第三章 月光
第18話 魂の形
9
ひどく体調を崩し始めたパムに、僕とカナは日が暮れるまで付き添っていた。
もう一度ブロッシュの地下室に挑戦するのは危険に思えたし、かといって扉を開ける他の方法も思いつかない。夕方頃にはシアも目を覚まし、カナに送られて、東棟へ帰っていった。
夕暮れの光の最後の欠片が窓枠の上から消え、薄青い闇の中にパムと僕だけが残った。
寝台の足元に腰かけていた僕に、パムは掠れる声で問いかけた。
「イサ。今日……何か、話さなかったことがあるんじゃない?」
僕は友人の貌を見つめ返した。
微かな光に融けて、パムの輪郭は曖昧だった。ただ声だけが、弱って苦しんでいるのに、まるで人間よりも遙かに智慧ある生き物のようだった。
どうやって僕のごまかしに気づいたのだろう。
ちいさな子供になったみたいな気分がした。心の奥の奥まで見通されている気がして、恥ずかしさがこみ上げた。
僕は白状した。バールが僕に目をつけているらしいこと。クロトの忠告。テラが受けた拷問。そして、以前に地下の食料貯蔵庫で会ったときの、昏く混沌としたバールの眸。
パムは黙って僕の話を聴いた。
ひととおり聴き終わると、口を開いた。
「《城》を……出るときが来たのかもしれないね」
鋭い痛みが胸を裂いた。
考えていなかったわけではない。《城》に来たその日から、常に頭にあったことだ。そもそも僕が今回の件に首を突っ込んだのも、エルリに鍵を開けさせて、《城》から出る道を作ろうと思ったからだった。
それでも、改めてパムの口から聞くと、思いがけないほどのつらさがあった。大切なものを棄てようとしている気がして、やり切れなかった。
パムは咳き込みながら続けた。
「外も、治安がいいとはとても言えないけど……少なくとも、イサ、きみを狙って襲おうとする人はいない。食料と水を持って、町まで逃げられれば……」
「無理だよ」
僕は反論した。自分でも情けなくなるほど自信のない声だった。
「《城》からは出られない。エルリも見つからない。たぶんもう誰かに殺されてるんだ。鍵を開ける方法はないし、壁を破るのは無理だ。崖を登るのだって──」
言葉に詰まる。
浅い夜闇を透かして、パムが僕を見ているのが分かった。
どんな嘘も見抜かれてしまう。多くの人間が見ないものを見ている、その金色の眼には。
パムは微笑んだようだった。
「登れるでしょう。
僕は自分の背中から肩へ巻きついた金属に触れた。
《施設》の監督官につけられた拘束具。奴らの都合のいいときにしか外してくれず、勿論、《城》に来てからは一度も外れたことがない。
慣れているから日常生活には支障ないけれど、激しい運動となると話は別だ。この重量を背負っていては、満足に動けない。長い距離は走れないし、身のこなしも鈍くなる。崖を登るのだって、人間一人背負って登るようなものだ。躰への負担だけじゃなく、崖の方も崩れやすくなる。
もしも鎖が外れて、この重さがなくなれば──。
「……外す方法がないよ」
やっとのことで言い返すと、パムは首を横に振った。
「背中の留め具を壊せばいい。……鎖の部分よりは脆そうだ」
「脆いって言っても、拘束具だよ、パム。自分で壊せる代物じゃない」
「そうかな。……《城》に来てから、ずっとつけたままでしょう。時々見ているけど、留め具の塗装が剥がれているし、錆が出てきているよ。……色々な物に引っかけて傷つけたり、濡らしたり、いつもかなり乱暴にしてるもの」
「それは、別にこんなもの大事にしてはいないけど……でも……」
僕が言いよどむと、パムは、
「釘か何かで削って壊せばいい。手が届かなければ、カナに壊してもらえばいい」
と、逃げ道を閉じた。
そのとき、不意に、ひときわ不気味な音がパムの喉で鳴った。
小柄な躰を食い破って、咳が溢れた。パムは枕に顔を伏せ、身をよじって喘いだ。うまく呼吸ができないみたいだった。まるで自分の内臓を吐こうとしているかのように激しく
僕は懸命に小さな背をさすった。何度か抱きかかえて浴室に運び、寝台を汚さないようにしてやらなければならなかった。
パムの躰の中に棲んでいる《
イサ、とパムは僕を呼んだ。先程までよりも、その声はずいぶん弱くなっていた。
「《城》を出た方がいい。……カナと一緒に。ひとりよりも、ふたりの方が……」
僕は濡らした布でその口元を拭って、黙らせた。
「行かない。他人事みたいに言うな」
強く言うと、パムは口をつぐんだ。
しばらくすると、咳は徐々に収まり、呼吸が戻ってきた。
もうすっかり暗くなっていたけれど、僕は灯りをつけなかった。夜には夜の暗さにしておいた方が、パムは寝つきやすい。彼が眠ったら、僕も自分の部屋に戻って休もう。それまではここにいよう。
窓枠の中に、円い月が昇っていた。夜闇が濃く深く降りて、月光は部屋を仄白く照らし出した。
寝台に横たわったパムの躰の輪郭は、微かに上下している。それは本当に目の錯覚かと思うくらい微かで、たった今消えてしまえば、動いていたことがあったことさえ思い出せなくなってしまいそうだった。
パムは眠らず、何か考えているようだった。
やがて、細く長く息をついて、僕を呼んだ。
「イサ。こっちへ来て」
僕は夜闇を透かして友人の貌を見た。月光に浸された、性別を感じさせない顔立ちを。
なぜだか怖いような気がした。パムはもう一度僕を呼び、言われたとおりに僕が枕元に行くと、お願いだ、と言った。
