一先ず、僕は許斐さんにありったけの感謝の気持ちを伝える。


「僕1人の力じゃとてもじゃないけど宮良を撃退するどころか、ストーカーの正体も分からなかった。僕を信じて協力してくれて、何度も助けてくれて、本当にありがとう……。」


「どういたしまして! でも、それを言うなら私だって似たような立場だけどね。お互い持ちつ持たれつ、助け合ったからこその結果だと思うよ。こちらこそ、本当にありがとうね……!」


 そういいながら、許斐さんはわんわんと泣き始めてしまった。


「っ、ほんとうにっ、無事でいてくれて、ありがとぅ……。」


 消え入るように放たれたその言葉は、恐怖心と安堵が複雑に入り混じったような声色だった。



 ◆◇◆



「嫌なことを思い出させるようだけど、結局宮良と許斐さんはどういう関係だったの?」


「うーん、それはね……。」


 僕は病室のベッドの上で、許斐さんが遅めの昼食代わりにと買ってきてくれたゼリーを口にしながら、どうしても気になってしまったので思い切って尋ねる。


 聞けば許斐さんのストーカーである宮良友樹みやらゆうきは許斐さんの幼馴染で、もとは近所に住んでいたが、高校進学をきっかけに許斐さんが引っ越したことで別々の進路を歩んだ。宮良は許斐さんに大学で再会したことをきっかけに運命を感じて1年次に告白するも、高校時代から僕にかねて思いを寄せていた許斐さんはこれを拒否。そこから歪んだ愛へと発展したのではないかと許斐さんは回想する。


 宮良友樹みやらゆうきは僕を人質にとって許斐さんを脅迫した。その上で、僕の身の安全を保障するためには自身と交際するように許斐さんに迫った。これにより、僕による告白を許斐さんは断らざるを得なくなったという背景事情を改めて説明される。


 ──そうだったのか……。


 ──そうだったのか!?


 今、隠れた後遺症か何かで僕の耳がおかしくなった訳ではないのなら、とてつもない事実を暴露された気がする。許斐さんは


「ちょっと今、聞き捨てならない話があったような気がするんですが……?」


 僕の唐突な指摘に、許斐さんはやっぱりといった様子ではにかみながら赤面する。


「すんなり聞き流してくれる訳はないよね……。そこら辺の事情もゆっくり話すね……。」


 僕は高校時代、許斐さんへの想いは最初から自分の一方的な感情に過ぎないと考えていた。だが、真実は違った。許斐さんも僕のことを一方的に認識しており、心根ではずっと慕ってくれていたというのだ。僕たちは高校時代から幾度となくすれ違いを繰り返した結果、所謂両片想いといった形で落ち着いていたらしい。そんな拗らせ続けた関係もストーカーの一件で殊更に拗れたというのだから、多くの誤解が生じるのも無理はなかっただろう。


「ま、まぁ。今まで否己くんにばっかり恥ずかしい思いさせてたから、私もそろそろ正直にならないとね……。」


 そう言って、許斐さんは何者かへの言い訳を始める。突然のカミングアウトに、僕は何処から情報を整理すべきか全く分からず、完全にフリーズしてしまう。──あの容姿端麗、成績優秀、完璧超人の許斐さんが僕のことを高校入学当初から知っていて、片想いしていた?


 ──分かった、完璧に理解した。これは夢だ。そうとしか考えられない……!


 僕は宮良に頭を強く殴られたことで、どうやら自分に都合のいい妄想でえつに入る哀れな狂人となってしまったようだ。すると、許斐さんが先程お見舞いの品としてついでに買ってきてくれた林檎の皮を果物ナイフで丁寧に剥いてから切り分け、8等分されたうちのひとかけを僕の口に差し込む。


「ん、むぐ……。」


「あのねぇ。否己くんのことだから、また私の言葉を1人で勝手に解釈して、自分を卑下しようとしてたでしょ。」


 どうやら許斐さんには僕の考えることなどお見通しのようだ。最近、許斐さんには考えを先読みされることが増えてきたようだ。


「否己くんの謙虚で誠実なところはとっても素敵だと思うけど、行き過ぎると卑屈になっちゃうのが玉にきずだね……。」


 ──仰る通りでございます……。


 しかし、許斐さんがこのように言ってくれているのだ。僕も本気になって良いのだろうか。ストーカーは撃退したし、邪魔者はもういない。数奇な運命によって弄ばれ、2度失敗してしまった許斐さんへの告白も、3度目の正直を期待して良いのだろうか。考えていても仕方がない。別にまたしても断られる結果になったとしても、生死にかかわるようなことじゃない。──多分。


 こういうのは勢い任せに言った者勝ちだ。善は急げというように、僕は目の前の許斐さんに向き直り、目線を合わせる。僕の目元の表情が険しくなったことに気付いた許斐さんも、それに応じるように姿勢を正す。


