第43話 この躰を、その人に
18
僕は別棟の廊下の端に置かれた長椅子までパムを連れて行った。
口に巻かれた布を外して寝かせる。別棟の廊下は西棟より細いけれど、庭園側にところどころガラスの壁や扉があり、庭の景色に向かって椅子を置いた造りは同じだ。
ガラスの外はまた重い灰色に曇り、雨が落ちてきていた。風も強い。大気が不安定だ。低い雷鳴がクロトの悲鳴に重なって響いた。
「……イサ……」
弱々しい声がした。
長椅子の上から、金色の眼が僕を見上げていた。
「パム。気分は?」
答えはなかった。パムは激しく咳き込み、床に吐いた。呼吸が細く、荒い。喉の奥でいやな音が鳴る。苦痛を堪えるように小柄な躰が丸まった。
不安が胸に爪を立てた。朝方よりも悪化している。
昨日、広間で皆の死体を目にしてから、パムの体調は悪くなる一方のようだった。後悔が胸を咬んだ。どうして止めなかったのだろう。死臭がパムのような生き物を消耗させることなんて、分かり切っていたのに。
「苦しい? クロトに何かされた?」
僕の問いにパムは首を振って応えた。
「何も……。厨房から逃げて、ここへ連れてきてくれただけ……」
レアルが食堂に来て皆を殺し始めてすぐ、クロトは厨房と食堂との間の扉を棚で塞ぎ、パムを連れて逃げたのだという。手首の縛めはその前から時間をかけて緩めていたようだ。口を塞がれたせいで呼吸が苦しく、パムは別棟に入ったあたりで気を失った。次に意識が戻ったのは、僕たちの話の途中だ。
「バールとクロトの声が、聞こえたよ……。カナのことも……」
長い睫の間から、涙が零れ落ちた。
僕は汚れた口元を手の甲で拭ってやり、言った。
「休んでなよ。何かあったら、起こすから」
「……ううん……。イサ、きみとバールは……? どうやってここへ……?」
僕は大雑把に経緯を説明した。食堂でレアルと会ったこと。彼女の躰の中から現れたもの。クロトが《施設》の協力者だと気づき、情報を得るために追ってきたこと。
「……躰の中から?」
パムは聞き返した。怯えた顔をしている。僕にもうまく説明ができない。ただ、自分が見たものを話した。レアルの躰を喰い破って現れた女の貌。レアルと同じ能力を持つ腕。殺戮。
パムは黙っていた。何か懸命に考えているみたいだった。
やがて、ぽつりと呟いた。
「
――「誰」?
あの女の貌を、パムはまるでひとりの人間のように言った。
「あれが人間だっていうのか? あれが?」
僕の問いにパムが答えるまでには、また長い沈黙があった。祈りに似た沈黙。細い喉が苦しげに鳴り、その音も雷鳴に押し潰された。
「ファヴリル……悪霊というのは、元々は聖堂の言葉で、正しく葬られなかった人間の魂のこと……。この世をさまよい続け、生者に憑く死者のこと……」
古い迷信だ。実際には、生命は繊細な定義の集合体。常に少しずつ
そのとき僕たちは死に、後には有機物の残骸だけが残る。死んだ後にさまよう魂なんてものは、無い。
パムの話も、あくまでも比喩のようだった。
「レアルの《
人間?