「これを取って。……この服を」
僕は戸惑った。服といっても、躰が動かないパムは、布を巻きつけているだけだ。その布は肩から下をくるんでいて、カナは替えるのを手伝っているようだけれど、僕はそれを取ったところを見たことはなかった。
「どうして?」
僕が尋ねると、パムは、「見れば分かるよ」と答えた。
──お願いだ、これを取って。
断れなかった。僕はそろそろと屈んで、床の上に膝をついた。パムと同じ目の高さで、手を伸ばした。
光が窓から降り注いでいた。仄白い夜の寝台の上で、パムは顎を持ち上げ、透けるような喉を露わにした。薄い皮膚に僕の指の影が落ちて、伝った。
パムの首は花びらに似てなめらかな手触りがして、そうして驚くほど冷たかった。
僕は布を手で探り、友達の鎖骨があるはずの辺りに指を差し込んだ。
──指先を、ぐにゃりとした、異様な手触りが迎え入れた。
指を引っ込めたくなる衝動を、懸命に僕は
本当は薄々とは気づいていた。パムを抱えて歩くたびに、布越しに小さな躰の形と感触が伝わってきたから。
それは、パムの躰が弱いからじゃない。
たぶん、躰が弱いことの方が、「これ」の結果に過ぎないのだ。
僕は巻きつけられた布を丁寧にほどき、友人の躰から引き剥がした。
そして──悲鳴を堪えた。
目をそらさないのがやっとだった。
そこにあるものは暴力だった。耐えがたい、なんて言葉を超えている。歯を食いしばって声を殺すと、こみあげたものが苦く目を灼いた。
月光にさらされたパムの躰には、人間らしいところなんて、何一つ残っていなかった。
性別もない。どうやって最低限の生命活動を維持しているのかさえ分からない。
人の躰を治すという《
死なないようにしているのだ。
出鱈目に
《
それも、僕が今まで一度も見たことがないほど、酷い。
パムは顔をうつむけて、長い睫に縁取られた目を伏せていた。顔立ちが綺麗なだけに、その姿はいっそう不気味だった。パムの優しさや、善意や、苦痛を知っていればいるほど、おぞましかった。
堪えきれずに、涙が頬を落ちていった。滲む視界を手の甲で拭っても、後から後から溢れた。
「──治らないの?」
声の震えを必死に抑えて、尋ねた。
「君のレキは、定義を書き治すって言ったじゃないか。こんなの……こんなのは……」
「治らない」
パムの声は優しかった。
「言ったでしょう。……これが、ぼくの定義なんだ」
「違う! 《悪霊》憑きは、人の定義を勝手に書き変える。そういう病気なんだ。だから……君だって、病気になる前の姿に、戻れるはずだ……」
「そうじゃないんだよ、イサ」
パムは首を横に振った。
「ファヴリルは、人の定義を、全く勝手に書き変えはしない。人が元々心の奥底に持っている形を、躰の上に引きずり出してしまうだけだ。ぼくの場合で言えば、この醜くて、弱くて、どうしようもない形が、本当のぼく……。ぼくの魂の形が、これなんだ」
「違う……!」
そんなはずはない。僕が知っているパムは、そんな人間じゃない。
月光の中に、パムの声が淡く融けた。
「もし、そうだとしたら……それはきっと、ぼくがこの《城》に来られたからだよ……」
イサ、きみと会ったから。きみやカナに会って、助けてもらったから。
自分が生きていることにも、意味があると思えたから。
微笑む気配がした。
パムは僕が泣き疲れて寝台に顔を伏せるまで待っていた。やがて、指とも何ともつかないものを伸ばして、濡れた僕の頬に触れた。
「ありがとう、イサ」
彼──彼なのか彼女なのか、僕にはもう確信が持てなかった──は言った。
「泣かないで。分かったでしょう。一度ファヴリルに書き変えられた躰は、もう二度と変わらない……。ぼくのこの躰じゃ、きみと一緒には、行けない」
この躰では、どこにも行けない。生きることさえできない。
だから、どうか、きみは。
パムの言葉の続きを、僕は聞けなかった。聞きたくなかった。
駄々っ子のように首を振った僕に、パムは苦笑いをした。
「困ったな。イサは本当に……見た目と違って……」
そして、また激しい咳がその躰を襲った。
小さな全身が歪んだかと思うと、関節らしき襞のある部分から、じわりと薄赤い体液が滲み出した。僕は急いでパムの服を元通りに着せ、少しでも暖まるように、悪霊憑きの躰を胸に抱え込んだ。
咳は長く続き、パムの躰は引きつれるように震えた。細い喉の奥で間断なく、獣の唸りに似た音が鳴る。吐くものももうなく、血の混じった唾液だけが僕の手を汚した。
どうすることもできなかった。僕はただ、壊れ物のような躰を抱いて、時間が過ぎるのを待った。
ようやく咳が弱まり、止んだとき、パムは眠りに落ちていた。
気を失ったのかもしれない。どちらでもいい。
安堵の息が漏れた。苦しむパムを見ているのは、僕にも苦痛だ。
軽い躰を寝台に寝かせて、枕元の床に腰を下ろす。寝台の足に肩を預け、できるだけ楽な姿勢をとった。
胸の底に、冷たく、虚ろなものが落ちていた。
誰でもいい、今夜、敵がここへ来ればいい。
僕はそれを殺すだろう。力の限りに引き裂いて、窓から撒き散らすだろう。
他には何も、僕にできることなんかないのだから。
立てた片膝に顎を乗せて、僕は夜明けを待った。
月の光が届かない暗がりで、無力な殺意を抱き続けた。
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