第4話 紅い涙
クロトが扉を押し開けると、先ほどの話のとおり、そこは台所だった。
食堂の大きさにふさわしい規模の調理場。むしろ、厨房と呼んだ方がしっくりくる。
人の姿はない。鍋、皿、匙など、埃の積もった調理器具や食器が放置されている。
中央に据え付けられた調理台を回って、僕たちは右手の奥にあった階段を下りた。当然のような顔で、カナもついてくる。
狭い段を下り切ると、突き当たりの壁の左側に、食料庫の入り口があった。
――大きい。
クロトが壁のスイッチをひねると、うすぼんやりとした明かりの中に、予想を超えて広い空間が浮かび上がった。
走っていきたくなるくらい奥まで、太い柱が整然と立っている。その間に背の高い棚が並び、一段一段に袋や、箱、樽、瓶が詰め込まれていた。
僕は何も言えなかった。これほど大量の食べ物を見るのは初めてだ。
カナも同じ心持ちなのか、口を半開きにして見入っている。
「……何なんだ、ここは。軍の隠し倉庫か何か? 何でこんなに食料があるんだ」
へっ、と背後でクロトが笑った。
「世間てもんを知らねえな。あるところには、あるんだよ」
偉そうな口調だったけれど、僕が振り向くと、途端に口をつぐむ。おどおどとした眼は、僕の機嫌を損ねたかどうか窺っているようだった。
馬鹿らしい。いちいち腹を立てたりなんかするものか。
僕はクロトの横をすり抜けて、地下室を後にした。
今更のように空腹を感じたけれど、まだ食料には手をつけない。
安全だと確信が持てないうちは口にしたくない。もしも軍の備蓄を勝手に食べたと咎められたら、殴られるくらいでは済まないからだ。
今は、ここに食料があるということだけ分かれば充分だ。
食堂を抜けて僕が回廊まで戻ると、両腕に食料を抱えたカナが追いついてきた。なぜか、クロトまで。
二人とも、遠慮なく好きなものを取ってきたようだ。
見つかったらどうなるか考えないのだろうか。《施設》育ちじゃない奴というのは、皆、こんなに警戒心がないのか。
「──ね、イサは、どこから来たの?」
片手で器用に缶詰の取っ手を引いて開け、中の魚の身をつまみながら、カナが尋ねた。
「《バストゥル》」
短く僕は答えた。
「
「軍の訓練所じゃねえか」
きょとんとしたカナの後ろで、クロトが納得したように呟いた。喉を押さえている。
カナが慌てて振り向いた。クロトと僕とを交互に見て、うろたえる。
「え、そうなの? イサ、軍のひとなの?」
「そうだね。──でも、《狩り》の奴らとは違う」
要らない敵意を持たれたくなかったから、僕は釘を刺した。
僕たち《施設》の子供は、ある種の素質を買われて集められ、三年間、訓練を受ける。
国のどこへでも行って、銃を持って敵と殺し合えるようになるための訓練だ。
そのことを誇りたくはないけれど、それでも、町で弱いものいじめをして憂さ晴らししている連中と一緒にされたくもない。
僕がそういったことをかいつまんで説明すると、カナは困ったような顔で首を傾げた。
「ふうん。……でも、そしたら、イサは何でここにいるの? その、《施設》にいないといけないんじゃないの? 逃げたの?」
「まさか」
思わず口調が強くなった。
脱走は重罪だ。見つかって連れ戻されれば、皆の前で脚を切り落とされ、処刑される。
僕がいた三年近くの間にも、何回かそういうことがあった。
両足を切断され、自分の血にまみれて泣き叫んでいる子に、他の子供たちでとどめを刺した。そうしろと命じられた。
武装した監督官たちの薄ら笑いと、値踏みする目。僕たちは争って武器を突き立てた。自分は逃げたりなんかしない、忠誠心に溢れた素晴らしい兵士になれると示そうとして、必死だった。
血と
長い、長い悲鳴。
今でも簡単に、掌に手応えを思い出せる。泣き叫ぶ子の躰を抉った刃の、ぶつりと突き刺さる感触を。
僕は口を閉じ、回廊を進んだ。
角を右に曲がると、突き当たりに木の扉が見える。最初の広間に戻る扉だ。
カナも質問をしづらくなったのか、僕のことはもう尋ねず、代わりに、訊かれてもいない自分の生い立ちを喋っていた。
北部の小さな町で生まれたこと。
五歳で病気にかかり、棄てられたこと。
あちこちの街を転々として生き延び、ここに来るまでは、首都の外れに住んでいたこと──。
適当に相づちを打って聞き流しながら、僕はまだ確かめていなかった扉を開けてみた。
向こう側には、まっすぐに廊下が伸びていた。少し考えて、そちらへ進んでみることにした。
このまま回廊を進んでも、広間へ戻るだけだ。それより、他の場所に何があるか調べる方がいい。
カナとクロトも、なぜか、そのままついてきた。
廊下の途中で、右手に階段があった。
試しに二階へ上がってみる。左右にまた廊下があり、扉が並んでいる。
扉の間には、燭台を模した照明。電球が切れていたり、不規則に瞬いているところもあるけれど、歩くのには支障ない。
扉のひとつが半開きになっているのを見つけ、中を覗いてみた。
廊下から差し込む光に、古びた部屋が浮かび上がった。
簡素な家具が一揃い。入ってすぐの右手には、タイル張りの狭い浴室。ごく小さな一人部屋だ。
廊下に面した扉は、室内から施錠できる。
思わず「やった」と声が漏れた。これは凄い。自由に鍵を掛けられる部屋なんて初めてだ。
