第二章 死者
第9話 鍵開けの小猿
5
バールがヤックを叩きのめして以来、《城》の中では、速やかに暗黙の合意ができていった。
つまり──バールには逆らうな。
痛い目にあいたくなければ、強い者には媚びておくのが一番だ。《城》に放り込まれた子供たちは、僕も含めて、皆そのことを知っていた。知りたくなくても、思い知らされる環境で生きていた。
そして今、《城》で最も力があるのは誰か、誰から見ても明らかだった。群の頭が決まったのだ。黙って服従する他に、選択肢はない。
おかげで、以前からバールの取り巻きだった連中は、バールの前以外では虎の威を借る狐というやつになっていた。カッチェは以前にも増して傍若無人。カッチェのおまけみたいなガナリとハクも同じだ。クロトでさえ、たまに言葉を交わすと、ふと、人を見下すような口振りをすることがあった。
力。ちから。常に僕たちの間を、一方通行に流れていくもの。
僕たちはまるでそれぞれ巨大な階段の一段に立って、上から投げ落とされる石をぶつけられるままになっているようだった。怪我をしないで済む唯一の方法は、石が自分のいるところよりももっと下へ落ちていくように、身を縮めてやりすごすことだけ。
この世界がそういうふうになっているからそうするしかないのか、僕たちが他のやり方を知らないだけなのか、僕には分からない。
分からないけれど、できるだけ目立たないように行動を慎んで、大人しくしている。
まあ、僕の場合は元々あぶれ者で、パムの他には特別親しい子もいないし、そんなに難しいことじゃない。
そうして、《城》はある種の秩序を得たように見えた。
僕はあの日以来バールとは一度も話をしなかったし、顔を見かけることさえほとんどなかった。体調の回復したパムを連れて《城》と花壇を往復し、時々カナの相手もする。それだけの日々が戻ってきて、僕は流されるように静穏を享受していた。
季節も夏に変わったある日の、朝までは。
「ねえ。ちょっとちょっと。待って待って、情報屋」
庭園に出た僕とパムを、中央棟の二階の窓からエタが呼び止めた。
人並み外れて鼻がいい彼女は、窓さえ開けていれば、誰が下のガラス扉を抜けて庭に出たか嗅ぎ分けられると言う。
最初は驚いたけれど、もう慣れた。この世界に存在するものには、全て「定義」がある。当然、人間にも。躰にも、その延長線上にある心にも。
そして、エタの定義の中には、優秀な嗅覚が含まれている。そういうことだ。
「何?」
見上げて僕が尋ねると、エタは窓枠から身を乗り出して、「今行くから!」と怒鳴った。
エタが下りてくるのを待つ間に、パムが「情報屋って?」と尋ねた。
「僕のあだ名……らしいよ」
《城》に来てからしばらく、敷地内の様子を調べ回ったり他の子から話を聞き出したりしていたものだから、イサは情報を探り出すことを商売にしている奴──つまり情報屋、という認識が広まってしまったらしい。別に商売はしていないけれど、便利な誤解だから放っておいた。皆から面白い話を聞けるし、質問をしたいときにも言い訳が要らない。
ちなみに、エタも、《城》に来る前は刑事局の
息せき切って庭まで下りてきたエタは、口を開けて「暑い暑い」とぼやいた。金色と茶色の混じった長い髪をかき上げ、首筋を手であおぎながら尋ねる。
「ね、情報屋。エルリ知らない? エルリ」
エルリは僕より少し年下の女の子だ。身軽で器用。以前は空き巣とスリで食いつないでいたという。盗んできたものは取り上げられるけれど、エルリを使っていた大人は彼女の特技を高く評価していて、殴られはしても飢えることはなかったそうだ。
小猿。彼らはエルリをそう呼んで、仕事がないときは紐につないでいた。
「何と交換?」
僕が尋ねると、エタは「情報」と答えた。
「で、持ってる? 持ってない? エルリの居場所」
「前払い」
エタはちっと舌打ちして、声を低めた。
「情報屋、《城》の出口探してたでしょ。エルリ、鍵開けてるよ。鍵」
僕は出しかけた声を呑み込んだ。
鍵が開く? どこの? もしかして、正面玄関の?
