第44話 ちいさな幼虫の決断

  19


 火。

 その温かく輝くものの存在を、僕は久しぶりに思い出した。陶器の椀と食用油と布の切れ端とでできた、いい加減な燭台のおかげだ。

 バールはまず厨房と食料貯蔵庫に向かい、火種と油や何かの瓶を取り出してきた。旧式のオーブンの中から熾火が出てきたときには、僕は思わず「どうやって?」と尋ねてしまった。

 バールの返事は勿論、「馬鹿か」だった。


「調理用の炭が残ってた。火を熾すのは、根気がありゃ枯れ木一本でもできる。そのくらい考えつけ」


施設バストゥル》の優等生は鼻持ちならない。


「クロトから何か聞き出せた?」


 僕が話を変えると、バールは首を横に振った。


「収穫なしだ。何か事故があって、あのレアルって女、元から調子が万全じゃなかったらしいが……。それにしても、躰の中から化物が出てくるなんてことは想定してなかったようだ。クロトの奴、出てくるところを自分の目で見てねえしな。訊いても何のことだか話が通じなくて、要領を得なかった。とぼけてたとは思えねえ」


 心が沈んだ。

 もしかしたら、クロトが他の方法を知ってるんじゃないかと期待していた。祈っていた。どんなに困難でも、他に、レアルを救う方法があれば。


 ――ぼくの躰を、喰べさせて。


 パム。

 そんなこと、僕にはできない。

 パムは僕の腕の中で、死んでしまったようにぐったりとしていた。咳き込む力もないようだった。

 血と汗と吐いたもので汚れた、端整な貌。流しの水を出し、できる範囲で洗ってやった。

 ――ありがとう、イサ。

 いつもの優しい声は、もう聞こえては来ない。


「これからどうする?」


 青白いパムの貌を拭ってやりながら、バールに尋ねてみた。

 燭台を準備していたバールは、振り向いて、意外な答えを返してきた。


「逃げる」


 僕は瞬きをした。

 逃げる? どこへ?


「逃げ回るんだよ。《城》の中を」


 言って、バールは数本の鍵を手の中で鳴らしてみせた。僕がクロトから取り上げて、その辺に放り出していたものだ。拾ってきていたのか。


「こいつがあれば、敵を足止めして時間を稼げる」

「それはそうだけど……その先は? いつまで逃げ続ける気?」


 永遠に追いかけっこをしているわけにはいかない。いつかは限界が来る。

 バールは笑った。初めて、十九歳の少年のように。

 そして、僕に、あることを告げた。

 僕はまじまじとバールの顔を見返した。そうか。確かにそれなら――。


「生き延びられるとまでは言わねえが、少なくとも、この《城》は終わる。最初に考えてたとおり、封鎖が解けた隙を突いて、脱出を試みる。それまでは、足止めをくらわせながら逃げ回るさ。正面切って殺り合うよりゃましだ」

「分かった。外に出られるようになるまで、どのくらいかかると思う?」

「ここの地理次第だな。おまえ、壁に上ったとき、場所が分かるようなものを見なかったか?」

「暗かったからね……。遠くに、灯りは見えたけど」

「見えた? 意外と近いな。最寄りの町がそれだとすると、通信機の中継域がシアン五二だったから……せいぜい明日の朝ってところじゃねえか。それまで逃げ回ればいい」


 僕は頷いた。バールの仕掛けはうまくいくだろう。明日の朝まで逃げ延びれば、生きて《城》を出られる可能性が生まれる。

 だけど、心は晴れなかった。明日、《城》の終わりとともに訪れるもののことを考えると、暗い手に躰をつかみ取られるような気がした。

 ……レアル。

 彼女は、死ぬかもしれない。今度こそ、完全に。

 僕はパムの躰を抱え直した。

 どうすればいいか分からなかった。パムを「あれ」に喰わせれば、レアルはおそらく、元の彼女に戻る。そうすれば、一緒に逃げることができるかもしれない。勿論、危険だけれど、レアルなら。あの、健康で、すばしっこい彼女なら。

 だったら、パムは?