「許斐さん、僕が退院したら、2人だけの退院祝いを、開いてくれないかな。」



 ◆◇◆



 いよいよ本格的に秋の訪れを感じる10月に入り、ほんの少しずつだが、街を彩る街路樹も色づき始めんとする季節となった。大学の長期休みは未だ少しだけ残っているが、僕は許斐さんに敢えて大学近くにある行きつけの喫茶店で待ち合わせるように御願いした。


 手術痕の抜糸も終えたばかりで、まだ歩くとズキズキと傷が痛みだすはずなのだが、今だけはそんな痛みは一切感じない。かつてない程に高鳴る心臓の鼓動と極度の緊張感でアドレナリンが多量に分泌され、痛覚が弱まっているのかもしれない。


 許斐さんとの待ち合わせは14時30分。これから昼食をとろうというには少し遅めの時間だ。ピークを避けたことによって、かえって店内は空いていることが期待できる。まあ繁盛しているところなど見たことがないが。天気も良好。今日は絶好の告白日和だ。


 はやる気持ちを抑えようとできるだけ歩調を緩めて来たのだが、待ち合わせ時間より15分も早く到着してしまった。先に店内に入って待っていようかどうか、逡巡し始めた瞬間、後ろからこつこつとハイヒールと地面がぶつかるような音が聞こえる。振り返ればそこには、普段よりも一層お洒落に着飾った、一段と美しい許斐さんの姿があった。薄手の黄色いVネックニットにカーキのワイドパンツを合わせたシンプルだからこそ雑味のない、許斐さんの素材を存分に生かした大人なコーデだ。つややかな黒髪にゴールドのイヤリングが良いアクセントになっている。今までの僕だったら気後れして言葉を失うほどの美しさだ。


「早かったね! 待たせちゃった?」


「ううん。僕も今来たとこだよ。」


 僕も今日は前回同様に、自前の勝負服に袖を通して望んでいる。入念に時間を掛けて髪をセットして、普段は着けないようなネックレスまで持ってきてしまった。とはいえ、僕の御守りは今日も許斐さんに貰ったハンカチだ。畳まれた状態でナイフに裂かれてしまったため、広げると無数の穴だらけとなっているが、勇気をもらうためのちょっとしたげん担ぎみたいなものだ。これから告白する相手に貰った贈り物を、告白する勇気を出すために持ち歩くというのは何だかおかしな気もするが、細かいことはどうでもいい。


「とりあえず、かな……?」


 3度目となったお決まりの台詞は、どちらからともなく、お互いが同時に発することになった。──この場合のとは、言うまでもなく、僕と許斐さんのこれからを指している。僕たちは途端に可笑しくなって、微笑み合いながら歩を進める。喫茶店のドアを引いて許斐さんに道を譲ると、彼女は笑顔で「ありがとう。」といって店内へ、この時間帯になると適度に暖かい日が差す窓際の席に腰掛ける。ここはもう、僕たちの定位置になりつつある。


「まずは、否己くん。退院おめでとう!」


 許斐さんは席についてから開口一番、僕の快復を祝ってくれた。


「ありがとう、許斐さん!」


 僕も許斐さんの平穏無事な日常生活が戻ったことを心から喜ぶ。僕は和やかな空気が流れている今が絶好機だと考え、まだ何も注文していないが早速本題を切り出す。


「実は今日、僕から許斐さんにプレゼントがあります……!」


 そういって僕は、手提げ鞄から小箱を取り出す。包装紙には赤いバラが1輪添えられている。


「う、うれしい! けど、どうして……?」


 許斐さんはプレゼントの意味を理解しかねている様子だ。


「以前、許斐さんを送っていくときに道順を聞くために学生証を見せてもらったでしょ、その時に、わざとじゃないんだけど、生年月日が見えちゃったから……。」


 そう、許斐さんの誕生日はどうやら10月1日だったというのだ。当日は既に過ぎてしまっているが、彼女の21歳の誕生日を祝う気持ちをせめて形にしたかったという僕の勝手な想いだ。


 正直、プレゼントを渡すかどうかは最後まで悩んだ。ストーカーに怯えて過ごしていた許斐さんに対して昨日の今日で「貴方の誕生日を盗み見てました。」と白状するのは、かえって彼女の恐怖心を煽らないものかと苦心したが、彼女の明るい表情を見れば全て僕の杞憂であったことが分かったので、一先ず安心する。


「ねぇ、開けて見ても良い……?」


「勿論。どうぞ。」


 緊張で固まっている僕の傍で、彼女はあくまで大切そうに包装紙を丁寧に剥がしていく。中の小箱から出てきたのは、KAYOと許斐さんの名前が刻まれた1本のボールペンだった。


