第27話 自己犠牲-3

 半月程の時が経ち、9月中旬。厳しい夏の残暑も次第に和らぎ、秋の足音が近づいてくる。そんな長閑のどかな季節の移ろいとは無関係に、あれからもほぼ毎日欠かさず許斐このみさんに対するストーカーによる嫌がらせ行為は続いた。だがそんな狼藉も、もはや今日までだ。


 僕と許斐さんは慰労会という名目でゼミのメンバーを招集した。定期試験期間も終了し、本格的に長期休業に突入した学生諸君を労うために饗宴きょうえんを催した、という建前だ。会場は以前と同じ大学付近の居酒屋。もし僕の想定通り、ストーカーの本拠地が大学付近にあるのだとしたら、その方が許斐さんを襲撃しやすいと考えたからだ。


 僕と許斐さんが計画したストーカー確保の作戦はこうだ。まず、囮役を演じる許斐さんは、あの時と同じように泥酔した状態になる。許斐さんはペース配分さえ守っていればそこそこ酒は飲める方らしいのだが、今日は前回同様敢えてたがを外してもらう。危険を承知で囮役となる許斐さんを態々無防備にすることに、一抹の抵抗感を覚えないでもないが、これは彼女自身による申し出なのだから仕方ない。


 次に、宴会の終了後、僕は一人で帰る彼女を見送ったフリをして彼女の姿をずっと視界に収めておきながら尾行する。ストーカーは彼女に存在を知られないように尾行するという点で、彼女に全神経を集中させながら後をつけるはずだが、僕は事前に彼女と打ち合わせをしているため気にせず自由に追跡できる。従って、僕は許斐さんの後を追う犯人を、その後ろからさらに追うという二重尾行のような形で、彼女を襲おうとする犯人をいつでも取り押さえられるようにする。


 最後は、頃合いを見計らって許斐さんに奇襲を仕掛けてくるであろうストーカーに対して、全力で飛び掛かって許斐さんの安全を確保しつつ、その憎らしい面を拝んでやるのだ。正直に言って、その後のことは考えられていない。ストーカーの正体が判明したとしても、それだけではいけない。その場で取り押さえて無力化して、警察に身柄を引き渡すまでがミッションだ。そうでなければ許斐さんの平穏な日常は取り戻せないし、折角の計画も水泡すいほうに帰す。 


 ──そして、今日が作戦決行の日だ。ストーカーが今日確実に許斐さんを襲ってくるという確証などどこにもないが、その兆候は確かに、各所に散りばめられていた。例えば、僕と許斐さんが正式に結託してストーカー確保に向けて行動を共にするようになってから、そのことに気付いた犯人は怒りと焦りを隠さなくなった。僕が許斐さんに近づくのを止めさせなければ次こそは必ず殺すといった旨の脅迫や許斐さんが孤立した際の付き纏い行為は、以前にも増して苛烈なものとなった。


 決め手となったのは、先日許斐さんから見せてもらった一枚のコピー用紙だ。自宅のポストに受函じゅかんしていたという用紙に書かれていたのは、ストーカーからの宣告だった。


 ──近いうち、迎えに行くよ。


 筆跡が残らないようにか、機械的な文字で印刷された用紙に書かれていたのは、ストーカーによる近日中に許斐さんを連れ去るといった犯行予告とも取れるような内容だった。何処から嗅ぎ付けたのか、犯人は既に許斐さんの住所まで突き止めてしまったようだ。もはや許斐さんを守るためには、一刻の猶予も残されていない状態だ。


 今日で決着をつけなくてはならない。許斐さんには笑顔で過ごしていてほしいから。僕は再び固く決意するように、ほおを叩く。時刻は17時55分。慰労会の開始時刻は前回と同じ時間に設定したため、そろそろ家を出なければならない。僕は許斐さんからもらったハンカチを御守り代わりに胸ポケットに畳んで仕舞う。──よし、行くぞ。



