第50話 治癒
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大切だったものが、去った。
僕の中でも、何かが死んだ。怒りも憎しみも湧いてこなかった。
パムの声が絶えると、後には虚ろな静寂だけが残った。
なぜ止めなかったのか。こんなにも惨いやり方で去って行くのを、どうして黙って見送ったのか。
鈍い後悔が聞き慣れない言葉のように囁き、突き刺され抉られた傷が疼いて、無駄だと告げた。
パムはたぶん、元から地上の生き物ではなかった。人間よりも遙かに神聖な何かだった。
神様の子供。
決して読み解けない詩のように、僕には計り知れない言葉を、パムはたしかに持っていた。あの確信に満ちた微笑。パムの意志。
夜はもう完全に去っていた。空気は白く明るく、朝日の残滓も消えようとしている。満足げに沈黙した「それ」の巨体だけが、まだ悪夢の中のものだった。
「それ」は身震いをした。女の唇に陶然とした笑みが浮かんでいた。
赤黒い躰を持ち上げ、再び腕をこちらへ這わせた。パムを平らげてしまい、僕も喰おうと思ったようだった。
焼け爛れていた体表が、ゆっくりと癒え始めていた。黒く炭化した部分が剥がれ落ち、体液が染み出す傷口が塞がっていった。
焦げた樹の根の皮に、生きた組織が再生する。瘢痕に覆われていた牝馬の後肢が、優美な毛並みを取り戻す。黒ずみねじれた蝙蝠の羽にはなめらかな皮膜が蘇り、大きく広がって陽光を受けた。
金色の光の粒が、舞った。
異変に気づいた「それ」が動きを止めた。
女の貌が、眉をひそめる形に歪む。
光を浴びた蝙蝠の皮膜が、不意に、薄紅色に透けた。
皮膜の間に折り畳まれていた白鳥の片翼も。犬の頭部の後ろに生えた長い兎の耳も。背を覆った薔薇の花も。
そうして、音もなく歌が始まった。
明け方の空の色に染まった蝙蝠翼が震え、羽ばたいた。「それ」の全身を静かな羽音で満たし、揺さぶった。
最初の旋律を響かせた蝙蝠はひときわ強く宙を打ち、自らを血の色の巨体から解放した。羽の付け根が「それ」の背から剥がれ、黄金の雫が舞い上がった。
既に眩しさを帯び始めた淡青色の天球へ、羽は薄紅色の幻となって飛び立つ。
血で書きつけられた《定義》が、消える。
片方だけの白鳥の翼が続いた。透明なガラス細工のように羽根を舞い散らせ、澄んだ音の印象を響かせて消え去った。
数え切れないほどの薔薇の花も、やわらかな薄紅色に響いて散った。孤独な食虫花の花弁が囁き崩れた。血の色だった蔦はうすく限りなく透きとおり、螺旋の音階を描いて消滅した。
全ての《定義》を導くように、金色の詩が歌っていた。引き裂かれ、押し潰され、歪な傷として刻みつけられた《定義》たちを、静かに抱き取り、解き放った。
女の貌は叫びを上げる形に口を開いていたけれど、無力だった。離れていくものたちを引き止めるすべはなかった。
「それ」は声を、響き合うべき言葉を、持っていない。
兎の耳が先に行く旋律を聞き届けて揺れ、犬の頭から解けるように離れた。ちいさな子兎の幻となって、踊るように駆けていった。
《定義》の数だけの変奏が後につづいた。
物静かな象の歩み。すばしこい狐とトカゲの逃亡。雄牛と牝馬の力強い脚。蜻蛉と蜂が微かな羽音を撒き散らして飛んでいく。毛足の長い犬と、大猿と小猿が走る。
少し暗い色の、細い可憐な蛇が離れて残り、やがて、《城》にいるはずの誰かを探すように、庭園の木立の奥へと這っていった。
皆、それぞれに消えていった。儚い薄紅色の残響だけを残して。
肥大した《定義》を失った「それ」は、打ち棄てられた死体が萎びていくように崩れていった。女の貌はいつしか溶け崩れ、見えなくなっていた。
仲間たちが《城》を去るのを、僕はただひとりで見送った。
夏の空と、輝き始めた深緑の庭園とを見回して、「それ」がいたところへ視線を戻すと、もう自力では解けないほどに絡まりねじれた
そうして最後に、
金色の粒子を帯びた、宝玉の薄紅に透ける翅。桜貝のように閉じていたそれは、僕が手を伸ばすとふわりと開いて、その下に包み込んでいた躰を現わした。
半ば予想していても、胸が熱くなり、震えた。
泣き疲れた幼い子供のように、レアルは眠っていた。両膝を胸に引き寄せて、小さく、まるくなって。
細い肩や背中が、深い呼吸につれて動いていた。銀色の髪がやわらかく肌に流れ落ちて、揺れた。
微笑むように翅が羽ばたいた。友達の声が聞こえた気がして、僕は目を凝らした。
――ぼくの勝ちだ。
温和なパムの、一度だけの、誇らしさを込めた宣言。
友達の声に応えようとして、僕は声を詰まらせた。
何て言えばいいのだろう。ありがとう? ごめんなさい?
