第17話 《悪霊》と《恵み》

 僕とカナがシアを抱きかかえて運び込むと、パムは表情を強ばらせた。


「イサ。何があったの──?」

「頭部打撲。裂傷」


 手短に僕は事情を説明する。

 パムは緊張した、けれど落ち着いた眼でシアの傷を観察した。

 琥珀色の美しい眼。死にかけた生き物なんか、毎日鏡の中に見ている眼だ。

 カナが不安そうに尋ねた。


「パム。手当てとか、できる?」

「……治せる、と思う」


 息を吐いて、パムは言った。


「どうやって?」


 僕の問いには答えず、指示を出し始める。

 傷口を綺麗にすること。寝台に寝かせて、枕で頭を高く。吐いたものを喉に詰まらせないように。

 準備が終わると、パムは僕に、「彼女を押さえていて」と頼んだ。


「少し、痛いから。暴れないように」


 何が痛いのか想像がつかなかったけれど、僕は寝台に上がり、言われたとおりにシアの躰を固定した。

 パムは弱い躰でゆっくりと患者に這い寄り、側頭部の傷に顔を近づけた。小声で祈りの言葉を唱える。意味は分からない。聖堂で使われる古い言葉のようだった。

 シアの額を裂いた傷に、パムはそっと唇を当てる。傷口に直接触れられ、シアが悲鳴を上げた。僕は反射的にその頭を押さえ、動かせないようにした。

 パムの口元が血で汚れる。薄紅色の舌先が傷口をなぞる。悲鳴が高くなった。


 甘い金色の滴が、血に混じった。


 パムは顔を離した。傷口から唇へ、蜜のように光るものが伝った。子供のように泣くシアを、悲しい目で見つめて、また聖句を口ずさむ。口づけて、舐める。

 傷を覆っていくものは、唾液ではなかった。パムの眼と同じ黄金の、花の香りのする液体だった。

 そして――金色の膜の向こうで、ゆっくりと傷が塞がり始めた。

 異様な光景に、僕は声を失った。血が止まり、組織の裂け目が埋まる。皮膚が伸びる。薄桃色の新しい頭皮から、細い髪さえも生えた。

 パムは祈りと口づけを繰り返す。

 金色の蜜がシアの頬を伝い落ちる頃には、透明な液体越しに見えるシアの側頭部には、何の傷も残っていなかった。


──天上の母よ、とパムは囁いた。


「我らに安息を与え給え。

 暁とともに目覚め、夜にもくらやみおびやかされざらんことを。

 永き病と苦しみの地上に、我ら御筆もて、御言葉を書き記さん」


 最後の聖句だけを僕たちにも分かる言葉で結んで、躰を離す。

 シアの目にはまだ涙が浮かんでいたけれど、躰からは力が抜けて、ぐったりとしていた。

 カナがぽかんと口を開けている。


「治った……?」

「治ったよ」


 答えて、パムも寝台の上に頭を落とした。ずっと堪えていたように激しく咳き込んで、躰を丸める。

 急いで僕はシアを放し、水を汲んできてパムに飲ませた。なめらかな頬は赤みを帯びて、熱っぽい。治療をする前よりも体調が悪くなっているように見えた。


「ええ、ほんとに治ってる……。何で? どうやって?」


 カナが騒ぐ。シアはうるさそうに顔をしかめ、瞼を閉じて、眠りに落ちていった。

 パムは「静かに」とカナをたしなめ、僕を見上げた。悲しげな、少し怯えた表情だった。

 僕は水の椀を机の上に置き、パムの額に掌を当てた。


「熱が出てきたんじゃないかな」

「……うん」


 戸惑ったようにパムは頷く。カナがまた言った。


「ねえ、なんで──?」

「カナ」


 僕が言うと、カナは黙った。訊くな、という暗黙の要求を感じ取ったようだった。


「……ありがとう、イサ」


 パムは微笑んだ。僕がカナを黙らせたことで、かえって決心がついた様子だった。


「カナ。ぼくの躰の中には、怪我を治す力がある《悪霊ファヴリル》が棲んでいるんだよ」

「──ファヴリル?」


 カナは表情を硬くした。

 僕も思わず眉を寄せた。ある種の生物によって引き起こされる疾患を、悪霊ファヴリルが憑くと言う。死に至る病ではない。けれど、治療法のない、恐ろしい病だ。


 その生物、即ちファヴリルは、


 この世に存在するものには全て、それぞれの「定義」がある。定義は僕たちの躰を形作る。エタの鼻のように。テラの耳、リグの目、ブロッシュの体躯のように。その躰から生まれる心にも、定義はある。複雑で、繊細で、混沌として謎めいた、読み解くことも難しい定義だけれど。

 だけど、ファヴリルは、人間の定義を変えてしまう。

 ファヴリルに寄生され、られた躰は、変形し変異する。どんな形状になるかは人それぞれだけれど、多くの場合は、悪い夢から這い出してきたような姿だ。心にまでが及べば、人格が融解し、正気も保てない。

 昔の症例では、患者が一年もの間逃亡を続けながら、行く先々で人を喰い殺して回ったこともあるという。犠牲者の数は五十人余り。その半数以上が子供だった。

 世間が悪霊ファヴリル憑きを忌み嫌うようになったのも、当然だ。

 そのファヴリルが──傷を治す?