今夜は、ここで眠ろう。家具も床も埃をかぶっている。他の誰かが使っている様子はまるでない。一晩もぐり込んで寝るのは、大きな問題にはならないだろう。
カナとクロトも、それぞれに歓声を上げていた。
二人とも、普段暮らしている場所よりもここの方が立派らしい。カナは孤児、クロトは薬の売人だというから、いい暮らしをしていないことは想像できる。
カナはさっそく椅子の埃を払ったり、寝台の上で跳ねてみたりしていたけれど、やがてふいと姿を消したかと思うと、声だけを廊下から投げてよこした。
「全部、おんなじみたいだねぇ」
僕とクロトが廊下に戻ると、カナは隣の扉を開けて首を突っ込んでいた。
覗いてみると、確かに隣室も同じ間取りで、同じような家具が同じような場所に置いてある。
正面の壁には窓があり、分厚いカーテンが掛かっていた。
室内に入ってカーテンを引くと、埃っぽい空気が揺れた。
消えかけた夕暮れの光が、部屋を褪せた色に染めた。
僕は窓の向こうを見つめた。
カナとクロトも来て、僕たちは何となく並んで外の景色を眺めた。
庭が広がっていた。さっきの中庭じゃない。建物の外にある庭園のようだ。
雑草が生い茂った花壇。野放図に枝を伸ばした木々。彫刻や噴水。昔は白く輝いていたかもしれない石材は、雑草に絡みつかれ、苔も生え、緑の翳(かげ)に侵されている。
荒れた屋内にふさわしい、廃墟じみた光景だった。
そうして、その庭園の果てに、森が広がっていた。
庭の奥から突然、急峻な崖が立ち上がり、切り立った山肌を緑の植物が這いのぼる。崖の上は鬱蒼と茂った樹木に覆われている。森林の黒い輪郭が、紅い空を背景に、重く佇んでいる。
巨大な影絵のように広がった森は、まるでこの建物と庭とを、世界の全てから遮断しているように見えた。
──閉じ込められた?
不条理な怖さがこみ上げて、僕は自分で自分の腕をつかんだ。
もう二度と、僕が知っている世界には戻れない気がした。この建物と庭園から一歩でも出れば、闇色の樹々に呑み込まれ、押し潰されて、暗い森の胎(はら)の中へ溶かし込まれてしまう──。
鳥肌の立った僕の腕を、カナもクロトも笑わなかった。二人とも不安そうな顔をして、押し黙っていた。
「……あれって、《森》?」
カナが言った。
「分からない」
僕は答えた。
北部の《森》だとすれば、変異種の獣が出るかもしれない。
間に崖があっても、翼がある種類なら関係がない。庭には侵入するだろうし、下手をすれば建物の中にも入ってくる。
カナは表情を曇らせて呟いた。
「ここ、危険なのかな」
「分からない」
「逃げた方がいいのかな」
「分からない」
「ここがどこか、教えてくれる人、いないのかな」
「分からない。……何も」
僕に言えることは、それだけだった。
やがてゆっくりと夜が満ちて、僕とカナとクロトは、それぞれ二階の好きな部屋を占領することにして別れた。
後から知ったことだけれど、広間にいた他の子たちも何人かは同じようにしていた。
ほとんど誰もが状況を理解できず、不安で、少しでも安心できる場所を探していた。
この日は、まだ。
次の朝がどんなふうに明けるのかも分からないまま、僕たちは、眠りについた。
夜半に僕は夢を見た。
きっと夢だったのだと思うけれど、分からない。半分は現実で、半分は夢かもしれない。現実と夢の境界は曖昧で、頭の奥で融け合っている。
埃っぽい古い寝台の上で、僕はいつものように横向きに丸まって眠っていた。
ふと、目が覚める。
カーテンを開け放った窓から月光が差し込み、部屋を照らしている。
わけもなく、外の様子を確かめなければいけない気がした。
冷えた鎖の重さに抗い、躰を起こす。素足で絨毯を踏んで窓辺に立つと、汚れたガラス越しに、月明かりの庭園が見えた。
見つめていると、樹々や彫刻の影に半ば溶け込んで、何かが動くのが目に入った。
風だ、と最初は思った。夜風に樹の枝がざわめいたんだと。
でも、そうじゃなかった。
じっと見ていると、噴水の傍の小径に、白い姿が現れた。
女の子だ。
細い腕と脚が、踊るように月光と夜闇の間を過(よ)ぎっていく。長い髪やゆったりとした衣服が、躰の動きにつれてなびいた。
まるで庭の一部みたいに、彼女は月の下で銀色に包まれていた。
顔立ちははっきりとは分からなかったけれど、僕と同じ年頃らしく思えた。
飾りのない白い服を着て、真夜中なのに肩掛けひとつ羽織っていない。綺麗な長い腕が、月光に透けるようだ。
僕の見ている前で、彼女は夜の庭園を横切っていった。
どこかへ行こうとしているというより、ただ大気に漂っているように見えた。躰の存在を感じさせない、儚い足取り。
その姿が樹々の陰に消える寸前、銀の髪が揺れて、白い貌(かお)が振り向いた。
そのとき見たものが、胸に消えない欠片を残した。
頬を伝う、ふたすじの雫。
顔の細部が見えなくても、涙を零しているのは、はっきりと分かった。
足を止め、僕のいる建物の方に顔を向けて、彼女は泣いていた。
紅く。
白い貌の上を、真紅の滴りが這い落ちていく。
両眼の下から顎へと、縦に。まるで殺されたばかりの獣の臓物みたいに、鮮やかに紅く。
頬を切り裂かれていくようにも見えたけど、そうじゃない。
彼女の瞳は血を流していた。
真っ赤な血の涙を流して、僕を見つめていた。
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