第10話 蛇の悪意
黴臭い地下を出ると、パムは深呼吸をした。臭いが苦手だったようだ。それとも、魚の缶詰のせいかもしれない。カナならいっぺんに上機嫌になるあの匂いは、パムにとっては、刻んだ死体のはらわた並みに耐えがたいようだから。
「さっきの、何?」
僕は半分目が回っているみたいな友達に尋ねた。地下を去る直前、パムは消え入りそうな声でテラに言ったのだ。
──もしも目がよくなるなら、その方がいい?
テラは意表を突かれたように黙った。
しばらく考えて、それから答えた。
──今さらだわね。見たくないの。特に鏡とか。
──それに、ここにいれば、目なんか要らないでしょ。
そうだねとパムは頷いて、それ以上何も言わなかった。
日差しに目を細めながら、パムは僕の質問に答えた。
「もしかしたら、目の痛みだけでも治せるかもしれないと思ったけど……必要ないっていう人もいるからね」
「治せる? どうやって」
「うん……いつかイサが怪我をしたら、治すよ。そんなことがないといいけれど」
避けるようにパムが言葉を濁したので、僕は追及をやめた。
パムが僕に言いたがらないことなんて初めてだ。目を伏せた顔がまるで怯えたようで、僕まで不安になってしまう。
「気分が悪いなら、花壇にいる? 僕はシアとクロトを捜すけど」
「そう……だね。ごめん。その方がよさそうだ」
パムは弱々しく笑った。
友人を花の群れに預けた後、僕はまず、ディナとシアを捜して庭を歩き回った。
エルリ本人を捜すのは一旦お預けだ。エタに言ったとおり、夜にはお決まりのねぐらに帰ってくるだろうけど、昼間の動きはつかめていない。
クロトを捜すのも後にしたい。エルリやシアよりもずっと厄介そうだから。
いったいどうして、クロトはエルリを捜しているのだろう。
捕まえて締め上げれば、吐かせることはできると思う。でも、最初の日のように単純にはいかない。今では、クロトはいわば《城》の王の側近なのだ。いちばん下っ端だとしても、側近は側近。下手に手を出せば、バールの敵意を買う。
暴力と殺意と昏い混沌を身にまとった、あの《城》の王の。
しばらく捜すと、シアとディナが木立の間の日だまりにいるのを見つけることができた。日向と日陰に並んだ、石の椅子。シアが陽光の下で気持ちよさそうに躰を伸ばし、ディナは木陰で気怠げにまどろんでいる。
そして、ディナの後ろにクロトが立って、うんざりしたような嬉しそうな何とも言えない顔で羽虫を追い払っていた。
思わぬ遭遇に僕はぎょっとしたけれど、すぐに好都合だと思い直した。
クロトがどうしてディナの下僕役をさせられているのか知らないけど、今ならバールや取り巻きどもの邪魔は入らない。情報を引き出してみよう。
「クロト。それ、何の遊び?」
声をかけると、クロトは歯を剥き出した。
「何でもねえよ。あっち行けよ」
「薬をあげようか?」
虫除けの草の葉を足元から一枚摘んで、ひらひらと振ってみせる。クロトはそっぽを向いたけれど、シアが身を起こして、「ちょうだい、情報屋さん」と手を出した。
「ここ、蚊が多いのよね。クロトはディナが起きるまで、肌に虫が止まらないようにする係。男の子って、どうしてディナの命令に逆らえないのかしら?」
「……そんなことない。バールはあたしが何を言ったって、聞いてくれないもの」
ディナがゆっくりと頭をもたげ、椅子の肘置きに頬杖をついた。どうやら眠っていなかったらしい。
袖無しの黒い服の下から血が透けるほど白い腕が伸びて、細い顎の枕になる。うなじに絡みつく黒髪。その下の肩、鎖骨、さらに下へ続く躰の形。ディナはそれが定義ででもあるかのように視線を誘う。
傷跡だらけの躰は壊してくれと言わんばかりで、僕にはむしろ恐ろしい。
「そういえば、バールがエルリを捜してるって?」
シアの手に薬草を渡してやりながら、僕は気を取り直して鎌をかけた。
クロトがバールの命令でエルリを捜しているのかどうかは、まだ分からない。バールの名前を出したのは、ディナの注意をひくためだ。《城》の王妃様の座が欲しいディナは、絶対に事情を知りたがる。僕の代わりに、クロトから情報を吐き出させてくれるだろう。
「えっ……どこで聞いたんだよ、それ」
クロトが慌てるのと同時に、案の定、ディナの眉がつり上がった。
