第6話 パム
彼の名前は、パムといった。
僕はそれまで彼のような人間を見たことがなかったし、この先も二度と出会うことはないと思う。
パムときたら、躰はひどく弱くて、ひとりでは立って歩くことも、服を着ることすらできなかったけれど、その金色の眼をひと目見れば、誰だってこいつはうっかり間違って地上に生まれてしまった神様の使いだと思わずにはいられない、そういう子だった。
最初、彼はほぼ死体として僕の前に現れた。
躰に合わない睡眠薬のせいで血を吐くまで嘔吐し、自分では一歩も動けず、食事にも排泄にも行けない。汚れた布一枚にくるまって、夜の寒さに凍え、空腹に痛めつけられ、臭い瀕死の動物みたいに転がっていた。
場所は、初めに目を覚ましたあの広間の隅だ。新しい生活が始まった日の翌日、僕が彼の傍に立って声をかけたのは、死んでいるなら埋めないと伝染病の発生源になるかも知れないと思ったからで、つまりは僕自身の身の安全のためだった。
「生きてたら、声を出すか動くかしてくれる?」
パムは動いた。瞼を上げて、僕を見たのだ。
面倒だったけれど、生きているなら仕方ない。ここで死体になられても困る。
僕は彼に食べ物を持ってきてやり、厨房で水を汲んできて飲ませた。途中からカナが手伝ってくれて、僕が広間の汚れを落としている間に、二階の部屋でパムの躰を洗い、寝台の毛布の埃をはたいて、小さな躰をくるんでやっていた。
気絶するように眠っていた彼が目を覚ましたのは、半日以上経ってからだった。
「気分は?」
様子を見ていた僕が尋ねると、パムは弱々しく頷いた。咳き込んで、琥珀色に澄んだ瞳を僕に向けて、掠れた声で囁いた。
「ありがとう」
恥ずかしそうな笑顔だった。
僕はたじろいだ。何が目当てだと罵られるか、もっと食べ物や水を持ってきてくれとねだられるか、せいぜいそんなところだと思っていたからだ。
僕の困惑を置き去りにして、パムは安心しきった顔でまた僕に微笑みかけると、そのまま眠ってしまった。
僕はその後も彼の面倒を見続け、気づいたときには、友達としか言いようのない間柄になっていた。
自分でもよく分からなかった。どうして見捨てないのか。何の見返りがあるわけでもないのに、どうして、世話を焼いてやるのか。
パムは温厚で聡明で、誰にでも優しい善良な子だ。でも、それだけなら僕は彼を嫌っただろう。嘘くさくて、気持ちが悪いと軽蔑しただろう。
僕を惹きつけたのはむしろ、パムの小さすぎ、弱すぎる躰や、その躰を突き破ってしまいそうに荒れ狂う咳の発作や、高熱に苛まれて苦しげに潤む瞳だった。
生きることそのものが苦痛となる躰に閉じ込められて、パムは生き続けていた。季節外れに孵ってしまった蝶のように、長くは命を繋げないことを知っていて、やがて来るものをただ待っていた。
そういう彼だから、僕はある種の敬意を持たずにはいられないのかも知れない──その頃は、そう思っていた。
ある晴れた日の朝、僕は目覚めるとすぐ、自分のねぐらに決めていた部屋を出て、隣の扉を叩いた。
「パム?」
声をかけると、どうぞと透きとおった声が応えた。
パムは寝台に横になったまま僕を迎えた。
茶色いまっすぐな髪が枕に落ちて、女の子のような顔を飾っている。なめらかな額や頬を朝日が洗って、肌の内側から光が零れるように見えた。
長い睫に縁取られた金色の眼を瞬かせて、パムは「イサ」と微笑んだ。
「おはよう。いい天気だね」
「庭に出る?」
答えは分かっていたけれど、僕は尋ねた。パムの微笑が深くなる。
「きみがよければ、連れて行って。いつもの花壇に」
「いいよ。行こう」
頷いて、僕は小柄な躰を抱き上げた。
ひとりでは着替えもできないパムは、今日も寝台の上掛けだけを躰に巻きつけている。朝方の空気はまだ寒そうに思えたので、別の部屋から取ってきた毛布でくるんでやると、くすぐったがって声を上げて笑った。
小さな躰を抱えて階段を下りる。パムは信じられないほど軽くて、ほとんど腕に負担を感じない。《施設》の鎖の方が余程重い。
中庭を囲む回廊に出て、南の庭園に出るガラス扉をくぐる。
外に出た途端に白い光が落ちてきて、僕は眩しさに目を細めた。
