第42話 復讐

 クロトの荒い息遣いが、小部屋に満ちる。

 僕は動けなかった。クロトを拘束していなければならなかったから。そして、自分の躰がまだ動くということを忘れていたから。

 バールは短剣を手にして、僕の正面に戻ってきた。


「あの夜の話をしてやる。――カナが死んだあの夜、俺は《城》中の奴を広間に集めてた」


 クロトじゃない。僕に言っている。一度はバールに疑いをかけた僕に、本当は何があったのか教えるために。


「ひとつには、脱出経路を確保しなきゃならねえと思ったからだ。それでダウたちに玄関の扉を壊させることにした。もうひとつ、夜になって視界がきかなくなれば、いくら人数がいようが素人の奴らにおまえを狩らせるのは危険すぎるとも思った。で、扉を壊す作業に加わらねえ奴も、とにかく全員広間に集まってろと言った」


 あの日の光景が蘇ってくる。がらんとしてひとけがなかった回廊。薄暗い中庭。みんな広間にいた。集められていた。


「まあ、食堂や何かと行き来してた奴もいたから、厳密には全員じゃねえがな。それと、カッチェ、ガナリ、ハク、クロトは別だ。捕虜を取り返されねえように、交代で見張りに立たせた。二階にいたんじゃ広間まで声が届かねえから、回廊にいろ、イサを見たらすぐ大声で知らせろと指示した」

「……クロトは、回廊にいなかったよ」


 僕は言った。

 あの夜、テラに話を聞こうとして地下室に下りたとき、僕は回廊を通った。

 あのとき、クロトはいなかった。

 テラの死体を見つけて、呆然としながら回廊に戻ったとき、初めて鉢合わせしたのだ。

 ――だったら、それまで、クロトはどこにいたのか。

 押さえ込んだ膝の下で、クロトの呼吸がますます速くなる。空気か、それとも他の何かを求めて喘ぐ。

 バールは冷淡に言った。


「二階に上がって、カナを殺してたってわけだ」


 そんなはずは、ない。

 クロトの泣き顔を僕は思い出す。カナの居場所を僕に教えたクロト。カナが何をされたか、震える声で吐き出した。

 大切だったんじゃないのか。

 ――おまえは薬、手え出すなよ。頼るなよ。ほんと、よくねえから。

 そう言っていたのに。


「《施設》の任務の役に立つと思ったんだろう。あの状況でカナを殺せば、俺がやったように見える。イサと俺とを決定的に憎み合わせて、潰し合わせることができる」


 バールは短剣を床に置いた。つま先をクロトの顎にかけ、無理やり上を向かせる。


「得物を取り戻したことだけが失敗だったな。脚の中に隠せば確かに外からは見えねえが、体重のかけ方や動きが不自然になる。厨房で暴れてたときにも妙だとは思ったが、足跡を見ればもっとよく分かる。ばれねえと思ったか」


 厨房の裏口から庭園に延びていた、樹木の足を引きずった跡。左右で深さの違う、クロトの足跡。


 嘲笑され、クロトの顔が白っぽくなった。バールは容赦しなかった。叩きつけるように更に罵声を浴びせた。


「おまえは屑だ。上の連中に尻尾を振って、ご機嫌取りのためにカナを殺した。自分で戦う能力もねえ枯れ木野郎が、縛られた女を襲って殺して、気持ちよかったか。それで少しは立派になれたつもりか。残念だな、どんなに頑張っても、おまえみてえな奴は所詮、薄汚えウジ虫だ」


 僕は口を挟んだ。


「バール。でも、クロトは……カナを……」


 バールは動じなかった。ますます侮蔑を込めて両眼を細めた。


「惚れてたのか? そりゃ、相手にもされなかったろうな。……ああ、だから殺したのか」

「――黙れ!」


 たがが外れたように絶叫が上がった。

 血の気の失せたクロトの顔が、歪んでいた。クロトは頭を振り、首筋に刃を突きつけられていることを忘れたように暴れた。


「おまえのせいじゃねえか。おまえがカナに酷え真似するから!」


 灼けつくような目つきだった。それは憎悪ではなかった。

 嫉妬だ。

 僕はたじろいだ。クロトは妬ましいのか。バールが。カナにあんなことをしたバールが。

《施設》の手先だったことよりも、その嫉妬の方がずっと、信じがたかった。僕の知っているクロトとは、別の人間みたいな気がした。

 それとも、最初からこうだったのか。《城》に来た最初の日の、黄昏時の食堂から。クロトはずっと、こんな顔を隠し持っていたのか。どこか憎めない、負けん気の強い少年の顔の下に。

