第5話 三陽先生
「……起きられました?」
目を開けると、そこは白い部屋。
とある女性が落ちてくる焦げ茶色の内巻き髪を手で受けながら、心配そうに俺を見下ろしている。
俺は手錠をかけられた状態でベッドに寝かされていた。
見慣れた、刑務所付きの診察室である。
学校でいう保健室のようなものだ。
ここには俺とこの女性しかいないが、音声なしのカメラが2台備え付けられている。
「あ、もしかして発作起きた?」
俺は頭を振って、上半身を起こす。
意識を失ったようだ。
左手には点滴が入っていて、何度目かしれない抗痙攣薬が投与されていた。
「そうみたいですよ。図書館のアンドロイドさんが慌てた様子で連絡してきました」
こんなの初めてです、と笑いながら、カツカツとヒールを鳴らして診察机に向かい、座る。
この人は、この刑務所の医者だ。
医者は3人いて、この女医さんには模範囚にならないと診察してもらえない。
名前は神無月(かんなづき)三陽(みよ)。
今は26歳らしいと噂で聞いているが、20代前半にしか見えない若作りで色白の先生だ。
髪は胸までのダークブラウンで、上品な内巻きパーマがかかっている。
背は165cmくらいで、出るところは出て、引っ込むところはきちんと引っ込んでいる。
つまり、スタイルがいい。
本人もそれを知ってか、ミニスカートを好んで穿く。
今日も黒のタイトミニ。
それだけに向き合っていると目のやり場に困るが、こんなことは一囚人が言えたものではない。
なお、この刑務所に入っている男は皆、この人を生きがいにしているといっていい。
この人と話し、スカートの奥のパンチラを狙うためだけに、模範囚になろうと必死で生きている。
禁欲生活だから、わからなくもないが。
だが今面と向かっている俺は、唯一の例外かもしれない。
医者というのは小さいころから世話になっていたせいか、なにか高貴な存在であの白衣を見ると精神的な圧迫感を感じる。
今も毎月この人に受診し、命を支える薬を処方してもらっている。
それだけに、そういうふしだらな目で見てはならない存在、というのが俺の中での位置づけだ。
「……薬、飲んでなかったでしょう?」
三陽(みよ)先生が椅子を回してこちらを向くと、大人っぽく微笑みかける。
俺は術後性てんかんという、突然痙攣する病を抱えている。
生まれつきの病気で16歳の時に頭の手術を受けてから、抗痙攣薬をかかさず飲まなければならなくなった。
だが飲んでいれば、てんかん発作は落ち着いていることが多い。
つまり、今日のようにてんかん発作が起きる場合は、概して内服薬の血中濃度が足りていない場合が多いのだ。
「喬(きょう)くんは動脈瘤がまだあるから、痙攣だけでも危ないのよ」
三陽(みよ)先生が内巻きの髪を指でもてあそびながら、俺に優しく伝えてくる。
痙攣が起きてしまうと、一時的であれ血圧は200近くまで上昇するらしい。
当然だが、動脈瘤は血圧上昇とともに破裂の危険は高まる。
「いや、飲んでた。ちょっと遅れることはあったけども」
「あら、ホントですか?」
「嘘は言わない」
「採血して血中濃度測定をオーダーしておきましたから、嘘ついているとわかるんですよ?」
三陽(みよ)先生が白い素足を組み替えながら、悪戯っぽく笑う。
「だから嘘じゃない」
「じゃあ嘘だったら、喬(きょう)くんに私のお願いごとを聞いてもらいます」
三陽先生が立ち上がって俺に歩み寄ると、俺の目を見ながら、その整った顔を近づけてくる。
ふわり、と甘い香りが香った。
そうそう、言い忘れていた。
この人が唯一、俺を名前で呼ぶ人だ。
この人と親しくなるきっかけは、突然やってきた。
この人が赴任してまもないころ、この刑務所が急に大きな地震に襲われたのだ。
その時、俺はこの人と二人でこの診察室にいた。
大きく揺れて、近くにあった無駄に大きな戸棚が、先生の方に倒れてきた。
きゃぁぁ、と悲鳴を上げる三陽(みよ)先生を、俺はとっさに背にかばった。
結果、一緒にその戸棚の下敷きになり、彼女の上で顔を合わせる形で四つん這いになって、戸棚の重さから守る形になった。
下になっていた彼女だけ脱出させようとしたが、白衣が落下物に挟み込まれて動けなくなっており、俺を見上げて泣いていた。
「大丈夫、あんたは助ける」と、俺はその重みを両肘と両膝、あとはひたすら根気だけで耐え抜いた。
俺が潰れたら、この人も死ぬから。
大地震だったようで随所で倒壊があり、俺たちの救出までの時間たるや、2時間以上。
搬送された時、俺は背中と肘、膝が挫滅していた。
チラと見た膝では、骨がむき出しになっていたのを覚えている。
後で聞いたところによると、本棚は200kg近くあったそうだ。
刑務所内では俺が一番重症だったそうで、集中治療室に運ばれ、文字通り死にかけた。
何度も三陽先生が見舞いに来てくれていたそうだが、申し訳ないことにひとつも覚えていない。
退院後、三陽先生は俺を特別扱いするようになった。
診察の順番待ちがあっても、割り込ませて診察してくれる。
年に一回、刑務所外で頭部の画像精査を受けるなんていう特別待遇も、三陽先生が上に訴えかけて実現しているものだ。
「……どうなのかな? 聞いてくれますか?」
気づくと、三陽先生がまるでキスするような至近距離で、俺を見つめていた。
ちょっと前に出れば、本当に唇同士がぶつかりそうな距離。
「嘘じゃないからどんな約束だってできる」
俺は少し彼女から距離を取りながら言った。
「うふふ。やったー」
両手に握り拳を作って、胸元でガッツポーズをする三陽先生。
その姿が見慣れたあの少女に重なり、俺は思い出した。
「そうだ、先生。ひとつ聞いていいか」
「あら、喬(きょう)くんから訊ね事って珍しいですね」
三陽先生が椅子に座り直し、足を組み替えながら、何でも答えてあげますよ、と笑う。
「あのさ、ウエディングドレスって着たいよな」
「えっ」
三陽先生の手からボールペンが落ち、その肌理(きめ)の細かい頬に朱が差していく。
「あ、先生が、っていうんじゃなくてさ、女の人っていう意味で。女の子ってみんな着てみたいもんだよな」
「あぁ、そういうことですか……」
三陽先生は取り繕うように居住まいを正すと、口を開いた。
「びっくりしました。でもどうしてそんなことを聞くのですか?」
「それは言えない」
この人が馬鹿にするとは思えないが、アリルンのことは秘密にする。
「そうね。着てみたいものですよ。愛した人との結婚式はいつだって最高の夢ですから」
三陽先生は頬を赤らめたまま、うふふ、と年上っぽく笑った。
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