パムのお気に入りの花壇は庭園のかなり奥、崖の足元付近にある。花の中に横になって、日が暮れるまで眠ったり考え事をしたりしているのが、晴れた日のパムの過ごし方だ。《城》に来る前は聖堂の地下に住んでいたというパムは、僕とはまた違った意味で、ひとりで静かにしていることを好むようだった。
友達をいつもの場所に連れて行ってやって、僕は花壇のすぐ傍の樹に登った。
いったいどのくらい長く放置されているのか、この辺りの樹は、枝の上でくつろげるくらい大きく高く伸びている。最初は鎖をつけたまま登るのに苦労したけれど、何度か試すうちに体重を支えられる位置と体勢が分かってきて、うまく登れるようになった。
地面にいちばん近い枝の根元に腰かけ、鎖が躰に食い込まないように気をつけて、幹にもたれかかる。
木陰の涼しさが気持ちいい。気が向いたらカナも来るだろう。今日はいい天気だから。
僕は図書室から持ち出してきた本をポケットから出し、読みかけのページを開いて、文字を追い始めた。
僕が《城》から逃げなかった理由のひとつには、パムのこともあった。
逃げるなら、パムを置いていくのは気が進まない。この先、この不可解な場所で、どんな危険なことが起こるか分からないのだから。
といって、自力で移動できない彼を連れて逃げるのは難しい。《城》の周辺の地理は全く不明だ。何日も歩かなければ人家にたどりつけない山奥かもしれない。もしそうなら、虚弱なパムはあっという間に疲労と夜の冷え込みにやられてしまう。肺炎にでもなれば、命はない。
考えた末に、僕は、事態を静観することに決めた。
どうせ、逃げたところで行く当てもない。外の世界にも安全なんかないことはよく知っている。
武器を振りかざして勝ち誇る人々と、広場に引きずり出されて石で打ち殺される《解放者》の兵士。
服の下の痩せた躰に爆弾を巻いて、萎びかけた果物を売り歩く子供。
教官たちの話の中の、映像資料の、銃を立てかけたその窓のすぐ外の戦争。
埃と血の臭い。手渡されるナイフと銃。敵を憎め、罪のない人たちを殺す爆音を聞けと命じられる。戦うのは正義のためで、平和のためで、金のためで、単に殴られずに済むためだ。悲鳴。終わりのない悲鳴。
逃げたってあの場所に戻るしかないなら、ここにいた方がずっとよく眠れる。
そんなわけで、僕は《城》で暮らし続けた。
脱出経路がないかどうかにはいつも気をつけていたし、体力が落ちないように躰を動かしてもいたけれど、それ以外の時間はパムに付き合って過ごした。とりとめもなく話をしたり、眠ったり、図書室から引っ張り出してきた本をめくったり。何もせずにただ近くにいることも多かった。それで何も問題はなかった。
時にはカナに引きずられて、球戯室で相手をさせられることもあった。広い台の上に配置した球を転がして、互いにぶつけて邪魔をしながら的に入れるだけの遊びだけど、ついむきになって点数を競う僕とカナを、パムも楽しそうに眺めていた。
いつのまにか、本当に笑うことが多くなっていた。内心を隠すための笑みじゃなく、思わず顔や声に出てしまう笑いだ。
カナに負ける悔しさも嫌じゃなかった。鎖さえなければ負けないのにと言った僕に、カナは舌を出して笑った。パムも微笑んで、金具を外せる工具がないかどうか探してみたら、と言った。
僕は探さなかった。
負けていたかったからだ。
そうして、《城》での時間は過ぎた。恐ろしいことも酷いことも起こらなかった。怒号も折檻もない、飢えも寒さもない。ただ明るい陽差しと、古びた建物の匂いに溢れた時が、僕たちをゆっくりと通り過ぎていった。
そして僕は──。
僕は、このまま僕たちを放っておいてほしいと思うようになった。
僕たちを閉じ込めたのが誰でも、目的が何でも構わない。どうか、取り上げないでほしい。このまま僕たちのことを忘れてしまってほしい。
願わずにいられなかった。
知っていたのに。いつかは終わりが来ることを。
いつか必ず、この穏やかな時間は終わる。僕たちを閉じ込めた誰かの意志でか、外からの侵略でか、それとも何か他の理由でか。それは分からないけれど。
何にせよ、この時間は終わる。絶対に、終わる。
分かっていたけれど、僕は願った。
どうかいつまでも、このままで。
いつまでも、このままで、と。
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