第15話 たったひとつ残った躰さえ

 リグの情報は正しかった。

 西棟の最上階、細く長く延びた廊下の奥から四番目の部屋。小さな覗き屋と別れ、行って確かめてみると、扉には確かに鍵がかかっていた。

 《城》に来て最初に確かめて回ったときは、どうだっただろう。

 思い出せないけれど、開いていたんじゃないかと思う。庭園に面した南側の部屋は、鍵がかかっていない方が多い。

 硬い手応えだけを返してくる扉に手を当て、僕は思案した。


 ──「何で閉まっちゃったの?」


 エタがそう言った気持ちも分かる。《城》には鍵が一本もない。だから、施錠するには、室内から扉の金属のつまみを回すしかない。

 鎖された扉は、在室のしるし、だ。

 そのはずなのに、扉に耳を当ててみても、室内は静まりかえって人の気配がなかった。隣の空き部屋に入り、壁越しに物音を聴いてみても同じだ。

 誰もいない。

 だったら、どうして鍵が閉まっている?

 窓から出て行ったのか? 五階の?

 そういえば、エタが死んでいた離れも同じだった。裏口の鍵がかかっていたから、僕は中にまだ誰かがいると思い込んだ。だけど、入ってみたら、誰もいなかったのだ。

 離れの方は説明がつかないわけじゃない。あの小さな建物は、東棟から渡り廊下でつながっている。僕が破ったのは裏口だ。渡り廊下から入る表口は、別にある。がらくたの山の隙間を抜ければ、表口から出ることもできる。

 誰かがエタを殺し、室内から裏口の鍵をかけ、表口から出て立ち去った。そう考えれば、何もおかしくない。

 でも、だとしたら、裏口の扉やすぐ外についていた血の跡は何だ?

 何かが鎖された扉を透り過ぎて、庭園の奥へと出ていったように思えてならなかった。エタの血を浴びた何か。厭な夢のようにつかみどころのない、正体の知れない何か。


 ──いや、やめよう。


 首を横に振る。考え込んでも答えは出ない。いま目の前にあるものを、僕にできる方法で調べるしかない。

 まずはこの開かない扉だ。どうにかして中に入れないだろうか。エタが隠していたものが何なのか知りたい。誰かから奪い取ったものか。羨まれるようなものか。エタを殺してでも取り上げたいと思わせるほど、価値のあるものか。

 力ずくで侵入するとしたら、扉を破るか、窓から入るかだ。五階という位置を考えると、扉の方がいい。けれど、離れの扉とは違って、風雨に晒されない屋内の扉は丈夫だ。僕の体格と力じゃ、体当たりで破るのは難しい。下手をすれば肩の骨を折る。

 道具を使って、壊すかこじ開けるかしたい。

 問題は、道具になる物が見つかるかどうかだ。斧、釘抜き、ねじ回し、鋸。そんなものが《城》にあるなら、僕はとっくに閉ざされた扉や窓を破って脱出口を作っている。

 他にいい物はないだろうか。例えば、何か薄くて固い金属製のものを扉の隙間に突っ込んで、やすりのように鍵を削ってみるとか。

 地下室を探せば、役に立つものが見つかるかもしれない。

 僕は扉の前を離れ、中央棟の地下に足を向けた。テラはもう来るなと言ったけれど、あの暗い廊下には、テラの部屋以外にも物置のような小部屋が並んでいる。他の部屋で探し物をするくらいは構わないだろう。


 階段を下り、一階の廊下を抜けて、回廊に入る。

 いつのまにか雲が晴れ、眩しい夏の日差しが中庭に降り注いでいた。深い緑に繁った葉陰には、黄色い果実が鮮やかに見え隠れしている。あとでパムに持っていこうか。確か、あれは食べられるはずだ。

