第8話 バール
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雨は珍しく数日降り続いた。
朝晩の冷え込みも季節外れに厳しく、僕は友達の躰を心配せずにはいられなかった。
パムは僕たちが普通に食べるものをほとんど食べられない。単なる好き嫌いじゃなく、内臓が受けつけないらしい。魚の缶詰なんか口にしたら吐いてしまう。元々食べられるものが少ない上に、寒さで体力を消耗して、病気になったらどうすればいいのだろう。
僕は時々、彼にも食べられそうなものを見繕って部屋へ持っていったけれど、パムはいつも眠っていた。灰色に霞んだ窓の下で、小さな顔は青白く、透ける頬の陰翳は命の気配を感じさせなかった。
いつかパムが目を覚ますことがあるのかどうか、僕は本気で疑った。だけど枕元に置いた干し果物はかじられていたし、椀の水は減っていた。
今朝も僕は、執拗に覆いかぶさる雲をうっとうしく見上げながら、地下室に行こうとしていた。手に入れたかったのは麦粉と塩の固形保存食だ。僕もパムも食べられる、数少ない食べ物のひとつ。幸い、地下の貯蔵庫には山ほど積まれている。数が多いので、争奪戦にもなっていない。
なっていない、と思っていたのだけれど。
地下への階段を下りかけた途端、鈍い、不愉快な音が耳に飛び込んできて、僕は足を止めた。
容赦のない力で肉が肉を打つ音。誰かが殴られた音だ。
一回では済まなかった。怒鳴りあう声が響いたかと思うと、また殴打の音が続き、足音が乱れ交った。数人で殴り合いの喧嘩の真っ最中らしい。
まったく、そういうことは、人の邪魔にならない場所でやってほしい。
僕は残りの階段を下り、背の鎖が音を立てないように気をつかいながら、柱の陰に隠れて様子を窺った。
最初に目についたのは、敵にしがみついて動きを封じようとしている少年だった。クロトだ。相手を背後から捕まえ、羽交い締めにして踏ん張っている。鈍くさい彼には最適な戦術かもしれない。
クロトに絡みつかれてもがいている子の正面に、痩せた少年が立った。動きの鈍った相手の鳩尾を、力一杯蹴り飛ばす。目の周りだけは端整な、狐に似た横顔。
カッチェという奴だ。元々は裕福な家の出だけれど、素行が悪くて親に見捨てられ、街で女の子を襲って牢送りになったらしい。一度話してみたけど、やたらと人を馬鹿にした喋り方をする、感じの悪い奴だった。
カッチェの後ろでは、トカゲみたいな顔の少年が別の相手とつかみ合いをしていた。そのすぐ横の床には、ぼってりしたちびが這いつくばり、きいきい喚きながら三人目の敵の足をつかもうとしている。トカゲの方がガナリ、小さい方がハク。よくカッチェと一緒にいる二人組だ。
ハクの手をものともせずに蹴りつけていた「三人目」が、腰に手をやった。聞き苦しいしゃがれ声で罵倒を吐き散らす。後ろ姿で顔は見えないけれど、熱帯の鳥のような紅い髪が、地下の薄暗さの中で目立っていた。
ヤックか。
面倒な奴がいた。僕は顔をしかめた。ヤックのことは《城》の皆が知っている。派手な髪のせいだけじゃない。もっと「実際的」な理由でだ。
ヤックがベルトから何かを引き抜くと、鋭い光が閃いた。
ナイフ。
僕も含め、他の子は全員身ひとつで《城》に放り込まれていたのに、ヤックの持ち物を取り上げた誰かだけは仕事がいい加減だったらしい。《城》へ来る前から使っているという凶器を、ヤックはいつも持ち歩いている。
見せびらかしているだけあって、扱いは巧い。それが格好いいといって憧れる子も少なくない。
他方、ヤックたち三人と争っているカッチェ、ガナリ、ハク、クロトは、バールという奴の取り巻きだ。バール側とヤック側の連中の対立は、前にも言ったかも知れない。顔を突き合わせるたびに小競り合いをやらかしている。無関係の僕には迷惑な話だ。
今日も、クロトたちはヤックと取り巻き二人に出くわして、殴り合いを始めたようだ。きっかけは分からない。どうせどちらが先に食料を取るかとか、そんなつまらないことに違いない。
巻き込まれるとうっとうしい。仕方ない、出直そう。
僕は足音を忍ばせ、階段の方へ戻ろうとした。
重い靴音が下りてきたのは、そのときだった。
咄嗟に、壁と手近な棚との隙間へ躰を押し込んだ。靴音の主に見つからないように、呼吸を殺す。
靴音はまるで大人のそれのようだった。皮膚の内側に固く頑丈な骨と肉を備えた、精悍な若い男の。
知らず知らず全身が緊張し、胸の奥がざわめいた。
《施設》にいた頃、僕はこんな足音が大嫌いだった。
夜、消灯の時間が過ぎてから、見回りの寮監の足音が近づいてくるたびに、どうか僕たちの部屋を通り過ぎてくれと願っていた。夜に近づいてくる足音はとりわけ嫌いだった。耐えがたいことが起こるから。
でも、《城》には、大人はいない。ひとりもいない。
ということは、この靴音は──?
