第25話 自己犠牲

 8月下旬の昼下がり。じっとりと蒸し暑い日が続く中、今日は適度に風が吹いて過ごしやすい気候となっていたため、僕と許斐このみさんは学内のカフェのオープンテラスで心地よい風に身を委ね、アイスコーヒーを飲みながら先程の講義の復習にいそしんでいた。その一方で、僕はストーカーが許斐さんに対して何らかのアクションを起こすのを待ち構えていた。


 僕たちと同じようにカフェで勉強に励んでいる者、近くのベンチに座って休憩している者、次の講義に遅れそうなのか慌ただしく道行く者、僕の目にはその全てが怪しく見えてきた。──この中に許斐さんを付け狙って僕を殺そうとした張本人が潜伏しているかもしれない。そう考えると、僕は居ても立っても居られない気持ちになる。


否己いなきくん、リラックス、だよ……?」


 僕の不安と焦慮に駆られた心情を察してか、許斐さんは至って冷静に優しく声を掛けてくれる。──ストーカーの被害者である許斐さん本人が落ち着いているのに、僕がこんな調子でどうするんだ。僕は一度平静を取り戻すために、ゆっくりと深呼吸した。


「折角いい天気だからさ。あんまり根詰こんつめたらダメだよ。」


「ご、ごめん……。」


 僕は許斐さんのストーカー被害の現場に居合わせるという目的があるとはいえ、彼女と過ごす時間を等閑なおざりにしていたことを反省する。しかし、その刹那、許斐さんのスマホが一件の電話の着信を知らせるように音を鳴らす。点灯した画面には非通知電話の表示、僕たちの間には途端に緊張が走った。


「多分、例のストーカーからだと思う……。」


 許斐さんは今に至るまで幾度となく非通知による迷惑電話を経験している。そんな彼女は直感的に何か感じ取ったのか、不安と恐怖に満ちた表情で固まってしまう。


「大丈夫。僕が付いてるよ。」


 今度は僕が許斐さんを落ち着かせる番だ。臭い台詞であることを自覚しながらも自身の存在を強調して安心してもらおうとする。僕の鼓吹こすいが通用したのか、許斐さんは僕の目を見て頷いた。時間がないので、僕は急いで準備する。許斐さんのスマホにイヤホンを繋いで、片方を彼女の、もう片方を自分の耳に当てて通話開始のボタンをタップする。


 無論、どんなことがあろうとも僕が発言することは不用意にストーカーを刺激することに直結する。そのことを改めて脳内で反芻しながら、僕は許斐さんとストーカーとの通話を黙って聞いていることしかできない歯痒い思いに耐えるべく覚悟を決めた。


「っ、もしもし……。」


「許斐ちゃん、元気?今日はいい天気だねぇ。」


「涼し気な水色のワンピースも、よく似合ってるよ。」


「ひぅ……。」


 今日の服装を言い当てられた許斐さんは、声にならない声を上げる。僕ははらわたが煮えくり返るような思いに身を震わせるが、先程の覚悟を胸に歯を食い縛る。それと同時に、僕の脳裏には、もしかしたらストーカーが近くでこちらを監視しているのではないかという考えが浮かぶ。僕は急いで周囲を見回してそれらしい人影を探す、訳にもいかない。


 僕が急に身を翻してきょろきょろと忙しなく目線を動かせば、風を切る音や物音がイヤホン越しにストーカーの耳に入ってしまう。これまでの行動から察するに、ストーカーは自分の正体が明かされることを恐れている様子がある。僅かな違和感でも不信感を与えかねない。


 それに、もし付近にストーカーが潜伏しているなら、僕は動かない方が得策だろう。動けば許斐さんとの通話内容をこちらも把握していることを公言するのも同然だし、いたずらにストーカーの警戒心を高めるだけだ。


「この前は変な奴と一緒に歩いていたみたいだけど、どういう関係なの?」


 ストーカーは白々しくも先日の夜道での騒動を引き合いに出す。


「彼とは、ただの友人です……。彼は関係ありません!」


「じゃあ何であんな奴を庇ったりしたんだよ。俺は折角許斐ちゃんについていた悪い虫を追い払ってあげようとしたのに。」


 ストーカーは悪びれる様子もなく太々ふてぶてしい態度で殺人未遂を正当化する。


「私に用があるなら、私に直接会いに来てください! 逃げも隠れもしませんから!」


 ──許斐さん! それはダメだ! 僕はアイコンタクトで彼女に強く訴えかけてかぶりを振る。


 許斐さんは、僕をあわや死に追いやろうとした張本人の厚顔無恥こうがんむちでいけ図々ずうずうしい態度に憤慨ふんがいしているようだ。言葉を発することができない僕の代わりに怒りを露わにしてくれることは少し嬉しいと思う反面、少々自棄になっている許斐さんの発言に僕は危機感を覚える。許斐さんとストーカーが1対1で対面すれば、相手は何を仕出かすかわからない。そんな僕の心配を余所に、ストーカーは僕たちの想定外の回答を返す。


「悪くない提案だけど、今はまだその時じゃない。許斐ちゃんにはまだ俺の正体を明かしたくないしね。その方が、許斐ちゃんも俺のことをずーっと考えていてくれるでしょ? 相思相愛ってやつだね。」


 ──狂ってる。もはや僕には怒りや恐怖といった感情を通り越して殺意すら湧いてくる。許斐さんは顔面蒼白で言葉を失っている。


「俺、今はこうして許斐ちゃんの声が聞けるだけで満足だから。また今度連絡するよ。」


 そういって一方的に通話が途絶えた。僕たちの間には暫しの沈黙が流れるも、近くのテラス席に座っていた数名の学生は僕たちの徒ならぬ雰囲気を察知したようで、いぶかし気な視線を此方に寄越す。居た堪れない気分となってしまった僕たちは、一先ず場所を変えることにしたのだった。

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