第3話 カナとクロト

 誰かいる。

 緊張で背が強張った。

 鈍い物音と、言い争う声。片方は少年。もう片方は女の子らしい。


「返せって言ってんだろ! カナ!」

「やだよ。食べ物を独り占めするのは、犯罪なの!」


 鎖が鳴らないように片手で押さえ、僕はそろそろと扉に躰を寄せた。

 隙間から覗き込むと、予想どおり、十五、六歳くらいの少年と少女がいた。

 少年の方は、先程、僕より先に広間を出て行った奴だ。

 女の子の方は知らない顔。円い大きな眼が猫に似ている。カナというのが、名前か。

 部屋は食堂らしかった。重たげな長方形の食卓が四つ並び、揃いの椅子が周りを囲んでいる。どこもかしこも埃まみれのようで、中にいる人間が動くたびに、灰色の屑が舞う。

 並んだ椅子の間で、カナとやらと少年は、つかみ合いの喧嘩をしていた。

 カナが爪の長い手に何かの缶詰を握り、精一杯腕を伸ばして、少年の手から遠ざけて守っている。少年の方はカナの腕をつかみ、力尽くで食料をもぎ取ろうとしている。


 どうする?


 入っていくか、それとも無視して次の扉へ進むか。決断する前に、カナの方が、目ざとく僕に気づいた。


「ちょっと、そこのキミ! 見てないで助けてよ!」


 唇を尖らせる。

 僕は一瞬だけ考えて、鎖から手を離し、食堂の中に踏み込んだ。


 親切心を起こしたわけじゃない。

 カナの方が「勝ちそう」だったからだ。


 彼女はすらりとした脚に膝のすり切れたズボンを穿いて、上半身に男物のシャツを引っかけている。その服の上から見る限り、しなやかで丈夫そうな躰つきをしていた。《施設》育ちほどではなくても、体力も腕力もあるに違いない。

 それに対して、少年の方は、枯れ木のような腕をしている。男女差を考慮して、腕力ではかろうじて互角としても、耐久力の点でどうみても不利。

 ──それに、僕がカナの立場なら、急所に蹴りを一発くれてやるだろう。

 それで勝負がつく。

 でも、彼女は助けてくれと言った。

 強い方に恩を売れるのは、悪いことじゃない。

 かわいそうだけど弱いものには犠牲になってもらうことにして、僕は軽く躰を沈めた。

 この程度の相手、鎖を背負ったままでもどうってことはない。

 床を蹴って駆け寄り、距離を詰める。カナに振り回され、少年の背がこちらを向いた瞬間を狙って、後ろから手で首をつかんだ。

 気管を指先で圧迫する。

 どこを押さえれば痛いかは、分かっている。

 ぐぇ、と少年が瀕死の蛙のような悲鳴を上げた。カナの腕をつかんでいた手が離れ、苦しげにばたつく。僕はその手首も捉え、ねじり上げて固定した。


「腕と首と、どっちを折られたい?」


 耳元に囁きかけてやると、少年は息を呑み、暴れるのをやめた。恐怖のせいか、痛みのせいか、痩せた躰が震え出している。


 うん。このくらいでいいか。


 そう思ってカナの方へ視線を移すと、意外な反応が返ってきた。

 ぽかんとしていた彼女は、目が合った途端、慌てたように飛んできて、少年の首をつかんでいる僕の腕にしがみついたのだ。


 ──不意打ちだった。


全身を嫌悪感が貫いた。


 腕に触れてくる指の感触が、問答無用で、暗く腐敗した記憶を引きずり出した。


 痛みと、衝撃と、肉を打つ音と。

 嘲弄。動けない躰。ぬるぬると滑る汗の感触に、血にも似た生臭いにおい。

 嘔吐のように恐怖がこみ上げる。


 囚われ、嬲られる躰を棄てて、心が逃げようとする。

 遠くへ。できるだけ、遠くへ。


 だめだ!