ふさわしい言葉を選べずにいるうちに、翅はレアルの躰を離れた。空へ向かって発つ。見上げた僕の眸の上に、薄紅色を透かして陽光が落ち、瞼を閉じさせた。
喉の奥が熱かった。瞼の内側からまた涙が零れた。
光の下で、いつか言われた言葉だけが、花の香りと一緒に降ってきた。
――イサは本当に、見た目と違って、泣き虫だ。
だから護りたかったんだ、と、優しい声が言い遺した。
《城》にはもう僕とレアルしかいなかった。
僕には最後の仕事が残っていた。《城》が終わるときに、レアルを死なせないことだ。揺り起こそうとして肩に触れると、痛みが指先に走った。
錆の色をした女の爪が、レアルの首筋に引っかかって、僕を威嚇していた。
長い髪の陰に目が隠れていた。透きとおり、揺らぎ、今にも消えそうになりながら睨んでいた。
パムの《
手がかりを求めて記憶を探り、僕はパムが言った言葉を思い出した。
――「誰だろう」?
「これ」がレアルの躰に入り込んだ誰かだと考えついたとき、いちばん初めにパムが言ったことがそれだった。
レアルは固く両眼を閉じていた。まるで、目を開けたら恐ろしい光景に襲われるとでもいうように、躰を縮め、動かない。
人形みたいな横顔を見ていると、「それ」はレアルにとってひどく大切な誰かだったんじゃないかという気がした。貪り喰われても傍にいたい誰か。裏切られても、憎んでも、完全には切り離せないもの。
例えば、母親――。
どうすればいいか、はっきりと分かっていたわけじゃなかった。僕が知っているのは、「それ」がレアルを喰うものだということだけだ。
僕はもう一度手を伸ばし、弱々しい錆びた爪が皮膚に食い込むのを無視して、レアルの頬に触れた。
「レアル」
名前を呼ぶ。やわらかな頬は、以前より冷たい。両腕を回して抱き起こした。銀色の髪が手をくすぐる。
「──目を、覚まして」
「それ」の欠片ごとレアルを抱く。
伸ばし続けた手を、とってくれると信じる。
レアルの背中に回していた腕が、押し上げられた。
銀の髪の下から、繊細な光沢が顕れる。
巣立ちをまだ知らない幼鳥のように、レアルは背に新しい翼を広げた。
白銀の翼。
僕と同じ猛禽の、けれどレアルしか持たない金属の材質の。
首筋に張りついていた女の影が、銀の輝きを浴びて霞んだ。
――私を殺すのですか、レアル。
悲鳴が聞こえた。聞き覚えのない女の声だった。
翼が広がる。白銀の風切り羽がさざめき、なめらかに動く骨が支えた。
どこまでも羽ばたいていこうとする翼。
それが、レアルの答えだった。
翼は震えながら夏の日差しを弾いた。白い光の欠片で、「それ」の最後の一片を躰から消していった。
閉ざされていた瞼が上がる。甘くやわらかなあの声が、少し掠れながら呟いた。
「マレン……。私、あなたの娘には、なれなかった」
詫びるようでもあり、断罪するようでもあった。怯えていて、今にも壊れそうで、
けれど、迷いはなかった。
夕闇色の瞳に、僕は再び会った。
ずっと聞けずにいた答えを、ようやく手に入れた。
――その日、ほとんど太陽が中天にさしかかる頃、《城》は陥ちた。
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