第7話 レアル

 日が翳って、風が冷たくなってきた。

 雨が降るのかもしれない。《城》の天気は変わりやすい。突然強い雨が地面を叩いたかと思うと、一時間もしないうちに、嘘のように綺麗な晴天が戻る。

 僕は本を閉じ、パムに声をかけて、屋内へ引き返すことにした。


 暗い風に、伸びすぎた草花が揺れている。

 荒れた庭園は、植物と人工物の絡み合った迷宮だ。僕は普段はその不思議さを楽しんでいたけれど、こんな空の下だと不安にもなった。

 崩れた植え込みや、蔓草の巻きついた彫刻の向こうには、左右に巨大な翼を広げた《城》が見える。

 だけど、歩いても歩いても、そこへは決してたどりつけないような気がした。

 囚われている。息苦しい、不穏な錯覚。

 いや、実際に僕たちは、この《城》に閉じ込められているのだけど──。

 不安を感じ取ったかのように、パムが僕を見上げて、頭を腕にもたせかけてきた。


「心配しないで、イサ。雨が降るだけだよ。花が喜ぶ」


 僕は苦笑いして、友達の躰を抱え直した。

 花が喜ぶ、か。パムらしい。

 だけど、穏やかな気持ちは長くは続かなかった。

 庭園を突っ切り、建物のすぐ傍まで戻ってきたときだ。植え込みの奥の暗がりから、音が近づいてきた。濃すぎる樹々の葉の茂みに隠れて、姿は見えない。


 誰だ?


《城》にいるのは僕たちだけだ。敵はいない。

 分かっていても、緊張が茨の棘のように臓腑を刺した。

 パムの躰を片腕で支え、利き腕を空けて身構える。武器になりそうなものを目で探したけれど、何もない。

 逃げるか? いや、相手を確かめるのが先だ。

 背丈より高く繁った植え込みが、大きく揺れた。

 そして。


 ──不意に、それは姿を現した。


 深緑の闇を割り、夏の稲妻のように白く。

 長い銀色の髪が。ゆったりとした服の裾が。細い腕や、脚や、頸の、蒼白な肌が。

 紅が紫に融けた色合いの、夕闇色の瞳が。

 樹の枝を掻き分けて現れた彼女は、出てきてみて初めて僕たちがそこにいるのに気づいたように、華奢な躰を回して振り向いた。飾りのない服の裾が、動きにつれてふわりとなびいた。

 銀の髪が揺れて、白い貌が、僕を見る。


 既視感が心臓を鷲づかみにした。


 夢。

 あの夢。初めて《城》に来た夜に見た、血の涙を流す少女の夢。


 あのとき月光の庭を過ぎっていった姿が、今、手の届きそうなほど近くにあった。


 現実、だったのか。

 目眩のような感覚の中で、僕は冷静になろうと努めた。

 相手の姿に目を凝らす。強くなってきた風に服の裾が揺れると、繊細そうな肌の上を、枝で引っ掻いたらしい傷が這っているのが見えた。

 翳った陽光の下で、傷ついた脚を浸す影。生々しく存在する躰。現実。

 それでいて、間近に見ると、彼女は生身の人間とは思えないくらいに美しかった。整った顔立ちも、均整のとれた肢体も、全てが精巧で、神様の美術品みたいだ。


 完璧な人間――。


 パムが少女に向かって呼びかけた。何と言ったのか聴きとれない。音楽的な、不思議な響きだった。

 彼女は頭を傾けた。僕に抱きかかえられたパムを、夕闇色の視線が捉える。薄紅色の唇がほどけるように開いて、パム……、と呼んだ。子供っぽい甲高さのまるでない、やわらかな声だった。