 クロトはわめいた。


「おれは守ってやったんだ。バール! てめえの汚え手から! どうせ生き延びたって、レアルに酷え殺され方するだけだ。だから、楽にしてやったんだ!」


 唾が飛んだ。声がますます高く、裏返って引きつった。


「カナだって、きっとおれに感謝してる。他の奴らみてえな殺され方するよりよかったって、言うに決まってる――」


 心臓に黒い火花が散った。

 僕はクロトの頭をナイフの柄で殴った。力一杯。

 涙と血に濡れたカナの死に顔が蘇った。悲鳴を上げて、助けを求めていた顔が。

 感謝してる、だって?

 ふざけるな。――ふざけるな!

 武器を強く握りしめた僕に、バールが低く言った。


「どけ、イサ」


 僕が躰を引くと、扉を破壊したのと同じ蹴りがクロトの顔面を襲った。

 顎の下から蹴り上げられ、クロトは躰ごと跳ね飛ばされた。壁に叩きつけられ、転がり落ちる。バールは倒れたクロトに大股に歩み寄った。喉を踏みつけ、動けなくした。

 冷酷な声が降った。


「クロト。今のは、自白ってことだよな」


 僕は息を止めた。

 言葉で相手の感情を煽り、操り、自滅させる。バールは、クロトが僕たちにしたことをやり返したのだ。

 クロトは認めてしまっていた。自分がカナを殺したことを。そして、レアルが殺人者だと知っていたことも。

 痛みで声も出ない様子のクロトに、バールは昏い笑みを向けた。


「イサやカナのときみてえな無様は二度とごめんだからな。確認が取れてよかった。これで、心置きなく尋問に移れる」


 血の臭いのする声が獲物を捕らえる。

 バールは《施設》のやり方でクロトを痛めつけて、情報を引き出すつもりだ。はらわたを引きずり出すようにして。


「クロト。おまえの言うとおり、俺はカナにろくでもねえことをした。全くろくでもねえことだ。……だが、一応、手加減はした。素人相手だと思ったからな」


 唇がますます昏く歪み、バールは言った。


「おまえには、必要ねえよなぁ」


 僕の胸の中で、クロトに対する怒りがゆっくりと冷め、代わってひんやりとしたものが満ちた。

 バールは《施設》の優良種の本性を剥き出しにして笑っていた。止むことのない血と暴力の気配。これからクロトにどんなことをするのか、僕にも完全には想像がつかなかった。

 バールがずっと怒りを堪えていたことに、今さらながらに僕は気づいた。態度に出すことはほとんどなかったけれど、荒れ狂うものを躰の奥に隠していた。騙されて僕を殺そうとしたことも、カナを踏みにじったことも、レアルに皆を殺されたことも、耐えがたい苦痛だったに違いない。

 ディナを目の前で喰われたときも、バールはただ逃げた。そうするしかなかったからだ。でなければ僕も、バール自身も、「あれ」に殺されていた。

 叩き折られた矜持。屈辱と自責。誰とも分かち合えない汚泥の味。

 その元凶となったクロトを、赦すとはとても思えなかっった。


 バールは闇色の眸を僕に向け、蹴り壊された扉を指した。


「イサ。ちびを連れて外に出てろ」

「……手伝うよ」


 どういうやり方で尋問するにせよ、もうひとつ手があった方がやりやすいはずだ。気力を奮い起こして僕は言ったけれど、バールは僕にまで冷酷な薄笑いを向けた。


「引っ込んでろ。俺の楽しみを邪魔するな」


 まるで銃口を喉元に突きつけられたようだった。

 僕は怯んだ。まだカナが死ぬ前の昼間、庭でバールと対峙したときのことを思い出した。牙を剥いた獣の眸。血の臭い。

 逆らえないと思った。臣民がひとり残らず死に絶えても、バールはやっぱり《城》の王だった。

 宝剣の代わりに獣の爪を、豪奢な外套の代わりに血の臭いを身に帯びた王。

 近づくことなどできない。善も悪もない。

 王はただ、王だ。

 僕は長椅子の上からパムの躰を抱え上げ、王命に従って部屋を出た。

 数秒後に、臓腑を抉り取るような悲鳴が聞こえてきた。


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