 カナも僕と同じ疑問を覚えたようだった。


「ファヴリルは、病気に『する』ものでしょ。治したりなんかできないよ」


 パムは首を横に振った。


「いわゆる悪霊憑きを引き起こす種類のものはね。でも、躰を治す働きをする種類もあるんだよ。他の生き物の躰の中に棲みついて、共生する菌みたいなもの。聖堂では、《恵みレキ》と呼ぶんだけど……」


 言葉を選びながら、ゆっくりと説明する。


「レキは、人の心と躰を、あるべき姿に戻すんだ。傷を負うということは、一時的に、その躰が本来の定義から外れた状態になるってことだから……。レキは、傷つけられた状態を本来の定義に従って修復する。『書き治す』んだ」

「じゃ、君の躰は? そのレキがあるなら、いずれ、健康になる?」


 僕は尋ねた。そんな便利なものが躰の中にいるなら、どうしてパムは、いつもいつも熱を出したり咳き込んだり吐いたりしているのだろう?

 パムはまた微笑んだ。


「レキは、その人の躰を、本来の形に戻すだけだから」


 哀しげな声だった。


「自分の定義を、自分で好きに決められたら、どんなにいいだろうね。……でも、そんなことはできない。誰にもできない。血や、育った場所や、出会った人がぼくたちを創る。どんなに強く願っても、そのとおりの自分になれるとは限らない」


 人間の定義。躰の定義。心の、魂の定義。

 パムの言いたいことは分かる。僕たちの躰は遺伝や生活環境に左右されるし、心も、出来事の影響を受けずにはいられない。傷つき、形を変えていく。

 そうやって自然に少しずつ書き変わりながら、同じひとりの人間であり続ける。

 決して変わらず、変えようもない、たったひとりの人間で。


 虚弱な友達は、何もかも受け容れたように笑っていた。


「だから……ぼくの定義は、これなんだ。ぼくにとっては、この今の躰が、『本来の形』なんだよ」


 そんなの、あんまりだ。

 舌先まで声が出かかった。ちょっと気温が下がるだけで死にかけて、自分ひとりでは身動きもままならず、刻々と近づいてくるものをただ待っている──それが定義だなんて、酷すぎる。

 カナも唇を尖らせていた。よく分かんないけど、パムの病気が治らないのはいやだな、と顔に書いてある。

 パムは僕たちから視線を外し、シアの寝顔を見つめていた。寂しそうで、でも満足しているようでもあった。


「治すときには、傷口に口をつけなきゃならないからね。ぼくの躰も、こんなふうだし、きっと気持ち悪いんだと思う。いやがる人もいるし、そうじゃない人も、治療のために我慢してくれてるだけなんだ……」


 テラの地下室に行った後の、怯えたようなパムの顔を僕は思い出した。

 それで、今まで、レキのことを僕たちに内緒にしていたのか。

 すぐにカナが肩を竦めた。


「いやがるなんて、そんなの、ぜいたくだよ。治してもらえるのに。ね、イサ」

「むしろ、治療のためだからって、他人の傷なんか舐めさせられる方こそ災難だ」


 少し腹が立って、僕も同調した。パムにしてはくだらないことを気に病むものだ。自分の死さえ受け容れているくせに、僕とカナの顔色ひとつが怖いなんて。

 腹立ちついでに手近な布を一枚取り、友達の口の周りについた血を拭ってやった。

 くすぐったそうにしながら、パムはようやく、幸福そうな笑みを頬に上せた。


「イサらしいね。カナも。……ぼくは、何を怖がっていたんだろう……」


 頭を僕の腕にもたせかけ、呟く。瞼を閉じた顔は穏やかだった。

 僕は腕の中の躰に目を落とした。あまりにも小さすぎ、弱すぎる躰。簡単に壊れ、軋み、苦痛を訴える躰。恵みを満たし、他人の痛みを癒やす躰。

 その躰に閉じ込められた生命の価値。

 僕たちはそれを、いつまで守っていられるのだろうか。

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