第28話 自己韜晦

 長く楽しかった宴も、居酒屋の閉店時刻に近づくにつれて次第に解散ムードとなる。メンバーのうち何人かは既に会費を支払って終電に間に合うようにと家路に就いた。そのような中、僕と許斐このみさんは事前に打ち合わせた計画を遂行するため、目と目を合わせて頷き合う。茶番劇の開幕だ。


「許斐先輩、酔い潰れちゃったみたいじゃない?」


 机に突っ伏す許斐さんの姿に、真っ先に気が付いたのは光成みつなりだった。


「また送ってあげたら? 否己いなきくん。」


 柳楽さんも許斐さんの様子を見て、僕に提案する。


「大丈夫だよーみんな……。今日は一人で帰れるよ!」


 許斐さんはわざとらしく酩酊感を漂わせて喋り始める。僕は彼女が立ち上がって店の外へと歩き出すのを後ろから見送る。


「許斐先輩、本当に大丈夫なんですか?」


「大丈夫、大丈夫! この間は羽目を外しすぎたせいで皆に迷惑かけちゃったみたいだし、これでもそこそこ自制したんだよ?」


「先輩がそう言うなら……。まあとにかく、お気をつけて!」


「うん、みんなばいばーい!」


 光成の心配を余所に覚束ない足取りで帰路に就こうとする。


「それじゃ、僕もこの辺でお暇するよ。」


「おー、否己くん。また今度ねー!」


「うん、じゃあまた!」


 僕は皆に見送られて店を後にする。先に店外へと出て歩き始めていた許斐さんは大分先の方を歩いている。──拙い。少し急がなければ見失ってしまう。僕はあくまでも目立たないように、少し歩くスピードを速める。


 電車はまだ動いている時間だが、許斐さんには鉄道は避けるように頼んだ。電車に乗り込んでしまえば追跡の難易度は極端に跳ね上がる。利用客の少ない深夜の時間帯であれば殊更ことさら、尾行が発覚するリスクは高いだろう。従って、許斐さんは前回同様、このままストーカーが現れなければタクシーを利用して帰宅する手筈だ。


 僕が懸念しているのは、ストーカーが結局姿を現さないで終わるということではない。その場合は後日、別の作戦を立ててから臨むまでだ。最悪の場合は、ストーカーが許斐さんの自宅付近で現れて彼女を拉致する計画かもしれないということだ。タクシーで移動する許斐さんを追跡するのは容易ではないし、確実ではない。もし許斐さんの到着に合わせて僕が間に合わなければ、折悪く許斐さんにストーカーの接近を許してしまうかもしれない。その時は、計画の変更も辞さない構えだ。


 だが、僕の心配は杞憂だったようだ。何回か右左折を繰り返して先日も通りかかった公園へ辿り着くかどうかというところで、黒いジャージにフードを目深に被った人影が僕と許斐さんの間に現れる。──来た! 奴だ!


 僕は全身の立毛筋が収縮して毛が逆立ち、心臓の鼓動が急速に高鳴って血流が加速するのを自覚する。──この野郎。やっぱり許斐さんをその薄汚い毒牙どくがに掛ける気か。僕は怒りによって大きくなる歩幅を何とか制御する。


 しかし、この場ですぐに許斐さんが襲われないとも限らない。僕は眼前のストーカーがいつ犯行に及んでも対応できるように、じりじりと距離を詰める。ここで僕の存在がばれたら全てが水の泡だ。少しずつ着実に、息遣いや足音にも気を配りながらゆっくりと歩度ほどを速める。


 以前と同じように公園の敷地を通り抜け、車道を跨いで細い路地へと入っていく。ここは僕がつい先日、奴に殺されかけた因縁深い場所だ。僕は自然と足に力が入るが、生憎ここは道幅の狭い一本道だ。あまり距離を詰めすぎると振り返られた瞬間、すぐにストーカーに逃げられてしまうだろう。


 そう思って歩調を緩めようとした刹那、僕の第六感は突発的に警鐘を打ち鳴らした。──まさか。そう思ったときにはもう遅かった。目前に居たはずのストーカーは今にも許斐さんに襲い掛からんとしている。


 ──くそっ、間に合うか……!?


 僕は足の速さにはそこそこ自信がある。重心を低く前傾姿勢を取りつつ、急激に加速する。許斐さんの窮地だというのに、こんな時に思い出すのは、他愛もない小学生の頃のトラウマだ。運動会のリレーで転んで笑い物にされたという人生の汚点を思い出すのは、これが何回目だろうか。だが、在りし日の恥辱的な黒歴史だって、この時のためにあるというのなら、悪くはない。


 僕は今度こそ転ばないように、生涯最速の勢いで手足を必死に動かした。何の前触れもなく、突如として閑静な夜道に鳴り響く足音に驚いたストーカーがこちらを振り向かんとして一瞬の間動きが止まる。──しめた!僕はその隙を見逃さず、ストーカーの後ろに飛び掛かって羽交い絞めにする。


「この野郎! 大人しくしろ!」


「くそっ……! なんだ、離せよ……!」


「許斐さん! 動画!」


 許斐さんは僕に言われるがまま、急いでスマホのカメラを起動させて録画を開始する。この時をどれほど待ち望んでいたか。僕は抵抗を止めない犯人の身動きを封じながら身に着けていたマスクとフードを引き剝がした。


「やっぱりお前だったか……。」


 そこにはやはり、僕が思い描いていた通りの人物の顔があった。

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