僕が眉を寄せると、パムは囁いた。
「想像してみて……。もしも、イサ、きみだったら……。きみのその翼の代わりに、ある日、誰か他の人の手や足や頭が、躰から生えるとしたら……」
それはあまりにも嫌悪感を催す想像で、僕は額を掌に押しつけて呻いた。
そんなことになったら、僕はたぶん背中をガラスに叩きつけるだろう。尖った破片で自分の躰から生えたものを切り裂き、抉り取り、それでもまだ足りずにわめくだろう。
放せ。離れろ。僕から、消え失せろ。
「レアルはそれだっていうのか? ファヴリルの能力で、躰に他人を……何て言ったらいいのか、その、写し取った?」
「うん……。レアルでなければ、あり得ないと思うけど……。レアルなら、きっと……」
「でも、今まで殺された皆は、あんなふうにレアルの躰から現れてない。それとも、これから出てくるのかな?」
「どうかな……。その人は、レアルの意志から離れて、自分で動いていたんでしょう? 躰の形だけじゃなく、その人の意志を、存在そのものを再現しているとしたら……。よほど深く……永遠にレアルを捕えて放さないくらい深く、魂に食い込んでいるんだと思う……。殺したり殺されたりするよりも、もっと恐ろしい、レアルの人格を損なってしまうような方法で……」
どんな方法だ、それは。
尋ねるのが厭で、僕は口を開かなかった。パムもそれ以上は言わなかった。吐くのを堪えるように顔を背け、躰を波打たせ、細く長く息をついた。
「……その人が誰だとしても、ぼくたちを襲うつもりなのは、たしかだよね」
僕は頷いた。その点は疑う余地がない。「あれ」は僕たちを殺したがっている。
「もしも、レアルの躰が、その人のものになってしまったんだとしたら……。躰の中から変わっていって、その人になってしまって……。そうしたら……レアルは……レアルを、助けるには……」
言いかけて、堪えきれなくなったようにパムはまた激しく咳き込んだ。
細い喉の奥で異様な音がした。まるで内臓がちぎれたかのようだった。パムは喘ぎ、真っ赤な塊を吐き出した。はらわたそのものを吐いたかのような酷い臭いがした。
僕の心臓も止まりそうになった。いつもとは様子が違う。
パムが痙攣するように身を震わせると、《悪霊》憑きの躰をくるんだ布の表面に、褐色の液体がじくりと染み出してきた。血と何かの混じり合ったもの。破れた躰から流れ出した体液。苦しげに閉じた瞼の下から、赤く濁った涙が頬を伝い落ちた。
こんなことは、今までになかった。
恐慌が喉を塞ぐと同時に、暗い理解が閃いた。
時が来たのだ。
パムは壊れる。今度こそ決定的に損なわれて、戻らない。
それは皆の死体を見てしまった衝撃のせいかもしれないし、今日のこの大気のせいかもしれないし、単に寿命が尽きたからかもしれない。
何にせよ同じことだ。パムはもうすぐ去る。僕を、この病んで歪んだ場所に置き去りにして。
「パム。休んで」
僕は呻いた。
休んだから何だっていうんだ。馬鹿みたいだけれど、他に言えることもなかった。
こんなにも血の臭いの立ちこめる日に、こんなにも苦しんで逝ってしまうのか。例えばある日の夕方、僕が花壇に迎えに行くと、深い眠りについたかのように息が絶えている――そんな光景ならば、まだしもふさわしかったのに。
パムはまだ喋ろうとしていた。自分の吐いた血に顔を汚して、震えながら首を横に振った。
「まだ……。イサ……。ぼくの言うとおりにして……ぼくを……」
二度目に溢れ出た赤い塊が声を覆い尽くした。
もしもパムに腕や手があったら、僕の腕を強くつかんでいたに違いない。金色の眼は血の混じった涙に汚れながら、祈るように僕を見上げていた。
「……殺しては、だめだ……。レアルを……」
声を振り絞る。
「……方法は、ある……レアルを、元に戻す、方法…………」
細い喉に詰まったものが囁きを妨げる。聞き取れなくなっていく声に、僕は必死に耳を傾けた。
けれど、聞こえたのは、恐ろしい言葉だった。
「ぼくの躰を…………
できれば、まだ生きているうちに――。
雨音が遠のいた。
僕は友達の顔を見つめた。血に汚れ、今にも息絶えそうな顔を。
弱々しく、本当に弱々しく、パムは微笑んだ。
「この躰には……《
それは、レアル自身の《定義》ではないから。傷や病のように、歪められ、本来の姿から外れたものだから。
だから、レキは必ず、レアルの躰を奪い取った「それ」を消すだろう。
