第22話 お別れの日



 脱獄に気づいて動き出すだろう警察は、俺たちが西に向かって寒中水泳をして、一番近い千葉県に入ると踏むだろう。


 そうでなければ、おそらくこの冬の海のこと。

 溺死したと考えるに違いない。


 だが甘い。

 俺には5年間隠し通したアイテムボックスがある。


 このままこの船で北に向かい、警戒が薄い東北から陸に入るつもりだ。

 そこから秋葉原の爺さんに連絡を入れて、接触を試みようと考えていた。


「動作は問題ないか」


 俺はアリルンに訊ねる。

 やはり精密機器となると、浴びた海水が気になった。


「この通りですよ!」


 ない力こぶをみせる彼女の濡れた髪からは、まだ水滴が滴り落ちている。


 よかった。


 脱獄に成功しても、アリルンがどうにかなってしまったら、全く意味がない。

 海水耐性でつくってくれたメーカーには、感謝しかない。


「よし、湯に入れるぞ。とりあえず、ついた海水を洗い流そう」


 といっても湯沸かし器がついているわけではないので、耐熱になっている蛇管を火の中におき、炙る形だ。


 火中を長らく通過した水が湯になって、ドポポ……と浴槽に流れてくる。


「アリルン、いいぞ」


「はい」


 アリルンは今、下着だけで毛布にくるまっていたので、そのままこちらにやってきた。


「ここをひねると湯が出る。熱すぎる時は、ここの水を足して……」


 説明していると、アリルンが俺の右手をきゅ、と握った。


「一緒に入りたいです」


「あ、えーと?」


 聞き間違えた気がして訊ねるが、アリルンはやはり、一緒に入りたいと言った。


「だめですか」


「いや、そんなことはない。むしろさっさと湯を浴びたいから助かる」


「私、背中流します! やってみたかったんです」


 アリルンが頬を染めながら、言う。


「そりゃありがたい」


 なんだか照れて、目が合わせられなかった。


 俺はこの時、どうしてアリルンが一緒に入りたいと言ってくれたのか、理由がわからなかった。




 ◇◆◇◆◇◆◇




 二人で服を脱いで湯浴みする。

 背を向けあって身体を洗ったあと、互いに湯を掛け合う。


「熱すぎないかな?」


「暖かくて気持ちいいです」


 桶の湯をアリルンの背中の肩筋から湯を当てる。

 もちろん俺もアリルンも、バスタオルを巻いているぞ。


(綺麗だな)


 女性らしい、ほっそりとした背中だった。


 よく見ると、彼女の肩に微細な石の破片なんかが付着していて、丹念に洗い流した。


 代わってアリルンも、俺の背中を流してくれる。


「頭も洗おうか。砂とかついてるかも」


「えっ、あ、頭は自分でやりますよ!」


 アリルンが慌てたように離れる。

 あら、ちょっと失礼だったのかな。


「そか、じゃあ先に入ってるから」


「はい」


 アリルンが浴槽の俺に背中を見せながらゆっくりと頭を洗った後、身体に巻いたタオルをこそこそと直し、振り向いて湯船に足を入れる。

 万が一にも内部に影響が出ないよう、ぬるめにしておいた。


 ちゃぽん。


「浴槽は入れるようにできてるんです」と言いながら、バスタオルがずれないよう、必死で押さえているさまが可愛い。


「ふぅ~」


 それにしても湯船、実に5年ぶり。

 刑務所はシャワーだったからな。


「わー、浸かるって幸せですね」


 俺の隣で肩まで浸かったアリルンが、ほっと溜息をついた。

 もうこれがアンドロイドだとは、絶対思えない。


「メンテを受けたら、これから毎日入れるさ」


 俺は湯船の中でアリルンと手をつなぎ、笑いかけた。


「だとしたらすごく幸せです……ここで大声で叫びたいくらい」


「いいよ。叫ぼうか」


「ふふ。じゃあ私から」


 アリルンが俺の手を握り返すと、大きく息を吸った。


「私、トリスさんが、大好きです~!」


 なんだ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。


「一生、私のそばにいてくださぁ~い! ……んっ」


 俺はアリルンのくちびるを、唇で塞いだ。

 しばしそうした後、離れて大きく息を吸う。


「俺もアリルンが大好きだ~! ずっとずっと、そばにいる!」


「あははっ、嬉しいですっ!」


 幸せな一瞬だった。


 本当に。




  ◇◆◇◆◇◆◇




 湯船から上がって髪を乾かしていると、突然、ドン、と床を鳴らす音がした。

 振り返ると、アリルンがうつ伏せに倒れていた。


「――あ、アリルン!?」


「ああぁ……!」


 口から声が漏れるばかりで、アリルンの意識は混濁していた。


「な……!?」


 予想もしなかった急変に、頭が真っ白になった。


 なぜだ。

 なぜこんなことになっている?


 まさか海水が?

 いや、防水機構が働いているはずだ。

 万が一にも影響が出るなど、ありえない。


 だったらなぜ……。


「アリルン! どうした」


「う……」


 意識が戻ったのか、アリルンが弱々しくまぶたを持ち上げた。

 俺はアリルンの頭を抱きかかえる。


「なぜだ! なぜこん……な……」


 俺の言葉はふいに途切れた。

 目に入ったものがあまりに衝撃的で、声が出なかったのだ。


 抱きかかえた、頭。


「あ……アリ……」


 アリルンの頭皮には15センチくらいの、えぐられたような痛々しい傷があった。

 併せて火傷した痕ができており、間違いなく電気の警棒で殴られた痕に違いなかった。


「なんだよ……これ……」


 心臓が、どくん、どくんと跳ねている。


「……ごめんなさい」


 アリルンが、その目をじわりと潤ませる。


「――殺す……殺してやる! 誰だ! 誰にやられたんだ!」


 はらわたが煮えくり返って、息が絶え絶えになっていた。


 まさかあの時か。

 俺が懲罰房に入っていたあの時に……。


 いや、今大事なのはそんなことじゃない。


 この傷が意味すること。

 内部に海水が侵入し、アリルンはまもなく壊れてしまうのだ。


「トリスさん……」


「アリルン……嫌だぞ……嫌だからな」


 顎ががくがくと震え出す。


「私、幸せでした……ポンコツロボットなのに……こんなに、よくしてもらって」


 アリルンは必死に笑顔を浮かべようとしている。


 その一方で、彼女の体はバチバチと小さな青い光を放電し始め、随所から白い煙が上がり出した。


「アリルン、ダメだ……まだなんにもしてないじゃないか……」


 視界が潤んでいく。


「あなたのおかげで……心だけはいつも強く在れた」


 笑おうとしながら、アリルンがみるみる力を失っていく。


「アリルン、それは俺だ。アリルンのおかげで、俺は強く在れたんだ!」


 アリルンの焦点が、合わなくなっていく。


「……最後は本当に、夢みたいな……日々でし……た」


「ダメだアリルン! ハワイでウエディングドレスを着るんだろ!」


 アリルンが弱々しくなりながらも、はっとする。


「――ハワイで、蒼い海のそばの教会で挙式するんだ。かわいいウエディングドレスを着て挙式しよう!」


 アリルンの目から、すっと涙が流れ落ちた。

 そして彼女は、わからないほどに小さく、頷いてくれた。


「トリス……さん、愛して……い……ま……」


 ヒュゥゥン、という音を残して、その身体がだらりと垂れた。


「――おい!」


 アリルンを何度も何度も揺さぶる。


「死ぬなぁ――! 死ぬなああぁぁ!」


「………」


 アリルンは冷たくなり、完全に動作を停止した。




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