第17話 甘い空気の中で
「先生? どうかしたのか」
「………」
「カメラがあったと思うが、いいのか」
「ここなら映りません。鍵もかけました」
と先生がちらりと、ベッド横に立てられたカーテン柵に目をやる。
見るといつもより厳重に、カーテン柵がいくつも重ねて立てられ、カメラが遮られていた。
「喬くん……」
やがて、先生の息遣いが荒くなり、俺の上でもそもそし始めた。
「キスしていい?」
「気持ち、こもってないものになるが」
「……喬くんには、他に好きな人が?」
「ああ。心から愛している人がいる」
即答した俺に、撫でまわしていた先生の手がぴたりと止まった。
またがったまま、顔同士は鼻と鼻がぶつかる距離で訊ねてくる。
「知らなかったわ。外で待ってくれているのですか?」
「推測に任せる」
「その人に会いたくて、出ていこうとしているのですか」
「そうじゃない」
俺はその人を助けたくて、脱獄するのだから。
「じゃあ別な理由で出ていくのですか?」
「……いろいろあってな」
「出ていくって認めましたね」
先生が俺のおでこにキスをすると、俺の鼻先をつんと指で押した。
「………」
俺は小さくため息をつく。
「困ったな。何かあったら、知らぬ存ぜぬで通してくれ」
そんな俺の言葉に、先生もため息をついた。
「……困ったのは私です」
先生が俺の左耳にキスをしながら、そっと呟いた。
「世話になってるのに、済まないな」
「……会えなくなるのは嫌だから、バラしちゃおうかしら」
「おいおい」
真顔になってがばっと起きそうになった俺を、先生はくすっと笑って、再び押し倒した。
「
俺を上から押さえ込んだ先生が、また鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、小さく呟く。
先生の甘い息が鼻をくすぐった。
「夜かな」
「……そう。シェルターはそのためのものなの。世界でもここだけのものなのです」
「なるほど」
他の国ではまれに成功が報道される脱獄。
日本ではもう何十年と成功していないものの、この刑務所は刑期の長い凶悪犯罪者が多いことを鑑みたのだろう。
念を入れた政府の投資といったところか。
「シェルターは21時の消灯とともに閉じられ、朝5時に開けられるはずです」
「天井の真ん中で、カーテンが閉まるように閉じるタイプだな」
「そうですね」
俺が作業した部分だ。
たしかにそういう造りに心当たりがある。
もちろん、人の力で空いたりはしないほどに強固なものだったが。
「ありがとう。聞きたかったことは教えてもらえたよ」
俺は先生を抱えながら、ぐいと起き上がる。
「もう少し……あれっ」
先生は再び押し倒そうとしたが力負けして、きょとんとした。
「もう時間切れだ」
「だめです。まだですよ」
あぐらをかいた俺の膝の上に馬乗りになり、先生が唇を重ねようとしてくる。
「じゃあもうひとつ教えてもらうが」
「……んっ……」
先生の唇を一度だけゆっくりと受け入れて、言葉を発する。
終わった後の先生は頬を染め、とろんとした目をしていた。
「ところで、先生はあの薬がなにか知ってたんだな」
「……それはね」
先生は俯いて、言葉を濁した。
「強壮剤なんかじゃないんだろ」
「……そうね。言ってはダメだと言われたけれど」
「やけに眠くなってさ」
「副作用で前向健忘のある薬なのです」
前向の意味がわからなかったが、要は内服した時点から、その後の記憶が濁ってしまうものらしい。
昨日のシェルター作業のことを忘れさせるためだという。
表向きは恐怖心を薄れさせるためとかいう言い訳を用意しているようだが、あれなら落下してもおかしくない。
明らかになれば絶対に問題になる。
先生が巻き込まれそうだから、ばらすつもりはないが。
「俺、あの薬を過去に一度飲んだことがある気がするんだ」
「……え?」
その言葉を聞いた先生が、瞬きをした。
「あの味で思い出したんだが」
「もしかして、殺人を犯したあの晩ですか」
「ああ。間違いない」
「……うそ……」
「嘘は言わない」
先生は、心底驚いたようだった。
だがやがて、先生は俺をぎゅっと抱きしめる。
「……喬くん、もしかしたら」
「ん?」
先生の顔は、軽く青ざめている。
「どうかしたのか」
「あのね」
そういって、先生は予想もしなかったことを口にした。
「あの日、運ばれた病院に、喬くんの当時の血液と尿が凍結保存されて残っているはずです。それを調べれば、飲んだかどうかわかるかもしれません」
「そうなのか」
「はい。もし陽性だったら……大変なことよ」
「大変?」
俺はよくわからず、聞き返す。
「市販はされていない薬ですから、喬くんが自分で飲めるものじゃない」
そこで、俺も気づく。
「なるほど。つまり、飲まされたと」
「そう、裁判のやり直しを要求できるれっきとした証拠になる」
それだけじゃないわ、と三陽先生は付け加えた。
「喬くん、絶対に無罪になるわ。断言できます」
「うへぇ、本当かよ」
俺はこの場で踊りだしたい気分だった。
再審で無罪になれば、堂々とアリルンを連れ出し、修理を受けさせることができる。
「本当よ!」
しかし先生は俺よりも満面の笑顔になって、隙だらけだった俺に勝手にキスをしてきた。
「すぐに病院に問い合わせてみます。でもこんな嬉しいことってないわ、喬くん! まさか本当に無罪だったなんて!」
そして俺はもう一度、押し倒される羽目になった。
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