第3話 自己紹介

「よし、ようやく終わった。」


 課されていた提出物も一通り取り組み終え、既に冷め切ったトールサイズのブラックコーヒーを多めに口に含むと、じんわりとした苦みが口いっぱいに広がってくる。どこか今の自分にはお似合いだと感じた。


「やば、そろそろ行かなきゃ……。」


 3限の時間が迫ってきた。徒歩で大学の構内に戻って教室に辿り着くことを考えれば、そろそろ出発しなければならない。ノートパソコンを回収してカップに残ったコーヒーを一気にあおると、そのままダストボックスに空いたカップをそっと投げ入れ店を後にした。


 3限の講義は所謂いわゆるゼミ形式の少人数教室である。学生間での議論や意見交換に加え、共同での研究作業も行うためある程度交流は深めておいた方がいい。講義前に課題を一通り終わらせることができた達成感と寝不足で微睡まどろんでいる状態で多少ハイになっていた僕は積極的になっていた。


「せめて近くの席に座った人には話しかけてみようかな。」


 ──だが、教室に到着し、辺りを見回すと、既に仲良しグループと思われる複数人が数か所で輪になって談笑だんしょうしていた。取り付く島もないとはこういうことを言うのだろうか。諦め半分、怖気半分で先ほどの決意はどこへやら、すっかり委縮いしゅくしてしまった僕はすごすごと比較的空いているドア側右後ろの席へと座り、誰も座らないであろう隣の椅子に持っていたトートバックを降ろし、得も言われぬ悲愴感ひそうかんを噛み殺した。


 ──しかしながら、自己肯定感が完全に欠落してしまった否己影太いなきえいたの人生を大きく変貌させる転機は既に、刻々と迫っていた。



 ◆◇◆



 そろそろ講義の開始時間に差し掛かるかというとき、パタパタと忙しない足音が廊下に響き渡り、こちらに近づいてくる。ちょうど僕が座っている席に近いドアの付近で足音が鳴り止んだつかの間、勢いよく引き戸が開け放たれた。


「はぁ、はー、はっ、間に合ったぁ。」


 建物に辿り着くまでは途中まで走っていたのだろうか。廊下から早歩きに切り替えたにしても尋常じゃない汗をかきながら、マスクをしたまま苦しそうに肩で息をしているのは女性だった。ドアが大きな音を立てて閉まったその瞬間、当然ながら女性は僕を含め教室中の学生の目を引いた。とても暑そうで見ているだけで心配になりそうなほど息を切らしている。この場合、普通ならハンカチを差し伸べてあげることもやぶさかではないのだが、当の女性を中心にドア付近に座っている僕まで衆目しゅうもくを集めてしまった今となっては、そんな紳士ぶった行動を起こす勇気もない。


「あれ、このみちゃんじゃん! 久しぶりー。」


 一瞬の静寂せいじゃくを破り、そう声をかけたのは仲良しグループの輪の中心にいた短髪の男子学生だ。馴れ馴れしく呼び捨てにしているところを見ると、知り合いなのだろう。


「ん。あーゆうきくん? 1年ぶりだよ! 久しぶりだねー。髪も短くなってるし。」


「そー。思い切ってバッサリ行っちゃったんだよね。なんかいまいち評判悪いんだけど……。」


 突然の呼びかけに対しても軽快な切り返しで丁寧にテンポよく会話を続けるこのみと呼ばれていた女子学生。1年ぶりということは大学構内への通学が禁止されていた1年間よりも前に会ったことがあるということだろう。すなわち、察するにこの人たちは僕よりも年上の上級生、先輩ってやつか──などと推理小説よろしく会話の内容から長い付き合いになるであろう同じゼミ生の情報を推察していく。盗み聞きなど下品だと思われるかもしれないが、僕の頭越しにこれだけ大きな声で会話を続けられたらいやおうでも耳に入ってくるものなのだから仕方ない。


「そろそろ講義も始まっちゃうし、こっち座んなよ。」


「走ってきたから髪もぼさぼさで汗かいちゃったから、エアコン当たる端っこがいいかな。」


「そか。今年度もよろしくねー!」

 

 そうこう考えている内に彼らの会話もようやく終わったようだ。


「ね。人違いだったら大変申し訳ないんだけど、否己くん、ですか?」


 ──ん?待てよ。何故先ほどの女子学生が僕のトートバッグをまたいだ隣の席に座っているのだろうか。何故僕の苗字を知っているのだろうか。思考を巡らせたところで僕に分かるはずもない。なぜなら隣に座って僕の顔をのぞき込みながらたずねてくるこの女子学生と僕には何の面識もないはずだから。


「は、い。そうですけど……。」


 ──肯定するしか選択肢はない。言い当てられている以上、否定して嘘をつくような道理はないし、かといって無言で見つめ返すなんてことはできやしない。ただでさえ同年代の異性の目を真っ向から見つめるなんてことは何年ぶりかといったところで目が泳いでしまうというのに。仮にそんなことができたとしても気持ち悪がられるだけだ。


「やっぱり! 実は私、どうしても否己くんに──」


「皆さん。そろそろよろしいでしょうか。講義の時間となりましたので、出席をとりたいと思います。」


 どうやら講義の開始時刻を迎えたようだ。いつの間にか眼鏡をかけた初老の男性教授が教壇に立っていた。ここは一先ず教授の方に向き直り、今後の講義の進捗予定などを聞き漏らさないようにした方が賢明だ。たった今僕に話しかけてきた女子学生も何事もなかったかのように振舞い始めた。


 ──いやいや! 「実は私、どうしても否己くんぼくに」何!? 気になりすぎて、何にも頭に入ってこないよ……。

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