第41話 バストゥルの協力者
クロトの顔は土気色をしていた。
膝から下を形作る木の根は泥まみれだ。この足で、濡れた地面に跡を残さずに移動するのは無理だっただろう。手首には無理やり縛めを解いた跡があり、擦れて皮膚が剥け、腫れ上がっていた。
部屋は狭く、机と長椅子と棚でほぼ一杯だった。かつては事務室か何かだったようだ。長椅子の端にパムの姿を見つけて、僕は安堵の息をついた。口に布が巻かれ、ぐったりとしているけれど、躰が上下している。大丈夫だ、生きている。
机の上には黒い金属製の箱が乗っていた。壁にコードでつながれた機械。据え置き式の通信機だった。
バールは操作盤の設定を確かめた後、無造作に電源を落とした。
「中継域シアン州五二号、波数十八・七四、暗号化方式エレミオン……。何だ、金で雇われた雑魚かと思ったら、正規の職員じゃねえか。てめえ、見た目よりも年くってるな。子供に見えるのは、成長が遅い樹木型だからか。うまくごまかしやがって」
通信機は《城》の外とつながっていたようだった。《施設》で扱い方を習うのと同じ型。送受信の方式も同じだ。敵に通信を解読されないようにするための軍の暗号技術。いくつかある方式のうち、比較的高度な機密情報のやりとりに使うものだった。使用を許可される人員は、限られている。
椅子から引きずり落とされ、床に顔を押しつけられたクロトは、血の気をなくして黙っていた。今も頬はこけ、目だけが病んだように光っていたけれど、正気に見える。死ね死ねと叫んだあの錯乱は、演技だったようだ。
バールは屈み込み、獣の爪をクロトの顎に当てた。
「いい報告ができたろうな。てめえが扉を塞ぎやがったせいで、ディナ、チシャ、ミレ、三人が殺られた。見事な機転だ。
鋭利な爪が皮膚に食い込み、血の玉が生じた。クロトは息を呑み、「痛てて」とわめいた。まるで小さな赤い滴一粒に耐えられないとでもいうように。
僕はクロトを殴りたくなるのを堪え、服の上から躰を押さえて所持品を確かめた。襟首に太い紐の感触がある。引きずり出した。首を締めつけられ、クロトは蛙のように喘いだ。
紐を引きちぎって外すと、金属が触れ合う音を立てて、手の中に数本の鍵が落ちてきた。
《城》には存在しないはずの、鍵だ。
苦いものが胃の奥からこみあげた。クロトの首に突きつけたナイフが小刻みに動く。狙いを定めていたいのに、手の震えが抑えられない。
「クロト。君……レアルがエルリやエタを殺すのに、手を貸したね。《城》の中の情報を流したり、死体がすぐに見つからないように鍵をかけたりしたね」
バールが問うような視線を投げてくる。僕は以前考えたことを話した。エタとエルリの亡骸を見つけたとき、離れの裏口にも、西棟五階の部屋にも鍵がかかっていたこと。二人が殺された後、誰かが外から鍵をかけていたことを。
「今ならもっとよく分かる。《城》は試験場だ。レアルが僕たちを殺して、僕たちの躰の形を手に入れるために準備された場所だ。最初からここは《施設》の管理下にある。鍵を持ってるのは、管理者、つまり《施設》の協力者だけだ。――違う?」
けれど、バールが返事をする前に、クロトが声を上げた。
「違う。おれは……この鍵、拾ったんだ」
「嘘をつくな!」
今度こそ僕はクロトの襟首をつかんで締め上げた。
「君が僕に言ったんだ。『バールはおまえに目をつけてる』って。君にそう言われるまで、僕はバールを敵だとは思ってなかった。警戒はしても、僕を殺しに来るとまでは思ってなかった。――君が、僕に、バールを敵だと思い込ませたんだ」
「おまえは、俺にも言ったよな」
バールが低く言った。
「地下室でイサに出くわした後だ。どういう知り合いだって俺はおまえに訊いたな。おまえは言っただろ――イサは軍の施設から来た奴で、普通の《悪霊》憑きじゃねえようだ、と。妙に力が強くて、簡単に人を殺そうとする、やばい奴だと」
思わず唇が歪んだ。笑ってしまう。バールはそれで、僕を《新型》かと疑い、《施設》の連中の命令に従って容赦なく彼を殺すだろうと思ったのだ。
本当の敵から目をそらさせて。
決して協力させず、遠ざけ、潰し合わせて。
僕とバールが争わなければ、カナだって、あんな目にあわずに済んだのに。
僕はクロトの襟首をつかみ、問い詰めた。
「パムを連れてきたのは人質のつもりか? もう遅い。吐けよ。知ってることを、全部!」
レアルの中にいたものは何か。彼女は死んだのか。僕はもう何もできないのか。何もできずに失ったのか。
