第4話 ウェディング雑誌
その日の夜だった。
「ううぅ……うぅ……!」
いつものように2つ隣の房にいる寂しがりの猫山さん、通称猫さんが夜泣きし始める。
猫さんは精神障害者の認定はもらえなかったが、極めてそれに近い人だと思う。
その唸るような泣き声に堪えて寝るのは慣れが必要だったが、本物の猫だと思えとは誰かの言だ。
慣れていた俺はそんな中でも、うとうとし始めていた。
だがその日は、別な声で起こされることになる。
「――あぁぁうるせぇ! どいつだ? あと3秒で黙らないと叩きのめすぞ!」
怒鳴り声が、棟に響いた。
俺はすぐに気づいた。
この声は、刑務官の中でも最悪評で名高い、角刈りの強呑(ゴードン)だと。
どうやら今晩はこいつが当直らしい。
190cmはありそうな筋肉質の男で、深くかぶった帽子から、常に左眼だけを覗かせている。
刑務官は共通して厳格な性格をしているが、こいつはとりたててひどい。
厳格が集まって、蜜を垂らすほどに巣を作っている。
「猫さん」
「猫さん、やめろ」
俺や周りの囚人がゴードンに気づき、小声で制止するが、だめだった。
「ううぅ……うぅ……!」
「灯りをつけろ! 3秒たったぞ」
俺達の棟に灯りが差し込む。
「ううぅ……うぅ……!」
「ここか、開けろ」
俺は鉄格子に捕まり、外を覗き見る。
バチバチと光る警棒を手で打ち鳴らしながら、ゴードンが猫さんの房の前に立っていた。
今日は「処罰型刑務官」役らしく、防具をつけているが、あるはずの仮面はすでに外していた。
まあこいつは仮面をつけていても、その体格ですぐに判別がつくが。
「――うぇぇぇ!?」
やがて猫さんが髪を掴まれて、強引に外へ引っ張り出される。
猫さんが、ばたばたと手足を動かしてあがいている影が見える。
すぐにガキッ、とどこかの骨が折れる音がした。
それきり、猫さんのあの声は聞こえなくなった。
「脱獄しようとした罪だ」
代わりに、警棒で打ちつける音がしばらく止まなかった。
この刑務所という世界では、刑務官が白と言えば白くなる。
俺たちは逆らえない。
次の日以降、俺たちは猫さんを見ていない。
◇◆◇◆◇◆◇
蒸した季節がやってきた。
舎房には冷房というものがないから、夏の夜は実に過酷だ。
俺は模範囚で独居房だからいいが、雑居の場合は命の危険すら感じる。
そんな中、図書係はもう7日目になった。
アリルンという人、いや、アンドロイドにもずいぶん馴染んだ。
まあ、こう毎日何時間も一緒にいると、こんなに短期間でも侮れないほどに愛着が湧くものだ。
「これと……これです」
「あいよ」
「あ、これも載せたいです」
「あ、『大航海』ね。俺も好き」
俺はいつものように、アリルンからカートにのせる本をクリアパネル越しに受け取っているところだった。
気づいた時には、本を受け取る時にアリルンの手と、俺の手がもろに重なっていた。
「あっ……」
ぱっと本を放し、顔を真っ赤にして、手を引っ込めるアリルン。
アンドロイドの彼女の意外な反応に、首を傾げた。
「ごめんな」
「……」
彼女は黒髪を揺らして俯いたまま、言葉を発せずにいる。
「どうした、アリルン」
「ご、ごめんなさいっ! 気にしないでください」
アリルンは俺に触れた手を胸に抱えて俯いている。
まあ気にしないでと言っているから、これ以上問いかけるのは野暮か。
「……あれ? アリルン、みんなはこんな雑誌読まないと思うが」
カートに載せてみると、いつものように受け取った伝記物の中に、見慣れぬ雑誌が混ざっていた。
白いブーケをつけた女性がこちらを振り向いて、満面の笑みを浮かべている表紙。
それはゼクシィという雑誌だった。
「あっ、あああ!?」
しかも丁寧に付箋がびっしりとつけられている。
本に開かれたくせがついていたのか、手に取っただけで本は開き、あるページが開かれる。
そこには愛らしいウエディングドレスを着た女性が、くるっと回ったポーズでピースしていた。
「ちょ、ちょっと! だめですっ!」
なんと鉄の扉をばたん、と開けてアリルンがこちらに出ると、俺の手にあったゼクシィを引ったくっていった。
「な、なんだ」
すぐさま胸元に抱えて、どぴゅーん、と目の前からいなくなる。
アリルンのスカート、案外に短くて膝上だったこともここで初めて知る。
「な、なんでもありません! ていうか見ました? 見てないですよね!?」
「……ゼクシィを?」
「――いやぁぁぁ!?」
目を見開いて驚愕するアリルン。
「見ちゃいけなかったか」
「……」
真っ赤な顔のまま、アリルンが俯いている。
ゼクシィとは、結婚関連の内容に重点を置いている総合情報誌で、ウェディングやブライダルからハネムーン、新居までありとあらゆる関連内容を特集してくれているありがたい雑誌だ。
「アリルン、もしかしてウェディングドレスに興味があるのか?」
アリルンは、はっとしてしばらく硬直した後、思い出したように首を振って否定した。
どうやら図星のようだ。
「着たいんだな?」
俺はいつもアリルンが着ている深緑色の服を見ながら言った。
「着たくありません!」
勢いで否定するアリルン。
案外、強情だ。
「いや、女の子なら、みんなウエディングドレスって着たいものだぞ」
「……えっ」
アリルンが目をぱちくりさせる。
「……本当ですか?」
「そうそう。みんな一生に一度しか着れないからな。今のアリルンみたいに何度も雑誌とにらめっこして、何日もかけて選んで着るんだってさ」
まあたまに何回か着る機会がある人もいるのかもしれないが……。
「……でも私、アンドロイドなのに」
変じゃないですか、とアリルンはぽつりと言った。
「アリルンだって女の子だ。別におかしくないさ」
「本当ですか?」
その表情が小さな安堵に包まれる。
「そうさ。むしろその方が普通に感じる」
「バカみたいじゃないですか?」
「どうして?」
「だって……」
……るわけじゃないのに、といった言葉はかぼそくて、俺にはよく聞こえなかった。
「どうしようとアリルンの自由だろ」
俺は自分の気持ちを口にする。
「そうですか?」
「ああ。少なくとも俺はしない……うっ」
そんな話をしていた折、急にめまいが俺を襲った。
「ぐっ」
片膝をついて、両手で頭を押さえる。
「と、トリスさん!?」
アリルンがふたたび扉を開けて駆け寄ってくる気配を感じた。
「まずい……」
体が勝手に小刻みに震え始める。
始まる、痛みを伴う手足の痙攣。
そのまま、俺の意識は遠のいた。
「トリスさん! トリスさぁぁん――!」
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