表情を殺そうとしたのに、エタは敏感に僕の興味を嗅ぎ取って、にやりと笑った。
「はい、続きは後払い。次はそっち」
「……東棟、四階、右の六番目の部屋。でなきゃ、魚の噴水の横から蔓草飾りの離れに入って、一階のがらくた部屋。夜まで見張ってれば、どちらかには帰ってくる」
「わかったわかった。ありがとう」
エタが背を向けかけたので、僕は襟首をつかんで引き戻した。
「後払い分は? エルリが開けたのは、どこの鍵?」
軽く絞めながら訊いてやると、エタは怯えた顔も見せずに舌を出した。
「ごめん、知らない」
「踏み倒す気か?」
「踏み倒さない、踏み倒さないよ。つけといてよ」
「だめだ。何でエルリが鍵を開けられるって分かった?」
「シアに聞いたんだ。シア。あとはそっちに訊いて?」
「足りないね。どうしてエルリを探してる?」
エタは口をつぐんだ。言いたくなさそうだ。
どうするべきか迷う。今はぶら下げるほどの餌もないし、下手に脅して、のちのち情報交換できなくなるのも不便だ。
考えた末に、僕は手を放した。
「しょうがないな。行きなよ」
ちょろいやつ、とでも言いたそうな顔でエタは僕に手を振った。金褐色の髪を子犬のしっぽのように揺らして走って行く。
その後ろ姿を見送り、僕はどう動こうか思案した。エタに呼び止められるまでは、いつもと同じように、パムを花壇に連れて行くつもりだったけれど。
僕がパムを見ると、友達は珍しく茶目っ気のある笑みを返してきた。
「どうぞ。たまには、ぼくもつきあうよ。『情報屋』に」
中央棟の地下にあるのは、食料貯蔵庫だけじゃない。
最初の日に行かなかった扉の奥から階段を下りると、雑然と物のつまった小部屋がいくつか現れる。昔は従業員が働いたり、休憩をとっていたりしたのだろう。
エルリを捜すために、僕は地下の小部屋の住人を訪ねることにした。
先に食料庫へ寄って適当に食べ物を見繕い、回廊に引き返して階段を下りる。暗い廊下に、ひとつだけ灯りをつけて進む。
行き止まりのいちばん奥。腐りかけた木の扉を、手の甲で叩いた。
きちんと閉まらない扉は、軽く叩いただけで揺れて軋んだ。耳障りなその音の向こうから、眩しいほど愛くるしい声が応えた。
「お入り、イサ。今日は誰かと一緒なのね?」
パムが目を見開いた。どうして僕たちのことが分かったのかと思ったのだろう。
説明を後にして、僕は扉を引き開ける。
「おはよう、テラ。そうなんだ。友達がいるんだけど、いいかな」
「あなたの友達でそんなに静かなのは、パムって子? 前から思っていたけれど、本当に小さいのねえ」
扉から差し込む僅かな光も差さない隅で、同じ美声が言った。
「早く閉めて。目が痛くってしょうがないわ」
急いで室内に滑り込み、扉を元に戻して、僕は目が暗がりに慣れるのを待った。
地下のひんやりとした空気と、湿気。どこかに換気口があり、微かなそよぎを頬に感じる。黴臭い埃の匂いに混じって、腐敗した食べ物の臭気が吹きつけた。
机と棚の隙間にぼんやりとうずくまった輪郭が、また真珠を転がすような声を発した。
「それで? あなたのお友達をあたしに紹介してくれないの?」
「君が言ったとおりだよ。パム。──パム、この子はテラ。僕なんかよりよっぱど情報屋」
愛らしい声がぐふふと笑った。褒め言葉ととってくれたらしい。
「……はじめまして」
パムは不思議そうな顔のまま挨拶をする。
「ぼくを知っているの?」
「聴いているのよ。あなた、よくイサと話しながら回廊を通るわね」
ぐふふふ、と機嫌よくテラは笑った。
「あたしはねえ、目がとっても弱いの。その代わり耳がいいのよ、お分かり? みんなが壁の向こうの地下室に食べ物を取りに来る足音や、上の回廊でしゃべってる声が、ぜんぶ聞こえるの」