答えは《施設》にしか分からない。そして、いま僕に手が届く唯一の《施設》の人間が、クロトだ。
絞め殺してしまわないように懸命に力を抑えて、僕はクロトを問い詰めた。
「喋れ。でないと――」
「でないと、何だよ」
クロトは暗い目で僕を睨んだ。
「おれは何も知らねえぞ。鍵は拾ったんだし、その机の上のだって、元々この部屋にあったんだ。別に何もいじってねえ。使い方も知らねえ。責められたって、わけが分からねえ」
「――嘘だ」
「嘘じゃねえよ。おまえらはいつだってそうだ。勝手に人を疑って、勝手に痛めつけて殺すんだ。好きにしろよ。でも、おれは何も知らねえぞ」
憎悪に満ちた声が手首に絡みついた。
その声は否応なく、僕にカナが死んだ夜を思い出させた。引き裂かれたように泣いたクロトの声を。クロトがカナに向けていたまなざしを。僕やバールがカナにした仕打ちを。
「おれは何もしてねえ。何も知らねえ。だけどどうせおまえらは、おれを殺すんだ。カナにしたみてえにする気だろ。爪でも皮膚でも剥ぐんだろ。おまえらはそうだ。自分のことしか考えてねえ。勝手に疑い合って、勝手に殺し合って、おれのせいにするんだ」
呪いが躰の奥を抉った。ナイフを握る手が、痛みで力を失いそうになる。
刺せよ、とクロトは囁いた。
「刺せばいいだろ。おまえら、どうせ、殺しなんて何とも思ってねえんだろ。やれよ!」
バールが息をついた。
屈んでいた膝を伸ばし、立ち上がる。
「バール」
僕は思わず呼んだ。まさか、ここでやめる気なのか。他には何も手がかりがないのに。
だけど、もし本当に、僕たちの思い違いだったら。クロトが何も知らなかったら――?
バールは僕よりもいっそう慎重かもしれない。何も知らないカナを手酷く尋問したことを、少しでも後悔しているなら。
そのとき、クロトの表情が目に入った。
クロトは目だけを動かしてバールを見上げていた。相手の顔をよく見て、検分していた。自分が与えた打撃がどれほどのものかを。急所を突き、怯ませ、怖じ気づかせ、危機を切り抜けることができたかどうかを。
結果に満足できたのだろう。唇の端が、ほんの微かに、嗤った。
――殺したい。
毒虫のようにクロトを叩き潰したくなるのを、僕は必死に堪えた。
つまり、これがクロトなのだ。言葉巧みに相手の感情を操り、巧妙に言い訳をつけて立ち回り、誰にも気づかれずに敵を自滅させる。
今もそうだ。バールの後悔につけ込んで、手出しできなくしようとしているのだ。
バールはクロトの表情を見ていなかった。机の周りを回って、僕の後ろへ行き、クロトの足元に近づいた。
憂鬱な声が独白した。
「弱い奴ってのは、怖えな」
クロトが怪訝そうな顔をした。
バールの左手が伸びて、樹木の根でできたクロトの右足首をつかんだ。
悲鳴を上げたクロトを、僕は反射的に押さえ込んだ。膝立ちになって肩甲骨の間に体重をかけ、起き上がれないように床に押しつける。
絡み合った木の根の脚に、バールは獣の爪を突き入れた。
根を引きちぎり、絡んだものを無理やりほぐす。根には血管や神経が通っている部分があるようで、赤い滴が飛び散った。
クロトは物凄い声で叫び、泣きわめいた。
それは普通の人間の躰で言えば、しっかりと握った拳の骨を折り指を引き裂いて、中にあるものを剥き出しにする作業だっただろう。バールは表情一つ変えずにそれをした。クロトが脚の中に隠していたものを暴き立て、取り上げた。
細く長い棒状のもの。
バールが柄をつかんで鞘から引き抜くと、刃が鋭く光った。
クロトの脚から出てきたのは、一振りの短剣だった。広間から消えていた短剣。カナが死んだ日に、僕が亡骸から抜き取り、バールと戦うのに使った武器。
カナを殺した刃。
それが意味することを、僕はしばらくつかみ損ねていた。
広間から短剣を回収したのは、クロトだったのだ。なぜ? 身を守る武器が欲しかったからか?
いや、違う。少なくとも、それだけじゃない。だって、広間には鞘がなかったから。僕が見つけたときには、短剣は既にカナの躰に突き立てられていた。僕は一度も鞘を見ていない。持ち運んでもいない。
鞘は、ずっとクロトが持っていた。
短剣を回収したのは――
バールがうっすらと笑う。
深い、昏い、底知れない闇の底から、血の臭いのする牙を剥き出すように。
「カナを殺したのは、てめえだな。クロト」
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