第21話 海へ
「よし、こっちだアリルン」
「はいっ」
彼女のほっそりとした手を引いて穴を抜け、冷たい風の中に這い出る。
なんとこの地には珍しく、雪がちらちらと舞い降りてきていた。
「雪なんて初めて……」
「ああ。祝ってくれているみたいだな」
アリルンが空を見上げて感嘆の声をあげる中、俺はあたりを見回す。
角度的にここを監視できるのは、予想通り中央の監視塔だけだ。
みられていないことを祈るのみだ。
「寒いからこれを着て」
俺はアリルンに毛皮のコートをかける。
「え……わ、すごい」
アリルンは着たことのないコートに目を輝かせる。
「温かいだろ。旅先じゃ最高級の代物だったんだ」
アリルンに笑いかけると、俺はあたりを見回す。
想像通り、下には通常柵がひとつあるだけだ。
「よし、いくぞ」
俺はアリルンをおんぶすると、闇の中で柵の上に綱を張り、勢いのまま乗り越えた。
◇◆◇◆◇◆◇
雪がしんしんと降っている。
三陽先生が言っていた通り、シェルターはまだ閉じていなかった。
監視塔に気づかれた様子もない。
今のうちだ。
俺はアリルンをおぶったまま、持っていたロープを使って5メートルの石壁を上り、とうとう刑務所の堀の外へと出る。
そのまま北へと走る。
俺たちの足跡は5分と立たずに降り積もる雪で隠されていく。
「ふふ。トリスさん、重くないですか」
おぶられたままのアリルンが訊ねてくる。
この状況でなんとか笑おうとしてくれていることに、彼女の優しさを感じた。
「まだ序の口なんだ。寒くないか」
「はい。この毛皮のお陰で、全然ですっ」
「よかった」
異世界の旅で手に入れ、女用の毛皮とかなんの役に立つのかと思っていたものだが、持っていてよかった。
俺は走りながら、早くも見えてきた海岸に目を向ける。
海に出てしまえば、探しっらくなる意味で、少し安心できる。
後ろを振り返る。
そろそろ上映が終わる頃だが、まだ監視塔の明かりは囚人の房を照らしたままだ。
騒ぎ出している様子はない。
「ここまでこれたか」
間もなくして、俺たちは白い砂浜の海岸に立つ。
「きれい……」
月に照らされる海を見て、アリルンが感嘆の吐息を漏らした。
これが陽光の照らす時間なら、もっと美しいものだったろう。
海は波が穏やかで、荒れはない。
今は凪いでいるようだが、さっきから時折、力をためて吹きつけるような風がある。
「ちょっと今のうちに着替えるな」
「はい」
アリルンはきちんと向こうを向く。
俺は囚人服を脱ぎ、持っていた黒い衣服に変えた。
「アリルン、もういいぞ。前に聞いたが、海水は大丈夫だったよな」
アリルンは振り向くと、わずかに間をおいて頷いた。
「防水機構が働いてますから泳いだりできますよ。低温も中枢がマイナス25.5度にならなければ大丈夫なはずです。トリスさんより丈夫ですよ」
ふふ、と笑うアリルン。
「そうか、少し安心したよ。入る予定はないんだけどな」
そう言って、俺は懐からオールで漕ぐ小舟を取り出した。
「え……?」
アリルンがまた言葉を失っていたが、あとで説明することにする。
「舟? どうしてこんな……」
「ささ、乗った乗った」
「は、はい」
砂浜の上からアリルンを舟に乗せて、海へと押し出していく。
(さすが冬だな)
浸かった足に、海水が突き刺すような冷たさを伝えてくる。
だが気にしてられない。
海水が膝上くらいの深さまで押したところで、揺らさないように慎重に小舟に飛び乗った。
――成功だ。
「さあ、出航だ」
「はいっ」
アリルンは相変わらず笑顔でいてくれている。
その正面に腰を下ろすと、持っていた毛布をアリルンに掛ける。
「初めてだろ」
オールで漕ぎながら、月が照らす静かな海を眺めるアリルンに、声をかける。
「はい。初めてばかりで……目が回ってます」
「まだまだ盛りだくさんだけどな」
「あの、トリスさんは寒いですか」
アリルンが俺の濡れた足を見ながら言った。
「正直言うと、海水が冷たかった」
まあ大丈夫だけどな、と笑う。
「触ってみても……ひゃ、冷たい!」
アリルンが俺の脚に触れて、ぎょっとした。
「大丈夫。もう少しの辛抱だ」
それから5分ほど漕いだところで海面を覗き込む。
十分な水深のところまで来たようだ。
もう島からは100メートル以上離れている距離だ。
しかし、時折吹く風のせいか、波が出てきている気がする。
さっさとやった方が良さそうだ。
「じゃあ乗り換えるから」
「乗り換える?」
「ああ」
俺はアイテムボックスから、持っていた船を出す。
黒いマストと帆のついた、15メートルほどの帆船だ。
数人とともに航海できる中型船を個人所有していたものだ。
船の中の客間には調理台がついていたり、小さいが浴槽付きの浴室も備わっている、無駄に豪華な船だ。
「と……トリスさん!?」
「うん?」
「こ、ここ、こんなものが、どうしてポケットから出てくるんですか!?」
アリルンが船を指差して、舌を噛みそうな勢いで喋る。
それに関しては説明が難しくてな、と俺はお茶を濁した。
「じゃあ乗り移るぞ」
帆船に乗り込むはしごのところまで小舟を寄せて、足元が揺れないよう支えながら、アリルンを振り返った。
「ここを登るよ」
「は、はい」
そうは言っても、アリルンは動揺を隠せない。
「ただ登ればいいのさ。支えてるから」
「はいっ」
アリルンが意を決して登り始めた時だった。
「きゃっ」
帆船に当たった波がざっぱーん、と跳ね返ってアリルンを頭から濡らした。
「大丈夫か」
俺はアリルンを抱きかかえるように支える。
「つ、冷たいです~」
アリルンの髪から、海水が滴っている。
相当な量をかぶったようだ。
「急ごう。また来る」
「はいっ」
俺たちは次の大波が来る前に、はしごを登りきり、帆船に乗り換えた。
◇◆◇◆◇◆◇
「本で読んだ通り、すごく塩辛かったです」
濡れた衣服を着替え、毛布にくるまったアリルンが、船内の部屋でニコッと笑った。
暖炉に火を入れ、八畳ほどの室内が少し暖まってきたところだ。
ここは俺の帆船の客間。
こうしている間にも、船は風を受けて、おおよそ北に向かっている。
脱獄に気づいて動き出すだろう警察は、俺たちが西に向かって寒中水泳をして、一番近い千葉県に入ると踏むだろう。
そうでなければ、おそらくこの冬の海のこと。
溺死したと考えるに違いない。
だが甘い。
俺には5年間隠し通したアイテムボックスがある。
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