 ◆◇◆



 少し余裕を持って会場に到着しそうな僕は、念のため許斐さんに確認の連絡を取る。流石に許斐さんと一緒に会場に現れるというのは不自然なので、彼女は柳楽なぐらさんと一緒にここまで向かってくることになっている。これで計画の遂行と許斐さんの安全が両立できる。


 居酒屋の前までやって来ると、既に何人かのメンバーが今まさに入店するところといった様子で屯していた。その中には見知った顔も交じっていた。


「よっ! 影太えいたくん!」


 真っ先に声を掛けてくれたのは宮良みやら先輩だった。


「今回は早かったじゃん。まだみんな集まってないみたいだけど、先に入って待ってようかーってとこ。」


 そういって中に入ろうとする宮良先輩の後をついていこうとする僕は、後ろから肩を叩かれる感触に振り返る。


「否己くん、おっはー。」


 そこには、少し遅れて到着した柳楽さんと許斐さんが立っていた。


「おっはーって……。今は夜だよ?」


「だって私、さっき起きたんだもん。休みに入ってから眠くて仕様がないっていうか。」


 気怠けだるそうに振舞う柳楽さんは、寝起きで少ししゃがれた声で返事をしてそそくさと店内へ入ってしまう。


「否己くん……。」


 すると今度は、柳楽さんと対照的に、緊張した面持ちで許斐さんが僕に話しかけてくる。


「許斐さん、笑顔笑顔! 今日はあくまでも自然体で居て。それさえできれば、後は僕がなんとかするから。」


 許斐さんははっとした表情で頬を叩く。


「ふふっ……。」


 僕は許斐さんの咄嗟の仕草に、思わず少し吹き出してしまう。


「ええっ、なんで笑うの?」


「いや、僕も出掛ける前、鏡の前で同じようなことしたから、可笑しくって……。」


 僕が笑いを堪えるようにそう伝えると、許斐さんもつられるように口元を綻ばせる。


「なんか、さっきまで緊張してた私がバカみたいじゃん。否己くんってば……。」


 僕たちは2人きりで一頻り笑い合った後、これ以上は怪しまれかねないと急いで店内へと歩を進める。今日はもう既にメンバー全員が集まったようで、各々が一杯目の飲み物を注文する。飲み物が全員分行き渡った後、乾杯の音頭を取ったのは許斐さんだった。


「皆さん、定期試験お疲れさまでした! 今日の慰労会は、こちらの否己くんの提案で企画しました! 皆否己くんに感謝して、じゃんじゃん飲んで、楽しんでいってください!」


「それじゃあ、かんぱーい!」


 僕は許斐さんの宣言によって、思いがけずまたしてもメンバー全員の注目を集めてしまう。だが、前回とは異なり、座が白ける展開にはならなかったどころか、盛大な歓声と共に宴会は好調な滑り出しを見せた。


 図らずも成り行き任せに、柳楽さんと許斐さんの近くに座ることとなった僕は、隣にいた柳楽さんに問い質す。


「なんで皆、こんなにテンション高いの?」


「否己くん、知らないうちに人望厚くなったんじゃない?」


「許斐さんから聞いたよ。高校時代、入学試験で全問正解したことあるんでしょ。流石に凄すぎない?」


「同じ班で作業するときとかも、物事を説明するときの分かりやすさとか、的確な意見をバンバン出せるとことか、あーこの人は地頭が良いんだなーって感じさせられるし。」


「あと、急に見た目が変わったよね。髪型もさっぱりしたし、服装とかにも気使うようになっちゃって。これが愛の力ってやつ?」


 僕は柳楽さんによる突然の褒め殺しに耐え切れず、顔がみるみるうちに赤くなる。なんだ、傍目から僕はそんな風に見えていたのか。身嗜みだしなみを意識するようになってからというもの、ファッションの流行り廃りを学んで自分なりのコーディネートで服を買ったり、髪のセットもここ数週間でなかなか板についてきたり、お洒落という概念に一歩ずつ近づいている感覚はなんとなくあった。しかし、通行人とすれ違ったり同級生にじろじろと見られる度に、それがどういう意味の視線なのか、分からないまま悶々とした日々を過ごしていた。