音の響き方が変わった。階段を下りる音から、地下の石の床を踏む音へ。
そして突然、僕の心臓を撃ち抜くような音を立てて、靴底が床を蹴った。
驚いたのは僕だけじゃなかった。クロトが顔を上げ、ガナリに噛みついていた奴もぎょっとして口を開いた。ハクの腹にナイフを振り下ろそうとしていたヤックも手を止め、振り向いた。
その真正面へ、黒い影が襲いかかった。
影はヤックの胸倉をつかみ、飛びかかった勢いのままに振り回し、赤毛の後頭部を食料棚の角に叩きつけた。
物凄い音が響き渡った。
ひやりとした。あんな力で頭を打ったら、死んでもおかしくない。ヤックには何の義理も友情もないけれど、目の前で死なれればやっぱり気分が悪い。
殺された──のだろうか?
ヤックが生きているかどうかは、僕のいるところからは分からなかった。ただ、その躰が力を失って、床に崩れ落ちるのは見えた。赤い髪の間から、赤黒いものが流れ出てくる。粘つきを帯びた、金臭い液体が。
動かなくなったヤックの手から、真っ黒な影がナイフを取り上げた。
黒い姿を、地下の明かりが仄暗く浮かび上がらせた。《城》のどの少年よりも高い背丈。しなやかな筋肉質の躰つき。色あせた黒い服を緩く羽織り、擦り切れた黒いズボンに頑丈そうな靴を履いている。野生の
バールだ。
素手で相手を叩きのめす能力なら、僕も含めて、《城》にいる誰もバールには敵わないだろう。体格もいいし、その躰の使い方を充分心得ている。《城》へ来る前は傭兵をしていたという噂も、本当かも知れない。
バールは凶器を一瞥して、自分のベルトに突っ込んだ。彫りの深い貌には、何の感情も見えなかった。
ヤック側の二人は、いきなり親分を叩きのめされて震え上がった。床に転がったヤックを置いて、我先にと地下から逃げ出していく。
命拾いをしたハクが、卑屈な笑いを浮かべた。
「タ、助カッタヨ……アリガト、ばーる……」
変に甲高い声で礼を言う子分を、バールは無視した。黒い
「おい、出て来い」
僕のいる場所を真っ直ぐに見据えて、バールは低い、雷鳴に似た声で命令した。
気づかれている。
内心、舌打ちをした。従うか、逃げるか。一瞬の逡巡。
──そして、ゆっくりと慎重に、隠れ場所から足を踏み出した。
他の連中には構わず、バールの方を向いて立った。全員の目が僕に注がれ、ちりちりと皮膚にまとわりついた。
位置関係からいえば、僕の方が階段に近い。逃げようと思えば逃げられないことはない。だけど、下手に逆らって後々まで目をつけられたら、その方がずっと厄介だ。
敵対する意志がないことを示すために、僕は先に視線をそらし、クロトに手を振った。
「やあ、クロト。最近見かけなかったけど、元気そうだね」
名指しされたクロトは、ぎょっとしたようだった。カッチェ、ガナリ、ハク、三人分の不審げな視線を浴びせかけられて、ますます狼狽する。
バールはクロトを見なかった。僕に眸を向けたまま、尋ねた。
「知り合いか、クロト」
「し、知り合いっていうか……まあ、知ってるっちゃ知ってるけど」
僕の方をちらちらと見ながら、クロトは半ば口の中で呟いた。確かに、初対面で首を折ると脅してきた相手を知り合いと呼ぶのは、抵抗があるかも知れない。
だけど、バールは僅かに表情を和らげたように見えた。次に僕に向かって投げかけた声も、最初よりは穏やかになっていた。
「じゃあ、何でこそこそ隠れて俺たちを見てた?」
「食べ物を取りに来ただけだよ。隠れてたのは、殴り合いの喧嘩が苦手だから」
まるっきり嘘ってわけじゃない。バールに比べれば、僕の腕力なんて大したことはない。
僕の返事を聞いてカッチェが嗤った。追従するように、ガナリとハクも。
「隠れてぷるぷる震えてたってわけ? ま、そんな弱そうな
にやつくカッチェの後ろで、クロトが胡乱な目つきで僕を見ている。「ほんとかよ」という顔だけど、口に出して嘘つきと罵る気はないようだ。ありがたい。今、以前彼を絞め殺しかけたことを暴露されたら、僕までバールに叩きのめされるかも知れない。
バールの眸が、もう一度、僕を頭の先から爪先まで眺め回した。
白目の少ない漆黒の眸は、内側にあるものを映し出さない。だけど、闇色にひかる風変わりな眸の奥で、一瞬だけ何かが動いた気がした。複雑すぎる無数の揺らぎの織り混ざった、昏い混沌が。
「さっさと持ってけ」
やがて、バールは息を吐いて、顎の先で棚の方を示した。お許しが出たようだ。僕は小走りに奥へ行き、当初の目的の食料をふたつ取り、踵を返した。
足早に地下を離れる間も、僕はずっと、バールの視線を感じていた。
僕の背中を仄暗く追う、夜闇色のまなざしを。
今にして思えば、この頃の時間が僕たちのその後を決めたのかもしれない。
僕の。パムの。カナの。クロトの。バールの。
君の。
この頃、僕たちがこんなふうでなかったら。もっとお互いに近づき、顔を見て、言葉を交わし、それぞれの位置を確かめていたら。
そうしたら、何かが違っただろうか。
今さら確かめようもないことだけれど、それでも僕は少しだけ空想することがある。実際にはたどらなかった道筋を。僕たちの過ごさなかった時間、選ばなかった選択肢を。僕が語れたかもしれない、別の物語を。
その空想は虚しく、痛いほど苦く、夢のように甘い。
夢のように、甘い。
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