第7話 接近
そうやって、月日が過ぎた。
アリルンが隣にいる生活は悪くなかった。
いやむしろ、俺は幸せだった。
アリルンは本の内容に詳しいから、俺が好きな本の話をすれば、たいてい最後までついてきてくれた。
一人で本を読んでうっとりするのもいいのだが、読んだ感情を分かち合えるというのはもっと素晴らしいものだ。
比較してよくわかる。
アリルンがいなかった頃の自分が、いかに孤独でわびしいものだったか。
(さて、と)
図書館に向かう通路から、足音を潜める。
今日はこっそり近づいて、気づくまでアリルンの顔でも眺めていようかな、などと考えていた。
たいていのアンドロイドはレーダー機能があって、こっそり近づくとか絶対に無理なのだが、アリルンは隙だらけだ。
最近ずっと一緒にいて、よくわかる。
アリルンは絶対、レーダーをオフにしている。
というわけで最大限の労力を払って近づくと、やはりアリルンは気づいていない。
俺には真剣そうな横顔を見せている。
どうやら机に座り、机の上の何かを一心に眺めているようだった。
(……おかしいな)
からかってやろうかという気持ちが一瞬過ぎったが、すぐに失せた。
アリルンの表情が、あまりに感極まっていた。
心配になって立ち上がり、声をかけようとした時。
俺はすんでのところで止まる。
アリルンの頬を、一筋の線が走ったからだった。
彼女はそのまま唇を震わせ、机に這いつくばるようにして、嗚咽を漏らし始める。
え……?
アリルン?
「うぅっ……!」
アリルンの両手には例の、何の変哲もないカレンダーがあった。
「うううっ!」
アリルンは声を殺すことも忘れ、さめざめと泣いている。
いつもの明るいアリルンしか知らなかっただけに、俺は声をかけられなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
あれから数日が経過していた。
アリルンはなにごともなかったかのようにいつもの笑顔で、俺に接してくれている。
だが、俺は一人になると、寝ても覚めてもあの時のことばかり考えていた。
だからどこか上の空になり、気づくとぼんやりと天井を眺めていたりする。
(アリルン……)
いつも笑顔なだけに、涙の理由が気になって仕方がなかった。
どうしてこんなにアリルンの涙が気になるのか、自分でもわからない。
いや、少なくともアリルンのことをもっと知りたいと思う自分がいる。
涙するアリルンを、何とかしてあげたいと思う自分がいる。
(参ったな)
そこで、彼女への想いが小さくないことを初めて知った。
俺はやはり、彼女をただのアンドロイドとして見てはいなかったのだ。
◇◆◇◆◇◆◇
朝日の差し込む窓に、いつものように黒い鳥たちがびっしりと並んでいる。
「おはよう、アリルン」
「あ、おはようございます。今日もいい天気ですね」
いつものように挨拶して、一緒に仕事を開始する。
「なぁ、アリルン。聞いていいか」
俺は回収してきた本をクリアパネル越しに渡しながら、口を開いた。
「……はい?」
アリルンが黒髪を後ろに送りながら、こちらを見る。
「こないだ、ここで座って泣いてたよな」
「……え?」
「ほら、カレンダー見ながら、泣いてただろ?」
「……あ」
アリルンがぽっと顔を赤らませて、恥ずかしいです、と呟いた。
「ごめんな。黙っていようかと思ったんだが、よっぽどのことなんだなと思ってさ。あの日ってもしかして、誰かの命日とかだったりしたのか」
アリルンは髪を揺らすように首を振った。
「……私、そんな親しい人いませんから」
「悲しくなるから、言い切るなよ」
「あは」
アリルンが、小さくだが笑う。
「あまり人には言えない悩みなんです」
アリルンが視線を手元に落とす。
後ろに送ったはずの黒髪が、さらりと胸元に落ちた。
「そうか」
少女アンドロイドだから繊細な上に、いろいろ多感にできているのかもしれない。
全く、よくできているものだ。
「自分のことなんだな。それ以上は言わなくていいさ」
言いづらいなら、それは置いておこう。
「……でも考えたら、親しい人がいないっていうのも、それはそれで問題ですよね、アハハ」
アリルンが自嘲する。
そんな姿が、俺には耐えられなかった。
「俺がいる」
「――!」
途端にアリルンの顔が真っ赤になる。
刑務官に見つかったら懲罰房行きだとわかっていたが、俺はクリアパネルの下から腕を伸ばし、彼女の右手を握っていた。
「あっ……」
「アリルンの手、冷たいな」
「だ、ダメです……いや……恥ずかしい……」
アリルンが髪を揺らして俯く。
「アリルン。俺が死んだら、悲しんでくれ。怖いかもしれないが、親しくなるってのはそういうことだ。俺とそれぐらいの距離で、いてくれないか」
「えっ……」
アリルンが、俺を見る。
「反対も然り、だ。アリルンがいなくなったら、俺が悲しむ。それはつらいことだが、俺はそれを背負ってでも、アリルンともっと親しくなりたい」
いや、正確には俺はもう手遅れだ。
俺にとってアリルンがアンドロイドだとか、そういったことはもはや関係なかった。
もう異常性癖と言われようと関係ない。
俺はアリルンが好きだ。
「トリスさん……」
アリルンがやがて大きく息を吐いて、強張っていた手の力を緩めた。
「どうした、アリルン」
「手、あんまりに、温かくて……」
人間の方にこんなに長く触れたの、初めてなんですと小声でつぶやく。
「アリルンの体温ってどれぐらいなんだ?」
「中心部は機器を守るために低いのですが、体表は35度5分に設定されています。せいぜい1度くらいの温度差なのに」
どうしてこんなに温かく感じるんでしょう、と呟く。
「俺の手でよかったら、もっと握ったらいい」
「……あ……」
「俺も嬉しいんだ。大切なアリルンに触れられて」
「は……はい……じゃあ」
アリルンがためらいがちに、俺の両手に、左手を添えた。
ふたつの手は、悲しいほどに冷え切っていた。
これは本当に35度5分の手なのだろうか。
しかし、見ると頭から蒸気を吹きそうなほどに、アリルンは真っ赤になっていた。
「あぁ……でもやっぱりいけません……こんなの」
アリルンが俺の手を放し、クリアパネル越しで届かない位置に離れる。
「……アリルン……?」
「いけないんです……私、欠陥品ですから」
背を向けたアリルンが、そんなことを呟いた。
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