第38話 私は、消え去る
その後、意識が戻る時間はほとんどなくなっていった。
イサと逢い、言葉を交わしたことで、残っていた僅かな意志も使い果たしたようだった。自分の躰が動いて《城》に入り、協力者と打ち合わせを行ったことや、大猿と蝙蝠の《悪霊》憑きを殺したこと、次の目標へと向かったことを、夢の中の出来事のようにうっすらと思い出す。
頭痛をかき分け、努力して記憶をたどれば映像は浮かぶ。ただ、自分がそれをしたという感覚はやはりなかった。
この躰は、誰のものか。
私のものだ、とマレンが笑う。
いや、違う。彼女は声を上げて笑ったりなどしない。
しないでしょう、マレン?
問いかけても返事はない。当たり前だ。マレンは死んだ。ユーゼルが殺して、私に喰わせた。
死んだ──でしょう? マレン?
答えはない。私は怯える。マレンの声が笑う。恍惚として笑う。響き渡る笑い声が私を呑み込む。
意識が途切れ、目覚めると、私は中央棟と呼ばれる建物の三階にいた。イサの声が聞こえた気がして、廊下に出た。
吹き抜けの大広間に、《悪霊》憑きたちの姿が見えた。ほとんど全員が扉の傍に集まり、中央にイサともうひとりだけがいる。戦っていた。
殺される。イサが。
私はとっさに手の中にあったものを投げつけた。それは狙ったとおりの位置に落ち、彼を刺そうとしていた武器を止めた。
投げた後で、子供の死体だったことに気がついた。
イサがこちらを見上げた。黒鷲の《悪霊》憑きの、鋭く怜悧な瞳が、私を射貫いた。
彼の頭の上から、死体を投げ下ろした私を。
……ああ。終わりのときが来た。
肯くように、私は片手に残っていたものを持ち上げて見せる。いま投げた死体の首の部分。そういえば、私が自分の手で折り取ったのだった。そのはずだ。
イサ。見える?
これが私。あなたが知らなかった、本当の私。
どうか、裁きに来て。あなたの手で。殺して、止めて。
そんなことはさせない、と誰かが言う。
殺してやる。
皆、殺してやる。この躰にはできる。私にはできる。
新しい躰。新しい《定義》。増殖。成長。次々に書き加える。もっと多く。もっと、もっと多くの。
誰にも殺させない。傷つけさせない。
誰にも、私を。
──
躰の内側を手が這い回る。私の腕を持ち上げ、脚を動かす。
下の広間にいる子供たちを殺しに行くのだと分かった。この躰にはできる。
逃げて。私にはもう止められない。皆、殺される。
痛みが頭の中を食い荒らす。視界が血の色に染まる。
私は、墜ちた。
躰の内側の手に動かされ、《悪霊》憑きたちを殺していく。
歌が聞こえた。かぼそい歌声はいくつも
《ゆりかご》が悦ぶ。貪欲に《定義》を啜る。読み耽る。写し取る。私の躰を書き変え、私でないものに変えていく。
私は誰か。この躰は、誰か。
何がこの躰を動かしているのか。
扉を開く。壁を越える。
まだだ、と高ぶった声が呟く。まだ殺していない獣がいる。まだ識らない《定義》がある。
一旦休んで──それから、また《城》の中に戻らなければ。
壁の外の暗い地面に降り立った私を、切り裂くように声が呼んだ。
「レアル」
イサ。
私の中にいるものが、憎悪の視線を向けた。
煩い。黙れ。私に干渉するな。書き変えようとするな。
この躰を奪うものは、許さない。
足の下で兵器が作動するのが分かった。イサを攻撃しようとしている。
他人のもののようにうまく動かない喉を振り絞って、私は叫んだ。
「来ないで。……来ないで、イサ」
目の奥に激痛が走った。闇が立ち上り、私を捕らえて貪り喰った。イサを狙う赤い光が瞼の裏から消え失せ、ねっとりと重い暗黒が絡みつく。
私に向かって手を差し伸べたイサの姿が、闇の向こうに呑まれた。
壊れてしまう。頭が痛い。私は、壊れてしまう。
どうして躰が動いているのか。血の臭い。なぜまだ戦っているのか。
イサは無事なの?
姿が見えた気がして、私は閉じ込められた躰の奥から手を伸ばす。
手首をつかまれた。
浮かび上がり、息を吸う。躰が傾き、抱きとめられる。固い胸に頭がぶつかった。
──イサ?
深い夢の中に閉じ込められたようだった意識が、ほんの少し水面に顔を出した。イサがいる。私の手首をつかみ、強く私を抱いていた。
彼は無事だ。安堵が私を包んだ。指先を感じる。私の髪に触れてくれる。
それとも、これも夢なのか。
目を閉じかけたとき、イサが尋ねた。
「どうして僕たちを殺しに来たんだ」
静かにその声は私を刺した。
頭を掻き回すのとは別の痛みが胸を満たした。望んだことのはずなのに、ひどく悲しい。彼はもう知っている。私が彼らを殺したと知っていて、なぜと尋ねている。
私は、あなたの敵だ。
イサも苦痛を感じているのかもしれない。声が懇願するようだった。
「答えて、レアル」
痛みが胸から全身に広がる。躰が軋む。
不意に声が遠ざかった。意識が再び沈む。
書き変わろうとする躰を、私はすがりつくように止めた。駄目。殺さないで。
離れなければ。
頭痛がまた高まる。頭の中だけではない。躰まで侵食し、食い荒らす。どこまでが躰で、どこからが痛みなのか分からない。
放して。イサ。
お願いだから。
「──どうして?」
強く私を抱きしめてイサが尋ねる。
答えたかった。私の口で。私の言葉で。
許さない、と誰かが言った。話すことは許さない。言葉は《定義》を書き変える。心の奥底に刻み込まれ、存在を変えていく。
私たちは、血と言葉とでつながる。
この躰は、この躰が覚えた《定義》は、《ゆりかご》は、誰にも渡さない。
憎悪に満ちた誰かが、私の躰に手をかける。痛みがますます酷くなる。右肩──何かが書かれようとしている。
私は最後の力を振り絞り、変わっていく躰をイサから遠ざけた。
喰い破られる。
私は、内側から喰い破られる。
肉が裂けた。その上の皮膚も。骨が砕け、血管や神経がちぎれる。その音が聞こえる。痛みなんて言葉では言い表せない。私の中に書き込まれたものが、私を完全に書き変える。
マレン。
既に彼女かどうかもはっきりしないそれに向かって、私は呼びかけた。
貴女ですか。マレン。
貴女が、私を喰べるのですか。
罪悪感や空想ではなかった。貴女は、ここにいる。私の躰の中にいる。少しずつ私の躰を書き変え、腫瘍のように成長し、奪い取った。
あの日、ユーゼルを使って私に貴女の欠片を喰べさせたときから、そのつもりだったのですか。
それとも、最初から?
最初に会った春の日から、貴女は病んだ自分の躰の代わりに、私の躰が欲しかったのですか──?
静寂が近づいてきた。私は闇の底へ沈む。もう二度と浮かび上がれない。ばらばらに壊れ、砕け散り、意味を成さない破片となって沈む。
私は、消え去る。
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