第40話 泥の足

「……手を貸すよ」


 驚いたけれど、僕は頷いた。

「あれ」が何なのか分かれば、レアルの安否も分かるはずだ。普通に考えれば、あんなふうに躰を喰い破られて生きていられるはずがない。でも、「あれ」はレアルに寄生しているようにも見えた。レアルとは別の存在なのに、同じひとつの躰を分かち合う、不自然で不気味な胎児みたいな何か。

 あれが何なのか、僕は知りたい。


 ただ、その前にしなければならないことがある。僕はバールに言った。


「手は貸すけど……先に、パムを捜させてもらうよ」


 戦うことはおろか、逃げることもできない友達。たったひとつだけ、僕の手の中に残ったもの。

 パムの安否を確かめることが、最優先だ。

 バールは爪の先で顎を撫でた。


「それは、だが……いや、まあ、いい。まずは、厨房だな」


 壁から背中を離す。野生の獣のように静かな動きだった。いま逃げてきた道を戻り始める。僕も後を追った。


「おまえはこれを持ってろ」


 バールはベルトからヤックのナイフを引き抜き、振り向きもせずに差し出した。


「いいの?」

「仕方ねえ」


 返答は素っ気なく、躊躇もなかった。

 廊下を戻り、中央棟に入る手前で右に折れる。細い通路の突き当たりの扉は、厨房に通じている。

 バールの背には鋭い緊張が漂っていた。扉を開ければ、「あれ」と鉢合わせするかもしれない。近づいていきながら、いつでも爪を繰り出せるように身構えているのが分かった。

 扉越しに数秒、物音を窺ってから、バールは取っ手をつかんで開け放った。

 ――誰もいない。

 厨房には誰もいなかった。敵も、クロトも、パムも。

 食堂との間の扉は食器棚で塞がれていた。調理台との間につっかい棒のように嵌め込んで、どんなに頑張って押しても動かないように細工されている。

 庭に出る裏口の扉が開け放され、弱い日差しに空中の埃が光っていた。

 僕たちは足音を殺して戸口へ近づいた。外を覗くと、庭園の土の上に太い線が走っているのが目についた。幅は拳二つ分ほど。棒を突き立てて抉ったような跡が、ほぼ平行に二本、庭園の奥へ延びていく。右の方が、左より少し浅い。


「バール――」


 声を低めて言いかけた僕を、バールは片手で遮った。庭に滑り出る。地面に延びた跡に沿って進み始めた。

 ちょっと待て。僕は焦った。パムを捜す方が先だと言ったじゃないか。

 バールは立ち止まらなかった。草地に入ると、草の葉や茎の折れた向きを確かめ、跡を追っていく。

 食堂から充分離れると、低く言った。


「なあ、イサ。考えたことはねえか。何でおまえと俺は殺し合ったのかってな」

「バール。そんなことより、パムを」

「いいから考えろ。……たぶん、ちびも、この先にいる」


 手振りで、地面についた跡を指し示す。

 僕は黙った。今さら、何で僕たちが殺し合ったのか、だって?

 あんたがカナを殺したと思ったから。――あんたは、僕が《施設》から送り込まれた《新型》で、あんたや皆を殺そうとしてると思ったから。


 どうして、僕たちはもっと早く、互いの誤解を解かなかったのだろう。


 昨日何度も繰り返した後悔に、ふと別のものが混じった。

 どうして?

 それは、バールと話ができなかったからだ。怖かったから。バールは《施設》の連中に似ているし、僕を攻撃しようとしていた。

 でも、どうして僕は、攻撃されると思ったのだろう?

 初めて地下の食料貯蔵庫で言葉を交わしたときには、そんなことは考えていなかった。恐ろしかったし警戒もしたけれど、攻撃対象になるとまでは思わなかった。大人しくして、目立たないでいれば、何とかなるつもりでいた。


 それが変わったのは、いつだったか。


 テラが脅されたから? バールが、蝙蝠の目を光で灼くなんて残酷な真似をしたから。

 いや、違う。

 僕はさらに記憶をたどった。テラが脅される前に、確か――。


 答えが形になる前に、バールが「もうひとつ気にかかることがある」と言った。


「あのレアルって女は《城》の中と外を行き来してる。広間で派手に殺った後、外に帰ったんだろう?」

「そうだね。あの日まで、あまり《城》の中では姿を見かけなかったし」

「だったら、《城》の外にいるあの女が、どうやってエルリやエタやブロッシュを殺った?」


 ――「どうやって」?