 優しい口調だったのに、その声はなぜか、不安を掻き立てた。正体の分からない、名づけることのできない何か。躰の内に潜んだ不穏なもの。息苦しく疼く、怯えに似た昏い熱。

 紅い瞳が滑って、僕を見る。

 言葉のない問いに答えるパムの声が、聞き慣れない鳥の囀りのように思えた。


「イサだよ。……友達」


 恥ずかしそうに頬を赤くして、パムは僕を紹介した。

 ともだち、と、彼女はそのままパムの言葉を繰り返した。それが僕の名前ででもあるかのように。自分が口にした音の意味を解っていない、幼児のように。

 その奇妙さが呪縛を緩めた。やっと言葉を取り戻して、僕はパムに尋ねた。


「パム。彼女は? 君の知り合い?」


 と、パムは例の澄んだ瞳で僕を見て、「友達」とまた言った。


「時々、花壇に来てくれるんだ。イサは見かけたことないの? 近くにいるのに」

「いや、初対面……だと思う」


 たぶん。声には出さずに付け加えた。夢で会ったなんて、口に出して言えるほど馬鹿じゃない。

 パムは素直に「そう」と頷いて、もう一度、今度は僕にも聴きとれるようにゆっくりと、先程の不思議な言葉を発音した。


 レアル。


 僕にはそんなふうに聞こえた音が、彼女の名前だった。





「……で?」


 行儀悪く長椅子の上にひっくり返って、カナが口を尖らせた。


「イサは、そのかわいい女の子にデレデレして、注意散漫ってわけ? ばっかみたい!」

「『注意散漫』? 君がそんな難しい言葉を知ってるとは思わなかったよ」


 僕は言い返した。

 降り出した雨は烈しさを増して、灰色の水煙で《城》を包み込んでいた。僕たちは西棟の一階、庭の見える廊下の椅子を占領して話をしていた。パムは少し疲れたようで、安楽椅子で眠っている。詰め物のたっぷり入った椅子は、小柄な躰には大きすぎるけれど、丸まってまどろむには心地いいようだ。


 先程、庭園で出会ったレアルを、パムは「雨が降るから」と一緒に来るように誘った。

 レアルは答えなかった。少なくとも、言葉では。

 銀の髪を揺らし、身を翻したかと思うと、来た方とは逆の植え込みの隙間へ躰を滑り込ませた。白い美しい姿は、現れた時と同じように唐突に消えた。樹々の緑の、深い奥へと。

 驚くほどの敏捷さだった。パムどころか、僕でさえ、追いつけないかも知れない。

 仕方なく、パムと僕は二人で戻った。小さな躰を抱えて歩いていく間、僕の胸の底には、溶け残った氷砂糖のような濃い戸惑いが残っていた。

 閃く銀色の髪。ほっそりとした躰。肌の上を這う、無数の赤い傷。甘くやわらかな声。夕闇色のまなざし。

 レアル。

 パムと僕は部屋には戻らず、何となくこの廊下に来て雨の庭を眺めた。

 ぽつりぽつりと言葉を交わす間も、僕は頭の片隅で彼女の面差しをなぞり続けていた。

 パムはいつのまにかうとうとし出して、安楽椅子の肘掛けに小さな頭を預けていた。目を閉じた寝顔は悲しくなるほど穏やかで、息をしているのかどうかも分からなかった。

《城》も、いつになく静かだった。ガラス越しの雨音は低く、他の子たちもどこにいるのか、遠くの声さえ響いては来なかった。

 まるで、この《城》の中に、もう僕とパムしかいないみたいだった。


 ──我知らず考え事に沈んでいた僕を、やかましい闖入者が襲うまでは。


「見ぃつけた! イサ!」


 声とともに、いきなり背後から椅子の背もたれを叩かれ、僕は「わぁ」と情けない声を上げてしまった。反射的に椅子を蹴り倒して飛び退き、振り向いて身構える。慌てたせいで鎖の重量に振り回され、転びそうになって、何とか体勢を整える。

 よく見知った姿が目に入ったのは、その後だ。僕が蹴った椅子にぶつけたのか、むっとしたような面白がるような表情で、カナが自分の膝を撫でていた。


「どうしたの、イサ? こういうイタズラに引っかかるの、珍しいね」


 からかいを込めた問いかけに、僕は無性に言い訳をしたくなって、レアルのことを話した。

 その結果が、「かわいい女の子にデレデレして注意散漫」だったわけだ。

 違うよ、と喉元まで出かかったけれど、じゃあ何と聞き返されても困る。僕は長椅子を元に戻し、背中の鎖を避けて、埃っぽい背もたれに片腕を投げ出すように寄りかかった。

 ため息をつく僕を、カナはくるくるした円い瞳で見つめる。僕は生き物を飼った経験はないけれど、ふと、もし猫を飼っていたらこんな感じかなと思った。何を考えているのか分からないし、こちらの言葉を理解しているのかどうかも怪しいけど、円い瞳はいっぱいに感情を湛えて見つめてくる。僕には解釈の難しい感情を。


「……イサは、さ」


 ためらいがちに、カナは口を開いた。


「ここにくる前に、友達とか、スキな子とか、いなかったの?」

「いないよ。何も」


 即答した。

《施設》にそんなものはいない。他の子供は僕の安全を脅かす敵だったし、僕も向こうから見れば、敵だっただろう。

 大人たちは僕たちに協力して敵を倒すことを教えた。罪のない人々を守るために力を合わせることの尊さを説いた。けれど僕たちは羊のように微笑みながら、誰がいちばん気に入られるか、高く評価されるか、牙を剥いて競い合った。