 喰わせることなんか、できない。

 だとしたら、僕はレアルを見捨てるのか。この《城》とともに死なせるのか。そして、パムを連れて逃げるのか。この、虚弱な、死にかけた友達を。

《城》から逃げ出すときには、きっとまた戦闘になる。「あれ」を相手にするのとはまた別の種類の、激しい、難しい戦闘だ。

 その中を、僕は、パムを守って逃げ延びることができるだろうか。

 パムは――僕がどれだけ必死に守っても、もう、保たないんじゃないのか。

 吐き気がしそうだった。

 レアル。パム。

 どちらを選んでも、どの道を進んでも、なくしてしまう。

 どうすればいいか、分からない。





 雨のやまない庭園を伝って僕たちは移動した。パムを風雨に晒すのは気が進まなかったけれど、仕方がなかった。

 明日の朝まで。それまで逃げ続ければ、生きて《城》を出る機会が来る。

 それまでに、僕は決めなければならない。パムを守るのか。レアルを助けるのか。

 選択は重すぎて、どこまでも沈んでいきそうになる。灰色の雨の中を、冷たく、重く。


 庭園から東棟の渡り廊下に入り、僕たちは一旦休憩をとった。よく考えてみれば、僕は朝から何も食べていない。床に座ると、疲労と空腹で躰から力が抜けそうになった。

 バールに言って、東棟一階の空き部屋に場所を移した。西棟五階のエタの部屋と同じで、僕もいくつかの空き部屋に食料を備蓄してある。ここもそのひとつだ。

 どんな状況でも、食べておかなければならない。死んだチシャの教えを僕は守った。

 交代で休むことにして、先に僕が食事をとった。と、戸口で敵の気配を窺っていたバールが、ふと眉を寄せた。


「おまえ、負傷してるんじゃねえのか。血の臭いがする」

「そういえば、さっき翼を引っかかれたけど……。でも、深手じゃない。もう痛くないよ」


 バールは怪訝な顔でこちらへ来て、僕の後ろに回った。

 突然、翼の間を指で荒っぽく擦られ、僕は悲鳴を噛み殺した。声を上げそうになった理由の大部分は、単に驚いたからだ。以前はあんなに他人に触られるのがいやだったのに、今はもうなぜだかあまり気にならなかった。


「やめろよ。くすぐったい」

「うるせえな、妙な声出すんじゃねえ」


 バールは唸り、手を放す。振り向くと、まだ腑に落ちない顔があった。


「何?」

「いや。皮膚には血がついてるのに、傷が見えねえ。羽毛のせいか?」

「そうだと思う。翼のこの辺だったから」


 僕は翼の根元を手探りして、それからゆっくりと羽ばたかせてみた。

 大丈夫だ、動かせる。痛みは全くない。


「うん、問題ない。大丈夫だ」

「そうか」


 バールはそれ以上追及しなかった。食事を終えた僕と見張りを交代し、床に腰を下ろす。負傷した左脚を伸ばし、傷を検分した。

 ベルトを探り、小さな瓶を取り出す。金色の液体が入っているのが見えて、僕は「《恵みレキ》?」と声を上げた。


「ああ。ちびにもらった」


 答えて、バールは小瓶の蓋を取った。清涼な花の香りが漂った。

 パムは埃っぽい寝台の上で眠っている。意識は戻らない。僕は瓶の大きさを横目で測った。バールの治療を優先するのは戦略的にやむを得ないとして、残った分をパムに回せるだろうか?