 バールの問いの意図が分からずに僕は聞き返した。


「《城》の外から中に入って来て殺したんじゃないの?」

「馬鹿か。そんな当たり前のことを訊いてるんじゃねえ。どうやって標的の居場所を突き止め、どうやって人に見られずに殺して逃げたのかって話だ」

「それは……たまたま、ひとりでいる子を見つけて襲いかかったんじゃ……」


 違う。自分で言いかけたことを僕は否定した。

 以前、西棟五階の部屋で考えたことだ。エルリ、エタ、ブロッシュは、それぞれそのとき殺される理由があった。広間のとき以後のような、手当たり次第じゃなかった。

 でも、外にいたレアルには、標的の情報がない。

 レアルが殺したんじゃない? いや、それも違う。レアルはエルリの手足も、エタの牙も、ブロッシュの下肢も持っていた。殺したのは確かにレアルだ。殺して、躰の形を手に入れた。


 だとしたら、どういうことになる?


 暗い影を感じた。ブロッシュが死に、ダウに人殺し扱いされ、逃げ回っていたときに感じた気配だ。

 やっぱり、誰かがいる。《城》の中でいつ誰が死ななければならないか、観察し、考え、まるで遊戯盤の上の球を落とすように判断を下した者が。

 それはレアルじゃない。《城》の外にいたレアルには、できない。

 つまり――答えは、ひとつだ。


 バールも似たようなことを考えている様子だった。


「あの女は広間に現れるまでは、きっちり狙いをつけて殺してたはずだ。エタの鼻、テラの耳、リグの目。俺たちの感覚器官を真っ先に潰した。エルリは鍵を開けられちゃ都合が悪かったからだろう。ブロッシュはテラのついでに殺れるし、あの脚は戦闘にも退却にも使い勝手がいい。……たまたまじゃねえ。あの女は、いつどこに誰がいるか知ってた。誰かが、あの女に教えてたはずだ」


 バールが持っていない情報を僕は補充することにした。エタがエルリの死体のある部屋に入ろうとしていたこと。ブロッシュが、殺される前の日に僕と諍いを起こしたこと。それで、ダウが僕を殺人者だと思い込んで襲いかかってきたこと。

 僕の説明を聞くと、バールは顎を引いた。


「なるほど。色々考えてやがる。頭の回る奴だ」


 僕のことじゃない。敵のことだ。

 それが誰なのか、僕にももう見当がついていた。

 さっき見た厨房。食堂との間の扉を塞いでいた食器棚。――あのせいで、ディナたちは逃げられなかった。

 あのとき厨房にいたのは、誰か。

 僕とバールとの間に不信の種を蒔いた者は。


 僕もバールも、それ以上話さなかった。

 二本の跡はさらに延び、西棟の南につながった別棟に入っていった。建物に上がると、泥で床を汚しながら廊下を進んでいく。

 終着点が見えた。別棟の一階の端にある扉。廊下を挟んで庭園の向かい側、つまり《城》の外側に面している部屋だ。以前に確かめたときには、鍵がかかっていた。


 泥の跡は、その施錠されていたはずの扉の下へ消えていた。


 凍りついた塊が胸の底にこごった。あまりにも暗く、中を見通せない。冷気で感覚が麻痺する。指先まで痺れる。真冬の吹雪の夜でさえ、こんなに冷たくはない。

 バールが聞こえるか聞こえないかの声で指示した。


「イサ。おまえの方が身軽だ。俺が扉を破ったら、入って捕らえろ」

「了解」


 扉の傍まで行き、僕たちは位置についた。

 ――いいか?

 尋ねるようなバールの視線に、頷く。

 バールが扉に足を叩きつけた。《悪霊》憑きの膂力と長身の体重とを全て乗せた一撃が、扉の掛け金を弾き飛ばした。

 蝶つがいごと外れて吹き飛んだ扉を踏み越え、僕は室内に跳び込んだ。中にいた奴の襟首をつかみ、抵抗する暇なんか与えずに床に引きずり倒し、背中を膝で踏んで頸動脈にナイフを押し当てた。

僕の後から入ってきたバールが、床で呻いている相手に冷酷な笑みを向けた。


「よう、クロト。――てめえ、《施設》にいくらもらってる?」



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