邂逅

第5話 自己陶酔

「このゼミについて伝えるべきことは伝えきったと思うので、少し早いですが今日はもう解散してもらって結構です。」


「また来週もよろしくお願いします。それでは。」


 講義は100分間の予定だったが、かなり早めに終わってしまった。僕はこの後5限の講義も控えていることを思い出し、何処で時間を潰したものか逡巡しゅんじゅんする。


否己いなきくん。ちょっといいかな?」


「あ、はい。なんでしたっけ。」


 ──そうだった。彼女は講義が始まる直前、僕に何か言いかけていたっけ。


「あのね、私、どうしても否己くんに……。」


「……。」


「謝らないといけないことがあるの!」


「え……!?」


 ──なんだって?僕が一体何の謝罪を受けるべきだというんだ。改めて思い返してみてもやっぱり彼女とは初対面であるはずだし、何も思い当たるふしがない。


「否己くんはもうお昼ご飯食べた?」


「え? いや、まだですけど……。」


「それはよかった! あ、いや……。」


「教室は次の授業で使う人が入ってきちゃうし、もし良かったら食事のついでに話せないかなって。謝罪もねてごちそうするからさ! どう……?」


 ──どうと聞かれても、訳が分からない。この僕が女性からご飯のお誘いだと。あまりにも都合のいい展開に困惑こんわくするしかない状況だが、確かにこの教室にいつまでも居残り続けることはできないし、場所は変えるべきだろう。だが、その前に確認しておくべきことがある。


「あの、人違いってことはありませんか?僕は別に謝られるようなことをされた覚えは特に……。」


「あー……。うん、そうだよね! 突然こんなこと言われたら困惑するのも当然か。ごめんね?」


 何故か彼女はショックを受けたかのような表情を浮かべ、答えた。


「でも人違いってことは絶対にないから安心して。ね、否己影太いなきえいたくん?」


 ──なんと、フルネームまで言い当てられてしまった。もともと僕の苗字は珍しい方だという自覚はあったので、その線は薄いと考えていたものの、改めて突き付けられる現実に動揺を隠せない。


「とりあえず、かな?」


 ──この場合のとは、先程のお誘いのことを指しているのだろう。目の前の不思議な女子学生の正体や謝罪したいということについてなど、こちらとしても気になることだらけだ。ちょうど次の講義まで持て余すことになっていた時間と一抹いちまつの好奇心を理由に、僕は彼女に返答する。


「わかりました。いきましょうか。」



 ◆◇◆



 時刻は14時30分を迎えようかというところ。これから昼食をとろうというには少し遅めの時間だ。


「否己くんがお昼食べてから来なかったのはたまたま?」


 彼女によれば、徒歩で5分ほど離れた路地に行きつけの洋食屋があるというので、僕は彼女の案内で歩を進めている。


「そうですね。昨夜はよく眠れなかったので1限の講義の内容が頭に入らなくて、復習や提出物を片付けていたらいつの間にか時間になってました。」


「うそ。頑張りすぎじゃない? 通りで眠そうだった訳だ。ボーっとしてたもんねぇ。」


 ──見透みすかされていたのか。歩きながら今日の自分の行動を振り返り、少し背筋を伸ばして姿勢を正した。


「普通の人だったら寝不足の時点で朝の講義は諦めようかなーって考えるだろうし、ましてや合間をって勉強しなきゃーとか考えないと思うよ?」


勤勉きんべんで偉いと思うし、真似しようと思ってもなかなかできない、すごいことだよ。」


 ──誰かに褒めてもらうなど、一体いつぶりなのだろうか。嬉しさの反面、ひねくれた猜疑心さいぎしんが「どうせ社交辞令だろう」と邪推じゃすいする。


「すごくなんかないですよ。単位のためなら遅かれ早かれ誰でもやることですし、自己満足に過ぎないです。」


 ──こんなこと、言う必要があるだろうか。動揺からか、褒め言葉を素直に受け取る余裕もない。


「ちょっと違うかな。そりゃあ大学生である以上は誰でも勉強することからは逃げられないけど。」


「それを日常的な優先事項として、何かを我慢して取り組む意思っていうのかな、そういうのが強いんだなって思ったの。私はテスト前とかじゃないとなかなか勉強とかしないし、朝も弱くて1限はそもそも意識的に取らないようにしてるしね……!」


 そうはにかみながら、されど理路整然りろせいぜんと答えた彼女に対して、僕は彼女の誠実な言葉を疑ったことを後悔した。それでも、すぐさま謝罪の一言も出ない自分に、情けなさを覚える。


「ところで、僕はあなたのこと、なんてお呼びすればいいでしょうか。」


「えー……? もしかして私の自己紹介聞いててくれなかったの?」


 ──おっと、うっかり墓穴を掘ってしまった。そういえば僕は彼女の放った一言に頭がいっぱいで全員分の自己紹介を聞き逃していた。


「とりあえず、今はこのみって呼んで!」


 ──このみさん、か。やっぱり聞き覚えはないな。


「このみさんは、今日はどうしてそんなに急いでいたんですか?」


「え?」


「いや、だって今日来るときすごくつらそうに息を切らしながら走って来てたみたいだったから」


「あー……。 否己くんの話を聞いた後だとお恥ずかしい限りなんですが、お昼まで寝てました……。」


 ──なるほど。察するに今日の講義は3限のみだったから、余裕をもって間に合うと高をくくっていたら寝過ごしたとか、そんなところだろう。


 しかし、先ほどは突然のことで目を合わせて会話もできず、自己紹介の緊張なども相まって冷静にこのみさんの風貌ふうぼうに目を配る余裕がなかったが、改めて観察するとマスク越しにも分かる整った目鼻立ちにウェーブがかったたおやかな黒髪ロングが良く似合う、大人の女性という印象だ。身長も大して変わらないか、履物はきものの差でこのみさんの方が少しだけ高いかもしれない。


 僕は大学を出てから今までこんな美人と肩を並べて歩いていたのかと思うと、とたんに恐縮きょうしゅくしてしまう。


「別に起きようと思えば起きれたんだけど、意思が弱いなー私は。」


 そう自嘲気味じちょうぎみに話すこのみさんのかたわらで僕は、得も言われぬ微細びさいな違和感を感じ始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る