要するに盗み聞きなのだが、指摘しないことにする。
エタの鼻と同じことだ。テラの定義は、人間離れした聴覚を含んでいる。極端に光に弱い目も同じ。テラの躰を形作る定義が、そうなっている。
彼女に物音を聴いていてもらおうと思いついたのは、僕だ。《城》に来たばかりの頃、テラは四六時中目の痛みに苦しんでいた。僕は彼女に快適な地下室の存在を教えて、引っ越しを手伝った。その代わり、ここで聴いた情報をお裾分けしてもらう。悪い取引じゃない。
「じゃあ、ぼくたちが来たことも、足音で……?」
パムが言うと、テラは「あなた、飲み込みがいい」と褒めた。
「そうよ。イサの音はすぐに分かる。鎖の音が混じるから。今日は誰かと一緒だってことも分かる。息の音の数で。足音が一つしかしないから、あなたを抱きかかえてることも。だけど息が上がってないから、あんまり重くないってことも。ぜんぶ、お見通しよ。──お聴き通しかしら? ねえ?」
同意を求められたので、僕は「君の好きな方でいいよ」と答えた。
足元に気をつけて奥の机まで進み、持ってきた食べ物を置く。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど。教えてくれる?」
「買収ね。いいわよ」
暗がりの中から、かたちの定かでない手が伸びた。缶詰を開け、手づかみで貪り始める。
「人を探してるんだけど。エルリ。それと、シア。足音か声、聴かなかった?」
「シアはさっき、ディナと一緒に食べ物を持っていったわ。話してたのはお天気のことと、セトとランの噂。今頃、庭で噂の続きでもしながら朝ごはん食べてるんじゃないの。あの子たち仲がいいわね。どっちがバールに手を出されるか競争してるとき以外は、だけど」
むちゃむちゃと魚の身を咀嚼しながら、笑う。
「エルリは……変ねえ。そういえば、一昨日の夕方から一度も聴いてないわ」
「一度も? 食べるものも取りに来てない?」
テラの記憶は恐ろしく正確だ。暗闇で何もすることがない代わり、頭の中に精妙な音の世界を構築している。分かっていたけれど、思わず確認してしまった。
《城》にいる子はほとんど皆、一日に二回や三回は食べ物を取りに地下に下りる。極端な小食のシアならともかく、エルリが丸一日絶食しているとは思えない。
いったい、どこで何をしているのだろう。
テラはふんと鼻を鳴らした。
「疑うの?」
「いや、ごめん。君が間違ってるとは思えない」
「そうでしょう。あなたはよく分かってるから好きよ。好きついでに教えてあげるけど、エルリのことをあたしに訊きに来た子なら、いたわよ。ふたり」
いやな知らせだ。僕は顔をしかめた。
不愉快の理由はふたつ。ひとつは、僕の他にもテラの聴覚の価値を知っている奴がいると分かったから。僕だけの情報源のつもりでいたけど、いつまでも隠し通すのは無理だったらしい。
そしてもうひとつは、誰が何のためにエルリを捜しているのか分からなかったからだ。
ひとりはエタかもしれない。鼻のきく彼女なら、テラのことも探り出していたっておかしくない。
でも、もう一人は誰だ?
「ふたりって、誰と誰?」
答えてもらえるだろうかと思いながら尋ねる。情報屋というのは、情報を誰に売ったか絶対に言わないものだ。
だけど、テラは本職の情報屋じゃなかった。いわゆる上流階級の、育ちのいい女の子。病気で今の姿になった後、外聞を気にした両親に棄てられ、僕とは別の施設に収容されただけだ。《施設》がまだましに思えるくらいに惨めな、ごみためのような檻の中に。
そんなわけで、テラはぐふふと笑って教えてくれた。
「ひとりはエタ。──もうひとりは、クロトよ」
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