 僕は自分の外見が着実に改善していたことを初めて知ることができた喜びを噛み締める一方で、それが許斐さんに対する恋心に起因するものであることを柳楽さんに指摘され、図星であるために益々恥ずかしくなる。


「ち、違うよ! そういってくれるのは嬉しいけど、本人の前であんまり揶揄わないでよ……!」


 この後に控えた大仕事を考慮すれば、僕が飲みすぎてしまうのはあまり良くないのだが、柳楽さんによって僕の羞恥心しゅうちしんは激しく刺激され、堪らずビールを煽る。


「おーいい飲みっぷりだねぇ。見ていて気持ちが良いね。てか否己くん、なんか良い匂いするね。」


 そういって距離を縮めてくる柳楽さんに、僕は漸く感付いた。──この子、もう酔っ払ってるのか。許斐さんの手前、この状態は非常に拙い。僕はやんわりと柳楽さんの体になるべく触れないように引き剝がそうとする一方で、恐る恐る目線を許斐さんの方に向けようとする。その刹那、許斐さんが口を開いた。


「否己くんは私のだよ。かえでちゃん。」


 ──この言い草、さては許斐さん、貴方もですか……。


「わかってますよー、許斐先輩。ちょっと揶揄ってみただけです。否己くんってば面白い反応するから、つい。」


 酔っ払い同士の応酬にどうしたものかと慌てふためいていると、対面の席に座っていた男子学生に話し掛けられる。


「否己影太くん、だったよね……?」


「は、はい。」


「羨ましいなぁ。モテモテじゃん?」


 彼は葭仲光成よしなかみつなりと名乗った。聞けば僕と同じ2年生で、許斐さんの所属しているフットサルサークルの後輩ということもあり、彼女づたいに僕の事はある程度知っているらしい。


「許斐先輩ってば、隙あらば影太の話ばっかりするもんだから、俺にとってはもう影太とは初めて話すような感覚はないんだよね。馴れ馴れしかったら、ごめんね?」


「馴れ馴れしいだなんてそんな! 僕も光成って、呼んでいい?」


「勿論だよ! 葭仲って珍しい苗字だし、覚えにくいでしょ? それに下の名前で呼んでくれた方が親近感あるし、嬉しいよ!」


 彼は清々しいほどの好青年といった印象で、端的に言ってイケメンだ。僕にモテて羨ましいとか言っていたけど、これほどのルックスで人当たりも良ければ、世の女性は彼を放ってはおかないだろう。──それに、フットサルサークルに入っているとか言っていたけれど......。


「ってことは、氷山紗綾ひやまさやさんのことも知ってる?」


「勿論知ってるよ! 実は、紗綾さやと俺は付き合ってるんだよね……。」


 ──なんと。既に彼女持ちだったとは。しかも氷山さんとそんな関係だったなんて。僕は意外な事実に驚愕するも、共通の友人がいることで話題が広がり、会話に没頭してしまう。



 ◆◇◆



「皆様! お楽しみのところ申し訳ございませんが、ラストオーダーのお時間となっております! 追加のご注文などございませんか!?」


 店員の大声に意識が呼び覚まされる。──もうそんな時間になるのか……。


 僕は急いで許斐さんの様子を確認すると、変わらず柳楽さんと仲睦なかむつまじく談笑しているようだった。──良かった。以前のように歩行に支障がでるほどに泥酔している訳ではないようだ。


 僕は許斐さんの方に体を向けて、視線を送る。僕の合図に気付いた様子の許斐さんは「わかっているよ」と言いたげに僕を見つめ返す。僕たちは何も追加注文することなく、再び訪れた緊迫感の中で解散の時間を迎えた。

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