第20話 脱獄




〈最近、星空を眺めましたか? 多忙なこの時代、ゆっくりと空を見上げることは難しくなってしまいましたね……〉


 機械音声によるプラネタリウム解説が始まり、頭上にあまたの星が投影され始めた。


 今日は前代未聞の刑務所特別イベントということで、模範囚といえど、囚人24人が知事と同じ空間に存在している。


 それだけに、刑務官はいつもより多く動員され、建物内で厳戒態勢が敷かれていた。


〈見上げる夜空は、何万年も前の光が集まってできているのです。そう考えるとなんだか不思議ですね〉


「案外に素晴らしいわね」


 感情のこもらない声で、知事が言う。


「はっ、ありがとうございます」


 神酒坂という名の囚人が立ち去った後、知事の隣に座っているのは、この刑務所の所長である。


「言っておいた通り、今晩は疲れたからここに泊まるわ。部屋は用意してあるわね」


「はっ、私の部屋をお使いください。ですが、こんな落ち着かない場所でよろしいのですか?」


 所長がさも不思議そうに訊ねた。


「わかってないわね。こういう場所には長く居れば居るほど、県民は評価してくれるものなのよ。一晩中監視を行ったと言えば、評価もうなぎ上り間違いなしよ」


 そういう知事は、もう星空を見ていなかった。


「し、失礼いたしました」


「神酒坂さんを護衛に雇うわ。今晩貸してちょうだい」


 知事が手元のスマホで予定を確認しながら言う。


「いえ、あんな囚人でなくとも刑務官が……」


 そう言いかけた所長の右のこめかみを、知事のスマホの角が打った。


「あだっ」


「空気の読めない男ね。余計なことをしないで、彼と二人っきりにしろって言ってるのよ」


「申し訳ございません! ですが囚人ですので……これがばれたら」


「もしうまくしてくれたら、トイレのことは水に流して、栄転に口をきいてあげるわ」


 知事が所長に向かってウィンクした。

 トイレなだけに水に流すのはなかなかのセンスだったが、そこは所長はわからなかった。


「なんと! では……県内への栄転も?」


 目を見開いた所長が、大きすぎる声を発した。


 この花咲島刑務所に勤めている者たちは、ほとんどが島内につくられた単身赴任寮に入っている。

 家族と離れ離れになっているものも少なくない。


 知事は重々しく頷いた。


「……黙っていられるわね?」


「ももも、もちろんでございます! ありがとうございます!」


 所長は相好を崩し、暗闇の中で頭を下げていた。




 ◇◆◇◆◇◆◇




〈……つらくなった時はどうか、悠久の時を湛える夜空を見上げてください。お約束します。この偉大な夜空が皆さんのどんな傷をも癒やしてくれることでしょう〉


 人工音声が最後のナレーションを終え、約30分間の星空の投影が終わるが、明かりは灯されない。


 拍手も、起こらなかった。

 ただ、大きないびきだけがプラネタリウムに響いていた。


 その音の元は、知事であった。

 それゆえ、刑務官たちは音一つ立てずに黙していたのである。


 明かりがつかないのも、それを気遣ってのことと誰もが思っていた。


 そのまま、さらに20分が過ぎた。


 知事が目を開けた。


「……ちょっ、加齢臭くさっ!」


 寝ていたのは知事だけではなかった。

 所長が知事の胸元に寄りかかって、よだれを垂らしていたのである。

 当然のように、知事がそれを突き飛ばし、胸元を拭う。


「はわ!?」


 涎を拭いて、瞬きする所長。


「寒……ちょ、もう上映終わったんでしょ! 早く明かりぐらい点けなさい!」


 言いながら知事は、足元に落ちていたコートを羽織る。


「すいませっ、おい! 誰か明かりをつけろ!」


 所長が鞭に打たれたように立ち上がると、周りに向かって大声を上げる。


 刑務官たちはただ狼狽える。

 明かりのスイッチの位置など彼らは把握していない。


「トリス! 明かりをつけろ」


 ゴードンが小型ペンライトで操作室の方を照らしながら叫ぶ。

 だが、そこからはなんの反応もなかった。


「トリス、操作室にいるんだろ! 返事くらいしろ!」


 ゴードンが罵声を発しながら操作室へと向かう。

 時折座席にぶつかりながらも、やっと操作室にたどり着く。


「おい、トリ……ス?」


 ゴードンは、ぶるりと身震いした。


 そこはヒュウゥ、と音がするほどに、冷たい風が吹きすさんでいた。


 窓でも開いているのだろうか。

 ゴードンがペンライトで中を照らす。


「……トリスが、いない……」


 ゴードンは操作室の中でひとり、立ち呆けていた。


「ゴードン、そこにいるなら、早く明かりをつけろ! 馬鹿かお前は!」


「――はっ、し、少々お待ちください……」


 所長のいらいらした声にゴードンが泡を食って壁のスイッチを探り始める。


「あ、ありました!」


 パチッと音がした次の瞬間、プラネタリウム全体が明るくなる。

 操作室にも蛍光灯の明かりが差し込んだ。


「……いない……」


 そこでゴードンは、本当にトリスがいないことを確信する。


「所長! ……トリスが」


 ゴードンがそう言いかけた時、操作室の中で、もそりと動く気配があった。

 ゴードンははっと気づき、にやりとする。


「上だ、上に隠れている!」


 操作室に並ぶ機器の上側に、いる。

 確かにここには背の高い機器が並んでおり、その上には人がなんとか横になれるくらいのスペースがあった。


「貴様……かくれんぼのつもりか! 懲罰房行きは確実だからな、トリス!」


 ゴードンがバチバチと音を立てる警棒を抜き、椅子に乗って操作台の上に上がろうとする。


 その時、唐突にバサバサという音がした。


「かぁ、かぁっ!」


 黒い羽根が、舞い散る。

 なんとカラスが数羽、そこに居並んでいた。


「カラスだと……なぜここに」


 そこでゴードンは、はっとした。


 トリス失踪。

 外にしかいないはずのカラス。

 そして、この外と繋がったかのような、冷気。


 窓ではない。

 窓は鉄線が張られ、開けてもカラスは入り込めない。


 だとすると。


「まさか……」


 ゴードンはこれだけの証拠を並べられていても、まだ信じられなかった。


「まさか、まさか」


 ゴードンはやってくる冷気をたどり、操作室の中をうろうろする。


 脚に風が当たる気がして、ふと屈む。


 そうやって屈んだ先。

 その目の前には、すべてを説明できる、動かしようのないものがあった。


「…だ、脱獄……」


 そうやって、ゴードンはその第一発見者となった。





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