第15話 違和感のある薬
飲んで見せた俺を見て、ドジ男がにやりとする傍ら、先生が目を潤ませた。
「失礼します」
先生はいつも発しないような冷たい声を発してドジ男に背を向けると、茶髪を揺らして去っていった。
「ついてこい」
ドジ男たちが俺に手錠をかけると、バビロンの非常階段らしい場所を上がっていく。
殺風景な階段をのぼりながら、気づいたことがあった。
俺の口の中で放っている、小さな甘みを伴う苦み。
この薬の味を、俺は知っているのだった。
いや、俺の口は鮮明に覚えている。
(いつもの薬とは違う……俺はどこでこれを)
そうして、はっと気づいた。
思い出されるのは、居酒屋の風景。
蘇る記憶。
これを飲んだのは、俺が三人殺した疑いのあるあの晩。
もしや、俺は居酒屋であの仲間に勧められて、この薬を飲んだ……?
口の粘膜から薬が少しずつ吸収されているのか、覚醒するというより、頭がぼんやりしてくるのがわかる。
少しずつ効いて、おそらくこの作業が終わる頃に眠くなり、眠ると記憶が飛ぶシナリオか。
(断じて、強壮剤などではないな)
さっさと口の外に出したいのだが、二人の刑務官が常に俺を見張っていて、吐き捨てるタイミングがない。
階段を上り続け、そうしている間に屋上に出た。
日差しが照らす世界を想像していた俺は、愕然とした。
「……」
刑務官たちが他言するなという意味が、この瞬間に理解できた。
なんと、空がない。
刑務所全体が巨大なシェルターのようなもので覆われているのだった。
数メートル上で、人工の屋根に覆われている。
いつも外のグラウンドに出る時は空が見えているのに、である。
収監されて5年以上の月日が経っているが、こんな風景は初めてだった。
ふと見ると、ドジ男が手元でリモコンを操作している。
見ている間に、ウィーンという音を発して目の前に梯子が下りてきた。
「屋上の清掃は俺たちでやる。お前にはこの屋根のボルト締めをやってもらう。命綱はないから、この屋上の外に出た時は気をつけろ」
そういうドジ男は、俺の手錠を外す気がさらさらないようだ。
危険な仕事なだけに囚人にやらせるが、逃亡の恐れがあるので手錠ははずさないということらしい。
「わかりました」
抗弁は許されない。
足の拘束がないだけ、まだましだ。
口の苦みを隠しながら、俺は15メートルはありそうな梯子を上る。
風にさらわれそうになるのを、手錠された手でぐっとつかみ、しのぐ。
(厄介な薬だ)
少しずつ時間とともに、よくわからない薬は粘膜から体内に入っていく。
幸いまだ、頭がぼんやりする程度だ。
しかし、もしあの時と同じ薬ならば、俺は今日見る外の様子をそっくり忘れてしまうことになろう。
(……)
三陽先生のあの曇った顔の意味がわかった気がした。
俺は屋根に上がり、ナットを持ちながらH鋼と呼ばれる鉄柱の上を歩き始めた。
歩く幅は20cmほど。
言われた範囲を飛び移りつつ、作業を始めるふりをする。
まず刑務官から離れた位置に行き、さっさと薬を吐き出すのだ。
指定された一番遠い屋根のところに来ると、真下には建物がなくなっており、遠く離れた地面が見える。
つまり落ちれば真っ逆さまに、地上へ激突する。
(さっさと終わらせるか)
ボルトを締めようと背を向けて屈む。
それにしても、手錠をかけられた状態でナットを使うのはなかなか大変だ。
片手で自身を支えねばならない高所となると、なおさらである。
刑務官は双眼鏡でこちらを見ている。
薬を挟み込んでいる歯茎と頬は、もう痺れたように感覚がなくなっている。
俺はそのまま作業を進め、刑務官が油断する隙を窺う。
しかし、三人の刑務官がすべて、目を逸らす瞬間がなかなかない。
俺はあきらめ、意識が鮮明な間に、一番大事な作業をしておくことにした。
そう、外の様子を確認するのだ。
刑務所は知っていた通り、ここバビロン棟が一番高い建物だ。
ここからなら図書館は真隣なので、詳細に観察できた。