頬杖を外し、細い手を閃かせて、ひっぱたくようにクロトの手首をつかむ。
「本当?」
クロトの腕を強く引き、今にも牙を突き立てんばかりに喉笛に顔を寄せて、ディナは囁いた。
「バールがエルリを捜してるの? どういうこと?」
あんな小猿ごときが競争相手になるとは思わない、思わないけれど不安だ──ディナの声音はぐらぐらしている。
吐息が首にかかってたまらないのだろう、クロトは必死に身をよじって逃れようとした。
「あんたが気にするような理由じゃねえよ! ただその、エルリが鍵開けられるっていうからさ。それで、鍵かかってる部屋、開けさせようとしてんだよ。それだけだよ!」
「鍵かかってる部屋って、どこのこと? 開けてどうするの?」
「全部だよ、全部! どっかに食い物とか、銃とか、使える物があるかも知れねえだろ。エルリが鍵開けられるんなら、全部開けて調べるって、バールが言ったんだ」
ふうん──?と痺れるように甘い半信半疑の声を投げつけて、ディナが手を放す。便乗して僕も尋ねた。
「どうしてエルリが鍵を開けられるって分かったわけ?」
「あたしたちが見たのよ。ディナとあたし。あの子、あたしたちの向かいの部屋の鍵、針金で開けてたわ」
答えたのはシアだった。虫除けの草を指先で潰し、清涼な香りを漂わせている。
「真っ昼間に堂々とやってるんだもの。何してるのって訊いても、けろっとしてたわよ。ちょうどいい針金を拾ったから、『練習』したくなったんだって。あの子、《城》を出たらまた空き巣に戻るつもりみたい」
「だからって、
ディナが振り向き、冷たい怒りを露わにした。
「ぞっとするわ。寝てる間に誰か部屋に入ってくるかもしれないなんて」
「同感だね」
僕は呟いた。エルリは危機感が足りないようだ。今のところ、僕はエルリに《城》からの脱出経路を作ってもらうことしか考えていない。だけど、もしも僕たちがこの先も《城》に閉じ込められたままで、エルリが僕の部屋の鍵を自由に開けられるなら、僕は彼女の利き手の指を潰そうかどうか迷う。もっと酷いことを考える奴が出たっておかしくない。
そういう特技は、文字どおり命を賭けて秘密にするべきなのだ。
「エルリが鍵を開けられること、他の子も知ってる?」
訊いてみると、シアは頷いた。
「堂々とやってたって言ったでしょ? あの子が鍵をいじってるのを見たの、あたしだけじゃないわよ」
シアたちの部屋の向かいといえば、中央棟の東隣、つまり東棟の二階。女の子のほとんどが住んでいる場所だ。シアのようにお喋り好きな子もいるから、《城》中にエルリの特技の話が広まっていてもおかしくない。
ディナがまた椅子に躰を横たえながら、昏く笑った。
「あたしも、腹が立ったから、他の子たちに警告してあげたわよ。
『エルリは人の部屋の鍵を開けてる、あんたやあたしの身に何かあったらあの子のせいだ』
──ってね」
瘴気のような悪意に、樹下の陰がいっそう黒ずんだ気がした。
クロトが毒蛇に咬まれたように後じさる。
怖え、と呟いた彼を嘲う気にはなれなかった。ディナは充分に分かってやっている。そんな噂を流せば、誰かがエルリを排除しに行くかもしれないことを。
女の子同士のお喋りに興じているシアと違って、ディナがけしかけたのはおそらく男だ。それも、見世物小屋で大人たちに「可愛がられて」いたセトや、自分を虐待する義父と母を刺し殺したハミのような、猜疑心が強くて、何をするか分からない連中。
そして、バールも、エルリを捜している。バールはまずはその特技を活用することを選んだようだけれど、使い終わった後のことは分からない。
厄介なことになった。僕は強く奥歯を咬む。
今この瞬間にも、誰かがエルリの痩せた首に手をかけているかもしれない。女の子でも気性の荒いリリカやランなら、ディナと違って、目障りな小猿を直接叩き潰そうとするかもしれない。
エタがエルリを捜していたのは、もしかして、誰かに情報を売るためか?
僕は他の子たちよりも先にエルリを見つけられるだろうか。貴重な特技が失われる前に。
どうすればいいか思案していると、ふと、物言いたげなクロトと目が合った。
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