 奥歯を強く咬んで、耐えた。

 他人の前で、感情を顔に出すな。動揺を悟られてはならない。焦りを、恐怖を、見せてはならない。


「放してあげてよ。クロト、死んじゃうよ……!」


 わめくカナに、形ばかりの笑みを向けてやる。


「君が助けてって言ったんだけど?」

「ここまでしてなんて言ってない!」


 泣き出しそうな顔で抗議してくる。ずいぶんと身勝手だ。

 深く息を吐き、僕は少年の躰から手を放すと同時に、カナの手を振り払った。

 勢いでカナは床に尻餅をつき、手から缶詰が飛んだ。

 自由の身になると、クロトという名らしい少年は振り向き、何かわめきながら僕の顔めがけて拳を突き出した。

 さっきまで震えていたくせに、負けっ放しでいるのに耐えられない性格なのだろうか。


 かわいそうに。


 素人くさい攻撃をかわし、手首をつかむ。力を込めて動きを封じ、わざと平坦な口調で言ってやった。


「暴れるなよ。言うことを聞かないなら、今度は殺す」


 クロトは青白くなった。


「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい」

「……まあ、いいけど」


 見事な平身低頭っぷりだ。負けん気が強いくせに、自尊心を殺すことはできるらしい。あまり見かけない才能だ。


 手を放し、転がった缶詰の方に目をやった。

 途端に、ぴょこんとカナが跳ね起き、缶詰に飛びついて確保する。僕を見上げた目は、ふうっと毛を逆立てて威嚇する猫のようだった。


「おい、やめろよ」


 慌てた声音でクロトが言った。怯えた目でちらちらと僕を見ながら、渡せ、渡せ、と手振りでカナを促す。


「取り上げやしないよ。条件次第だけどね」


 埃の積もった食卓に腰かけ、僕は二人に苦笑を向けた。

 脅した後は、少し甘い顔をした方がいい。

 重要なのは、言うことを聞けば痛い目に遭わずに済むと学習させること。――そう習った。

 クロトが血色の悪い顔に警戒を浮かべて、「条件?」と聞き返す。僕は頷いた。


「質問に答えてくれれば。──君たちは、ここに住んでる子?」

「違う」

「目が覚めたら、あの大っきい部屋にいたの。キミもじゃないの? その鎖、見覚えある。ね、あそこで寝てた子でしょ、キミ」


 カナが口を挟む。最初の広間のことを言っているらしい。答えずに僕は続けた。


「じゃあ、ここに来る前は、どこで何をしてた? どうしてここに連れて来られたんだ?」

「知らないよ。普通に街にいただけ。でも、《狩り》の奴らに捕まっちゃったんだ。

牢屋に入れられて、もうダメかなと思ったんだけど、目が覚めたらここにいたの。

クロトもそうだよね? クスリ売ってて捕まったんでしょ?」


 クロトが首を上下させる。

 《狩り》の奴らというのは、治安維持部隊の俗称だ。街中を巡回して、名前のとおり、治安を乱す者を捕まえる。治安を乱すかどうかは、専ら見た目で判断されるというので、悪評が高い。

 缶詰を取り上げられないと分かった途端に敵意を喪失したのか、カナは機嫌よく喋った。


「あたし、けっこう早く目が覚めたんだ。

それでね、退屈だったから、他に起きてた子と話したり、その辺うろうろしたりしてたんだけど。

ここに来たら、クロトがいてね。話しかけたら、何かこそこそしてて。

よく見たら、缶詰持ってたの。それで」


 とりとめもなく続きそうな話を僕は遮った。


「君たちは前から知り合い?」

「ううん。初めて。名前、さっき聞いた」


 あっさりとカナは否定した。

 嘘をついているようでもないが、意外だ。飛んできてクロトを庇ったりなんかするから、元々の友人同士かと思ったのに。

 困惑した僕に、カナは逆に尋ね返してきた。


「ねえ、ここ、どこ? あたしたち、何でここにいるの?」


 全く、いい質問だ。僕は正直に首を横に振った。


「分からない。だから君たちに訊いてる」

「そっか。あたしもみんなに訊いてるんだけど、誰も知らないんだよね。ほんと、何なんだろ。

──あ、そういえばキミ、名前は? あたし、カナ。この子、クロト」


 カナはずいぶん人懐っこい性質たちらしい。簡単に名乗って、にっと笑った。

 名前? そんなものを訊かれたのは、いつ以来だろう。

 胸を羽でくすぐられるような感じがした。僕は少しだけ笑い返して、名乗った。


「イサ」

「変わった名前だね。外国の人?」

「違う……と思う」

「『思う』?」

「覚えてないんだ。昔のことは。……それより、その缶詰なんだけど」


 カナの手の中の食料を指す。


「それ、どこで見つけたの?」


 今度は、答えたのはクロトだった。答えなければまた痛い目にあわされると思ったのだろう(よかったね正解だ)、慌てた手振りで食堂の奥を示し、「あの扉」と言う。


「向こうに台所があって、地下室に行けるんだ。でかい地下室。色んな食い物がいっぱい積んである」

「台所か地下室に誰かいた?」


 念のため尋ねると、クロトは「いや、誰も」と首を横に振った。

 嘘ではないだろう。食料を管理する大人がいたら、見るからに鈍くさいクロトが缶詰をくすねられるとは思えない。

 しかし──廃屋に、そんなに大量の食料?

 それとも、廃屋に見せかけているだけで、本当は何かに使われている建物なのか。

 だとしたら、何に?

 色々な可能性が頭を駆け巡ったけれど、確信を持てるものは何もなかった。

 情報が少なすぎる。実際に行ってみるしかない。


「クロト。案内してくれる?」


 もし嘘だったらどういう目にあうか分かるだろうな、という意味を口調に込めて僕が尋ねると、クロトよりも先に、カナが「いこういこう!」とはしゃいだ声を上げた。


「イサ、すごいね。クロト、あたしが訊いても、全然教えてくれなかったんだから」


 無邪気に感嘆する。

 僕は天井を仰いだ。クロトが素直に質問に答えるのは、さっき僕が脅したからだと分かっているのだろうか。そこまでするなと止めたくせに。

 クロトは顔を強張らせていたけれど、大人しく食堂の奥の扉へと歩き出した。

 僕はその後に続いて、警戒を緩めずに、簡素な扉に近づいていった。


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