(……思った通りだ)
音で調べた通り、俺が突き破ろうと思っていたあたりのプラネタリウムの壁は薄くなっていて、出た後も十分に足場がとれるようになっている。
だが所々が空調の設備が置かれていて、壁を開けても抜けられないのが見て取れた。
俺は視線を地上に移す。
(よし)
一番危惧していた電気柵も、脱出経路にはない。
この感じなら、出た後はうまくロープを張れば、監視塔の視界から逃れて脱獄できそうだ。
「……ふむ」
しかしこれは、このシェルターがない場合の話である。
シェルターは刑務所全体を覆っている。
出口はあるにはあるが、重厚そうな扉で、北側の監視塔の間近。
しかも監視員が二人、そこに立っている。
(あそこからは……無理だな)
このシェルターが閉じられている時間帯に脱獄を試みたとしたら、かなり厳しいものになるだろう。
そんなことを考えている時だった。
「……!」
ふいに頭が、金づちで殴られたかのような激しい痛みに襲われた。
とたんにやってきた嘔気を堪え切れず、胃の中のものがせりあがってきて、口から吐き出す。
「……ん? おい、どうした!」
意識がぐわんと揺れ、視界が白く濁った。
(まずい――!)
頭がずきんずきんと拍動する、激痛。
油断すると、意識を刈り取られそうな強烈なもの。
いつも付き合っている症状とは強さが比較にならなかった。
(まさか、動脈瘤か)
そこで、体を支えていた左手の力が急にするっと抜けた。
体が、取り返しのつかないほどに大きく傾いていく。
左足にも力が入らない。
「ぐっ!」
俺はナットを落としながらも右手でH鋼を掴み、ぎりぎりのところでぶら下がった。
「おい! 何をしている」
大声を上げる刑務官。
俺はまた口に上がってきたものを離れた地上に向かって吐き捨てると、脚をかけ、死力を振り絞って上に這い登る。
頭痛は消えていた。
「はぁ、はぁ……」
「落ちるな。去年の二の舞になるぞ!」
事情を理解できていないのだろう。
その上に変な薬を飲ませておいて、よく言うと思う。
「ち、ナットを落としやがった。こっちに戻れ!」
俺はH鋼の上を這って、刑務官のもとへ戻った。
右半身の脱力は治っていた。
新たなナットを受け取り、俺はゆっくりと先ほどの場所へ戻る。
頭痛も弱くなり、意識は保たれている。
今のは、なんだったのだろう。
(だが助かったな)
胃内容ごと、薬を吐き出すことができたのが唯一の幸運だった。
「何をしている! 早く作業をしろ!」
「時間がないんだぞ!」
「はっ」
ふらつく自分を自覚する。
すでに薬の作用も現れてきているようだ。
あまり長引くと、本当に眠気にやられて落ちてしまいかねない。
俺はひとつひとつの動作を慎重に、しかし手早くこなした。
「ご苦労。今日の作業は屋上の掃除だったと言え」
「はい、なんだか……よく覚えていませんが……」
「それでいい。では帰れ」
そう念を押されて、再び俺はふらつく足取りのまま、独居房に戻された。
戻るや否や、俺は布団を敷く間もなく崩れ落ち、いびきをかいた。
◇◆◇◆◇◆◇
「起きろ。飯はいらないのか!」
刑務官の夕食の知らせで目覚めた。
いや、正確には目覚めたフリ、だ。
俺は本当はたいした寝ていない。
薬は効いておらず、記憶も混濁していない。
見下ろした景色もすべて覚えている。
(よかった……)
俺はこれみよがしにあくびをしながら、他の囚人たちと並んで食堂に行き、夕食をとる。
刑務所の夕食は17時と早い。
週末などは16時という日もある。
それはひとえに、作る人たちが早く帰るためだ。
(あの人に聞いてみるか)
夕食を口にかきこみながら考える。
三陽先生ならシェルターの動作状況を知っているかもしれない。
いや、あの人しかいないのだ。
今の俺が情報を得るとしたら。
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