 樹の足元には見知った顔があった。クロトとカナだ。

 カナは少しは落ち着いたのだろうか。庭園から戻ってきたところらしいクロトが、緑の葉を渡して喋っている。夢がどうとか、眠れるとか。

 クロトの奴、弱っているカナに何を売りつけるつもりだ。

 僕は回廊から仕切り壁越しに身を乗り出して、声をかけた。


「カナ。変なものに手を出すと、後がつらいよ」


 二人は揃って僕の方を見た。影の中にいるせいで、表情がよく見えない。カナの指がほどけ、握っていた葉がぱらぱらと落ちた。

 と、クロトが意外な台詞を吐いた。


「な? イサも、やめとけって言うだろ」


 ほっとしたような、困ったような声音。落ちた葉を屈んで拾い集めながら、懇願するように言った。


「おまえはこういうの、手え出すなよ。頼るなよ。あんまりタチのいい変異種、ねえしよ。ほんと、よくねえから」

「……そっか。ごめんね、クロト。ありがとう」


 カナは素直に頷いた。クロトの傍を離れ、僕の方に来る。

 日差しが眩しすぎて、額に落ちた影が暗かった。僕に笑いかけたけど、やっぱりまだいつものカナじゃない。

 うつむきがちな円い眸に、僕はできるだけ柔らかく話しかけた。


「君の方から欲しいって言ったわけ? 危ないな。抜けられなくなるよ?」

「ごめん」


 カナは仕切り壁の途切れたところから回廊に入ってきて、両手を僕の方に差し伸べた。ゆっくりと、とてもゆっくりと。たぶん僕を怯えさせないように、精一杯気を遣って。

 そうして長い時間をかけて僕の腕に触れて、そうっと自分の腕を絡めてきた。

 ここまで躰が触れ合うのはやっぱり気持ちが悪かったけれど、僕は我慢した。今のカナは、ひどく脆く見えた。好きにさせる以外に、どうすればいいか分からなかった。


「……前に、一緒に住んでた女の子が」


 カナは聴き取りづらい小声で言った。


「薬、よく使ってた。お茶にして飲むの。お客さんが来ない日に。飲まないと、眠れないって言って。飲めば眠れるんだって……」


 消え入りそうな言い訳。

 カナの同居人は、やがてお茶を飲んでも眠れずに、昼も夜もなく悪夢を見続ける羽目になったことだろう。あるいはその前に、絶え間なく薬を買い続ける金を支払えなくなり、クロトをもっと凶悪にしたような連中に、自分自身を代金として売り渡したか。

 ──自分自身を。

 違う、そうじゃない。僕は気づいた。



 僕が気づいたことを、カナは悟ったようだった。諦めたように微笑んだ。


「……からだを売って生きてる子は、きたないって、イサも思う?」


 薬に依存した同居人は、きっとそう思っていたのだろう。客が来て、相手をさせられているそのとき以上に、仕事のない夜に思い知らされたのかも知れない。誰も傍にいなくて、気を紛らわせてくれる苦痛もなく、たったひとつ手元に残った躰さえ、汚され傷つけられた「不良品」だったから。

 悪い夢に堕ちる薬に頼って、自分の姿を忘れなければ眠れなかったのだ。その薬の味も客に教えられたのか。それとも、商品が逃げないようにするための「飼い主」の方針だったのか。


 そして、その同居人とひとつ屋根の下にいたカナも、同じ苦痛を知らずにいたはずはなかった。


 《城》に来る前の生活について、カナは僕に話さなかった。どこに住んでいたか、そこがどんな街だったかはよく喋るのに、自分がその街でどうやって生きていたかは言わなかった。誰と一緒に住んでいたのか、毎日何をしていたのか、食べるための金をどうやって稼いでいたのか。

 知る必要もなくて、尋ねずにいたけれど、そういうことだったのだ。

 共感と同情と憐憫とで吐き気がしそうだった。分かるけれど、分かりたくなかった。

 他人事のように悲しむことができたらよかったのに。

 だけどカナは僕に近すぎて、そんなに綺麗に感情を整理することなんて、とてもできなかった。

 混濁して重く沈む気持ちを、僕はカナの腕と一緒に自分から引き剥がした。


「汚くなんかない」


 柔らかい手首をつかんで言う。


「仕方ないんだ。力のある相手には逆らえない。何をさせられたって」


 虚しい言い草だと自分でも思った。仕方なかろうが何だろうが、行われたことに変わりはない。結局、汚いと言っているのと同じだ。

 僕たちは踏みにじられて、二度と元には戻らない。

 取り返しのつかない傷。解けない呪い。躰に、魂に刻み込まれた定義。

 どうすればいいのか分からなかった。カナは不安定で、僕にしがみつきたがっているようで、受け止めようとすれば僕も立ってはいられない気がした。


「──ひとりでいない方がいいよ、カナ」


 僕は言った。


「誰かと一緒にいなよ。パムの部屋にいれば、後で僕も行くから。女の子の方がいいなら、チシャか、フロルとか。大人しいし、親切だから」

「イサは?『後で』って、まだエルリやエタのこと嗅ぎ回る気?」


 言葉尻をとらえて突いてくる。カナは神経が鋭敏になっているみたいだ。

 不安がらせたくはないけれど、いい嘘も思いつかず、僕は頷いた。


「対策を考えないと。エタを殺った奴の次の標的が僕だったら、黙ってやられるわけにはいかないから」


 予想に反して、今度はカナは泣きわめかなかった。唇を咬んでうつむく。

 それから顔を上げて、唐突に言った。


「じゃあ、あたしも一緒に行く」


 僕は面食らった。どうしてそうなる。

 カナは両手をぎゅっと握っていた。僕の手や腕を捕まえる代わりに、そうしているみたいだった。


「怖いの。誰といても、いやなことばっかり考えちゃう。あたしの知らない間に、イサが……」


 声が途切れる。

 そういうことか。

 ため息をついて、僕は頷いた。仕方ない。カナがいても問題はないだろう。とりあえずは西棟五階の扉をこじ開けたいだけだ。足手まといにはならない。むしろ、作業を手伝ってもらった方がうまくいくかも知れない。


「分かった。好きにすればいいよ」

「うん」


 僕が答えると、カナはようやく、いつものカナらしく笑った。

 カナと回廊を歩き出しながら、僕は晴れた中庭に目をやった。クロトもまだそこにいた。白い日差しを避けて、樹の下に立っている。真昼の影が顔に濃く落ちて、僕を見ているのか、カナを見ているのか、判別できなかった。

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