 次の訓練で僕が脚でも折れば、他の奴の順位が一つ上がる。

 誰かが今日の監督官に可愛がられ、ひいきされているせいで、僕が代わりに殴られる。

「あいつさえいなければ」をひたすら繰り返して、僕たちは学ぶ。

 仲間同士のいさかいは厳しく禁じられているから、たわいのない嫌がらせと「事故」とに神経をすり減らす。とにかく競争に勝つことが重要だ。他の子を押しのけて監督官や教官の歓心を買えたら、殴られたり脅されたりすることも減り、いつもより少し多い食べ物さえ手に入るかもしれないのだから。

 僕はこの可愛げのない性格のせいで、愛想を振りまく競争には不利だった。できるのはただ、優秀な子供であることだけだった。

 そうはいっても、従順であること自体が優秀さのひとつの基準なのだから、限度がある。結局、力及ばず「厄介払い」されて、何が何だか分からないまま《城》に閉じ込められているわけだ。

 何もかもが馬鹿馬鹿しい。

 ひっそりとしたパムの寝顔の他は、何もかも。


 僕が背もたれに頬杖をついて笑うと、カナは「そっか」と呟いた。にやにや笑いの似合う口に、寂しそうな微笑みが掠めて消えた。

 ねえ、イサ、と呼ばれて、僕は「うん?」と何気なく応えた。

 カナの手がそろりと伸びて、傍らに置いた僕の手に触れた。やわらかで温かい掌の感触。一瞬だけ僕の指に触って、それはすぐに離れていった。


「……何?」


 首を傾げた僕に、カナは目を細めて笑った。


「怖がらないね、イサ。前は、あたしが触ったら、びくってしたのに」


 ──気づいていたのか。

 驚いて、僕はカナの顔を凝視した。

 初めて会った日のことに違いない。クロトを捕まえた僕の腕に、カナがしがみついたとき。あれ以来、僕は、他人に躰を触られるようなへまは一度もやっていない。

 思わず表情が険しくなったのかも知れない。カナは少し怯えた顔をした。


「誰にも言ってないよ。イサ、隠したいみたいだったから……」


 僕は無言で頷いた。

 このままカナを黙らせておくには、どうすればいいのだろう。分かりやすく見返りを要求してくる相手ならともかく、カナは単に、気まぐれだ。交渉の材料はない。カナが喋る気にならないことを祈るしかない。

 カナは僕の顔をしばらく見つめて、それから、首を横に振った。


「……言わないよ」


 呟いた声は本当に小さくて、泣き出しそうだった。

 僕は息をついた。どうして、罪悪感を覚えるのだろう。気づかれたくなかったことに気づかれたのは僕の方で、カナじゃない。考えを読まれているのも僕だ。カナじゃない。

 状況は完全に、僕が不利。

 なのにどうして、僕の方が、手酷くカナを傷つけている気がするのだろう?

 僕はもう一度深呼吸をして、言った。


「確かに、前は、怖かったよ。……でも、もう大丈夫だ」


 完全に嘘というわけじゃない。さっきカナが手を伸ばしてきたときには、わざわざ避けようという気が起こらなかった。触られても、ほとんど何も感じなかった。

 それはカナの手で、他の誰かの手じゃない。少し触れるくらいなら、大丈夫だ。それは僕を侵略しない。強奪しない。分かっている。


「そうなの? ほんとに、大丈夫?」


 カナはまた円い瞳で僕を見上げた。もう一回手を伸ばして、確かめるように僕の手に触れた。


「……大丈夫だよ」


 改めて意識するとやっぱり気持ちは悪かったけれど、僕は重ねた手を引かなかった。以前と違って、振り払いたくなるほど不快なわけでもない。

 カナは安心したように笑った。幸せそうなのに、淡く、今にも消えそうな笑顔だった。


 そうしてそのまま、僕たちは話すのをやめた。


 窓の外からは雨音が響き、遠く静かなその音に、パムの寝息が混じった。

 カナの指が僕の指に絡み、仄かな温もりが融ける。

 カナは目を閉じ、眠ろうとしているようにも見えた。本当はそうじゃなかったかもしれないけど、僕はそういうことにしておいた。

 僕は眠らない。こんな鍵もかからない、誰でもいつでも忍び寄って来られる場所じゃ、眠れない。

 だけどパムとカナがこんなふうに無防備に眠るなら、僕はここにいる。

 何もしないで、ただここにいる。


 片手をカナに捕まえられたまま、僕は雨に煙る庭園に目をやった。

 そして、レアルはいまごろどこで雨を避けているのかと、また夕闇色の瞳を思った。



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