 闇色の眸が、僕の考えを読んだようにこちらを見た。


「ちびに戻してやれる分は、ねえぞ」

「少しもない?」

「ない。やっても無駄だ」


 素っ気なく言われて、腹が立った。言い返しかけた僕をバールは遮った。


「元々、呼吸器も消化器もまともに機能してねえ。いちど躰の中のレキが必要な量を下回れば、三日程度で駄目になる。助けようとしたって無駄だ、放っといてくれ、と――ちびが自分でそう言っていた」

「いつ?」


 僕は息を呑んだ。パムは、僕にはそんなこと一言も言っていない。


「おまえが壁から撃ち落とされて寝てた間にな」


 バールが答える。

 ――昨日まで死にかけてたとは思えねえ。

 ――上腕骨三本、肋骨四本、臓器損傷が二日でこれか。大したもんだ、《恵み》ってのは。

 目を覚ましたときに言われた言葉が蘇った。

 それは目が眩むほど高いところから突き落とされる感覚を伴っていた。パムは僕の怪我を、レキを分け与えて治した。きっとかなりの量だっただろう。つまり、その分、パムの躰の中の蓄えが減ったということだ。


 


 僕が負傷したのが、ちょうど三日前だ。


 全身の血が真っ黒に染まるような気がした。

 時が来たからなんかじゃない。パムが死ぬのは、僕のせいだった。

 敵から逃げ回っている最中でなければ、叫んでいたかもしれない。

 どうして。

 どうして、自分が死ぬと分かっていて僕を助けようとしたんだ。そんなことをされたって嬉しくない。僕が絶対に喜ばないことを、パムだって知っているはずなのに。

 バールは言った。


「解れ。ちびがそうしなけりゃ、おまえが死んでた」

「でも」

「ちびの意志だ」


 その声音で、いつか覚えた疑問が解けた。

 パムは、どうやって《城》の王に言うことを聞かせたのか。

 敬意だ。

 自分の生命と引き替えにしても僕を治すというパムの決断と意志に、バールは敬意を抱いていた。だから、パムを自分と対等なものとして扱っていたのだ。

 小瓶の口から黄金色の蜜が滴り、抉られた脚の上に落ちた。赤い肉の見える傷口を覆っていく。朱と金が混じる。

 物憂く視線を落として、雨音の中でバールは口ずさんだ。


「……『餓え渇く獣の如く、我等は御言葉を求める。恵みの声を聴くとき、この身の苦しみは永久とこしえに去る。歓びに満ちて我等は歌う』……」


 いつかシアの額に見たように、傷は塞がっていった。バールが唱えたのは、パムが祈るときの古語を訳した一節のようだった。パムが使い方を教えたに違いない。僕が眠っていた間に、そうしたのだ。

 いなくなる準備をしていた。僕の知らないところで。

 パムの躰を揺さぶって、目を覚まさせたかった。勝手にいなくなるなと叫びたかった。怖かった。その命が消えるのが。


 ようやく気づいた。今まで、僕はパムを守っているつもりだった。世話をして、生かしているつもりだった。だけど違ったのだ。

 守られていたのは、僕の方だった。

 僕はパムに、ありがとうと言ってほしかった。微笑みかけてほしかった。僕がずっと欲しかったものを、パムは与えてくれた。何の見返りも求めずに。苦しい息の下で、生きて、僕の傍にいてくれた。


 ――僕には、パムを死なせることはできない。絶対に。


 バールが何か言った。

「え?」と僕が聞き返すと、もう一度言い直した。


「蝶だな。ちびは。ぎょっとするような躰の中に、羽を隠し持ってる」


 蝶、か。

 バールにしては珍しい詩的な感傷を、笑う気にはなれなかった。確かに、パムは蝶に似ている。躰は幼虫みたいなものだし、汚れた布にくるまってぐったりしている今は、さしずめ蛹だ。

 傷がすっかり癒えると、バールは保存食を口に突っ込み、噛み砕きながら、パムを抱え上げた。


「そろそろ、行くぞ。のんびりしてると、エタの鼻で匂いをたどられる」


 パムを連れて行くのか。

 僕は勿論、そうするつもりだったけれど、バールが足手まといを許すとは思わなかった。意外な思いを隠せなかった僕に、バールは言った。


「どうせ、こいつを見捨てろったって、おまえは聞かねえだろ?」


 本当にそれだけかと思ったけれど、僕は何も言わずに、王の後に続いた。



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