第49話 言葉は

  23


 やわらかな腕が、「それ」の口を遮った。


 パムだった。


 僕の後ろから手を伸ばし、掌を当ててそっと押し戻した。強い力のようにも見えなかったのに、「それ」は触れてはならないものに触れたかのように後じさった。

 喰いつかれた肩から牙が抜け、痛みと血が溢れ、僕は草の上に手をついた。

 振り向くと、殻から出きったパムが立っていた。

 僕は息を呑んだ。


 パムの下半身は、腐れていた。はらわたから体表へ浮かび上がるように、腰から下には緑がかった暗灰色の染みが広がり、花の香に甘い腐臭が混じっていた。


 うまく羽化できなかったのか。

 泣き出してしまいそうな僕の視線に、パムは微笑んだ。

 いいんだ、と応えた。


「ぼくは弱すぎたから。……生きられる躰にならないことは、わかっていた……」


 大丈夫。完全なものにはなれなくても、必要なときには間に合った。

 この躰がいちばん必要なときに。


 ――意味があった、と祈るようにパムは呟いた。

 ぼくがこの躰で生きていたことに、ちゃんと意味があったんだ。


 薄紅の翅が羽ばたいた。つい先程まで確かに血肉を備えていたのに、もうまるで質量の無いもののようにパムは僕の躰を通り過ぎ、「それ」の口の中へ手首を差し入れた。

「それ」は断頭台のように顎を閉じ、パムの手首を喰いちぎった。

 叫ぼうとした僕を、パムは「動かないで」と制した。苦痛を呑み込んで声は静かだった。

 咬み取られた手首から、薄紅と金が混じり合って溢れ出た。気体のように舞い上がり、風の中に飛び散った。

 立ちのぼった香りが「それ」を刺激した。「それ」は首を振り舌を伸ばして、散っていこうとするものを舐めた。


「……餓え渇く獣のように、ぼくたちは言葉を求める」


 囁きが風を震わせた。いつかバールが唱えた聖句に似ていた。

 パムは喰いちぎられた腕を「それ」に向かって差し伸べた。「それ」が狐の口を開く。涎が垂れ落ちる。牙を剥き出し、貪るように喰らいついた。

 肘から下が消えた。

 パムは悲鳴を上げなかった。残った手も差し出して招き、抑えた声で口ずさんだ。


「きみの声を聴けるなら……躰の苦しみは、ぼくを決して傷つけない……」


 歓喜に満ちて、ぼくたちは歌う。

 言葉を交わす。互いを知り、心に触れ、その形を書き変える。


 ――レアル。


「それ」の身の内、遙かに深い闇の底に沈められた本来の躰の主を、パムは呼んだ。

 まるで中毒者が薬を口にしたかのように、「それ」はパムの血に狂った。蔦を這わせて引き寄せ、犬と狐の頭で咬み裂いた。肩が砕け、広がったばかりの翅が引きちぎられた。胸を牙が抉り、爪が裂く。内臓が引きずり出された。黄金と赤が絡み合い、香煙のようにパムの周りを取り巻いた。旋律に光が融けた。


 パムは歌い続けた。あの治癒の祈りを、レアルに向かって。


 ――血と言葉とでぼくたちはつながる。

 きみに安息を。


 掠れた声が囁いた。


「光と共に目覚め……。どんな夜にも、怯えなくていい……。長い病と、苦しみを受けたきみに……ぼくは、言葉を……遺す……」


 喰べろ。

 この躰を、喰い尽くせ。


 金色の眼が命じた。


「それ」は甘美な餌に酔い痴れていた。正気はとうになく、餓えだけがあった。どれだけ貪り喰っても満たされず、もっと多くの犠牲を求めていた。

 無限に書き記される空虚な《定義》の群れ。文字列と式。意味の喪失。

 ただ存在し、存在するために侵食し、増殖し、成長する。癌細胞。

 欲望が口を開けた。


 パムが微笑んだ。

 ぼくの勝ちだと言うように。

 最後の声がうたう。


「――言葉は――」


 恵み。


 ひらききった女の口が、パムの頭部を呑み込み、粉砕した。



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