「僕はさ、許斐さんに名前入りのハンカチを貰ったときに、こうなんていうか、自分だけの特別感みたいなのが感じられて嬉しかったから、許斐さんにもその気持ちをお返ししたいなって...。」


 暫くの間、彼女からのリアクションが途絶えたことによって焦った僕は早口で捲し立てる。──どうしよう、あまり気に入ってもらえなかっただろうか。


「うん、うん……。本当にありがとう! とっても嬉しい! 毎日持ち歩いて御守りにするね……!」


 感動を噛み締めるように2度頷き、大袈裟に喜びを露わにする彼女に、僕は一安心する。まずは第1関門突破だ。


「喜んでもらえたみたいで何よりだよ。でも、許斐さんも分かっている通り、本題はここからなんだ。」


 やはり許斐さん自身も、何となく察するものがあったようで、固唾を呑んで僕の次なる言葉を待つ。


「僕は許斐さんのことが好きだ。その気持ちは言葉や行動で今まで散々示してきたつもりだけど、そんなものじゃあ表せないほどに貴方のことを愛しています。」


「もしあの時と同じように、まだ僕のことを好きでいてくれたなら、僕とお付き合いしてくれませんか……?」


 僕はシンプルかつストレートに率直な想いをぶつけた。今僕たちの間に言葉はいらない。必要なのは、お互いの気持ちを通わせることだけだ。


「そんな、私は否己くんのことを益々好きになっていくことはあっても、嫌いになることなんて絶対ないのに……。」


「私はずっと否己くんのことが好きだった。それなのに、想いを伝えるのを先延ばしにしてきたばかりに、どんどん機会を逃して、挙句ストーカーに付き纏われて否己くんを振り回して。」


「否己くんの告白を2度も断った私が、今更図々しく自分から告白するとか、否己くんの告白を受け入れる資格なんてあるのかなって、最後まで、何なら今も悩み続けてるけど……。」


「こんな身勝手な私でも、好きでいてくれますか……?」


 許斐さんは涙ながらに赤裸々な心境を語る。僕の返答は、何年も前から決まっていた。


「そんなの、当たり前だよっ……! 許斐さん、どうか僕と、お付き合いしてください……!」


「うんっ、お願いします……! っ、ありがとうね……! 否己くん!」


 僕は奇跡という現象がこの世に存在することを目の当たりにした。許斐さんが、僕の3度目の告白を漸く、全面的に受け入れてくれたのだ。舞い上がるような歓喜と冷めやらぬ興奮に気が動転した僕は、眼前で泣き出す許斐さんにつられて涙を浮かべる。


「おいおい、人の店で注文もしないまま、なに青春してやがる。」


 感涙にむせぶ僕たちを見兼みかねた喫茶店のマスターが、珍しく客席まで顔を出してくる。店の常連という地位に甘えて好き勝手にテーブルを占拠していたが、何も注文しないまま喫茶店に居座るのは常識的に考えて目に余る破廉恥な振る舞いだ。


「ごめんなさい、マスター。取り敢えずいつもの2人分お願いできますか?」


佳容かよちゃん。この前来た時よりも良い顔するようになったじゃない。悩みとやらは解決したのかい?」


「マスターも気付いていたんですね……。でも大丈夫です! 否己くんが助けてくれました!」


 許斐さんの報告に、マスターは僕の方を一瞥いちべつしてふっと口元を綻ばせる。


「ほぉ。迷える乙女の苦悩を颯爽さっそうと解決に導くとは、やるじゃないか!」


 マスターはわざとらしく仰々しい口ぶりで茶化すように言う。僕は許斐さんを助けるというマスターとの約束を完遂したし、マスター自身も許斐さんの久々に元気な姿を見れて、きっと嬉しいのだろう。


「それより、さっきの会話。厨房の方まで響いてきたぞー。お熱いねぇ。」


 ──なんだって。無我夢中で許斐さんへの想いを語るあまり声量など関心の埒外だった僕は、急いで辺りを見回して他の客が1人も居ないことを確認して、安心する。


「おいそこ、何を確認してやがる。閑古鳥かんこどりが鳴いてるだ……? 余計なお世話なんだよ。」


「そんなこと一言も言ってませんって……。」


「まあなんだ。いいもん聞かせてもらったし、今日の御代は気にすんな。食いたいもん好きなだけ食って帰りな。」


 マスターは上機嫌そうに宣言する。僕たちは顔を見合わせて、メニュー表の一番手前のページに書かれた料理を指差して合唱する。


「じゃあこの、トリプルハンバーグステーキのランチセットで!」


「店で一番高いやつじゃねぇか! はぁ……。お前ら本当に、お似合いのカップルだよ……。」


 西日が差し込む窓際のテーブルを囲んで、許斐さんと笑い合って食べるハンバーグステーキは、僕が生涯口にしてきたどんな料理よりも美味しく感じた。

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命短し愛せよ己 yokamite @Phantasmagoria01

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