「……でも」
僕は言った。声が遠い。何を言っているのか、自分でもほとんど分からなかった。
「そうしたら……君は……パム、君は……」
パムは微笑んでいた。そうだね、と言うように。
それでいいんだ、と言うように。
ガラスの砕ける音が、僕たちの間を切り裂いた。
西棟の一階の方からだ。絶望的な気分で顔を上げ、僕は西棟と別棟の間の扉を窺った。
《城》にはもう、僕、パム、バール、クロト――そしてレアルの躰を奪った「あれ」しかいない。そして、クロトの悲鳴はまだ続いている。バールも勿論そこにいる。簡単な消去法。ガラスを割ったのは、「あれ」だ。
来る。
僕はパムの躰を抱え上げた。バールとクロトのいる小部屋に向かって駆け出す。
「バール! 敵が」
呼びかけた声を遮って、再びガラスの砕ける音が響き、激しい雨と破片とが視界を埋めた。
庭園側の壁のガラスを破り、敵が僕の目の前に立った。西棟の一階から庭園に出て、外を回ってきたようだ。
レアル。
銀色の姿はほとんど残っていなかった。血に汚れて裂けた服はちぎれ落ち、切れ端の下に蠢く躰は既に全体が赤黒いものに覆い尽くされている。かろうじて残った頭には錆の色に溶け崩れた花と蔓が巻きつき、ほとんど顔が見えない。雨に濡れた銀の髪が苦しげに赤い蔓に絡みついている。白い両腕は赤黒い腕の方に吸収されたのか、もうなかった。
そして、不気味な腫瘍のように胸元に隆起した貌。
熱い痛みが躰を灼いた。爪が欲しい。あの蔓を引きちぎる爪が。
穢い赤の隙間に覗く、レアルの白い頬。触れたい。だけど、レアルの躰を今捕らえているのは、僕じゃない。「それ」だ。僕の知らない女。
――ぼくの躰を、その人に、喰べさせて。
僕は歯を食いしばった。できるわけがない。
できるわけがない、そんなこと!
敵はあのぬめりを帯びた目で僕とパムとを見ていた。右腕が形を変えた。長く延び、赤黒い弧を描いて尖る。大鎌。僕が知っている形じゃない。《城》以外の場所でレアルが殺した《悪霊》憑きか。
下肢を大猿の脚に変え、右腕の鎌を振り上げて、「それ」は僕に襲いかかった。
速い。
考えている暇なんかない。躰が動く。下がらず、逆に敵の懐に跳び込む。思いきり姿勢を低くして刃の下をかいくぐり、敵の背後に逃げる。
大鎌の陰で「それ」の脇腹が盛り上がった。異常な速度で、もう一本腕が生える。
避けられない。
自分とパムの躰を庇った右の翼が、トカゲの爪に切り裂かれた。腕を抉られたに等しい痛み。生温い血が噴き出した。僕の翼をつかんで引きちぎろうとするその腕から、床を蹴り、飛び離れて逃げる。
血の臭いのする風が翼を掠めた。
僕を追おうとした「それ」の赤黒い躰に、廊下の奥から飛来した塊が激突した。血まみれの、人間の形をした塊。
クロトだ。
人間ひとりの重量をまともに叩きつけられ、敵がよろめく。王の声が僕を呼んだ。
「来い、イサ」
滑り落ちそうなパムを抱え直し、走った。クロトを砲弾代わりに投げつけたバールは、死のように廊下の暗がりに立っていた。闇色にひかる眸。顔に点々と跳ねた返り血は、クロトのものか。
バールは「それ」に向かって吼えた。
「返してやる。そいつから喰えばいい!」
敵のぬらぬらとする目が、足元に転がって呻く協力者を見下ろした。
理解。納得。嘲笑。
何であれ、逡巡はなかった。
血の色の大鎌が振り下ろされた。腕を床に縫い止められ、クロトが絶叫した。
「やめろ――やめろ、何でだ、やめてくれ――!」
「それ」は聞かなかった。大きく口を開く。形を変え、犬の牙を剥き出しにする。
クロトの顔に喰らいついた。
咬みちぎる。呑み込む。牙を突き刺す。躰を振って、肉を引き剥がす。喰らう。
クロトの声はもう人間のものとも思えなかった。
死に絡め取られ、侵入され、舐め回されて、クロトは喰われる。
そうして喰われながら、意識を保ち続けていた。
死ににくいのは、樹木型の《悪霊》憑きの最大の長所だと《施設》では言われている。
バールが素っ気なく促した。
「行くぞ」
身を翻し、庭園に出る扉を開ける。風の音と共に重い雨粒が吹き込んだ。叩きつける雨の中へ出ていくバールを、僕は足を引きずるようにして追った。
咀嚼される餌の叫びを、轟く雷鳴が押し潰した。
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