第14話 覗き屋

 レアル。


 いつかと同じ、濃い戸惑いが胸に広がった。

 以前に庭園で会って以来、僕は一度もレアルの姿を《城》で見かけていなかった。他の子のように居場所を探るのもなぜかためらわれて、レアルは僕にとって、解けない秘密のままだった。

 ようやく足を動かすことを思い出して、僕は花壇に入っていった。

 レアルは首を傾けた。確かめるようにもう一度僕を見て、呟く。

 つるぎ、と聞こえた。

 聞き間違えたかと思って、僕は白い美しい貌を見返した。剣。古風な武器だ。儀礼以外の場ではもう使われない。勿論、僕も握ったことはない。


「剣?」


 聞き返すと、レアルは小さく頷いた。細い指で僕の胸を指して、言った。


「パムの。……いつも守ってるのに。どうして、今日はひとりなの」


 剣という言葉に護衛係の意味があることを、二秒ほどかけて僕は思い出した。古式ゆかしい南部の方言。レアルは南の都市の出身のようだ。


「パムは少し体調を崩してる。部屋にいるよ」


 僕が答えると、レアルはまた頷いた。そのままふわりと踵を返して立ち去ろうとしたので、僕は思わず「待って」と声をかけた。

 何のために呼び止めたのか、自分でも分からなかった。胸の中の戸惑いは濃すぎて、苦い。息が苦しくなる。

 レアルが振り向くのが怖いような気がした。でも、まだ行ってほしくない。

 僕は懸命に言葉をたぐった。


「レアル。……気をつけて。特に、夜は。ひとりで出歩かないようにして。危ないから。人が死んだ……」


 振り向いたレアルは、驚いたように目を見開いていた。

 僕が彼女を気遣う言葉を発するなんて、全く期待していなかったようだった。まるで絶滅したはずの生き物を見るような目。とっくの昔に死に絶えたと思っていたものに、奇跡的に出会ったかのような。

 その瞬間に、ひとつの謎が解けた。


 僕は鏡を覗き込んでいた。顔や躰じゃない、心のかたちを見せる鏡を。

 レアルは僕と同じだ。

 誰からも遠く距離を置いて、拒絶する。他人を信じない。優しい体温を受けつけない。

 パムに魚や肉が食べられないように、僕たちは注ぎ込まれたものを吐き戻す。どんなに必死に望んでも、心がそれを呑み込めない。

 ただ、パムだけが例外だ。常に半ば死んで半ば生きている、此岸の穢れから解き放たれた、脆く儚い生き物だけが、僕たちの心を温める。

 だから僕は、手を伸ばさずにはいられない。

 夢をみる。

 僕と同じ冷たいものが、隣に来てくれたら。

 もうひとつの冷え切った手が、僕の手をとってくれたら──。


 息が零れた。

 日差しは翳っていた。風もなかった。レアルは動くことを忘れたように立ち尽くしている。花の中の姿に向かって、僕は夢遊病者みたいに一歩踏み出した。


「エタって子を知ってる? 中央棟の二階に住んでいたんだけど……今朝、噴水の傍の離れで死んでいた」


 レアルが僕を凝視する。死んだ、と唇が動いた。薄い紅い唇。

 僕は頷く。また一歩、近づく。


「エタはエルリっていう女の子を捜してた。そのせいで殺されたのかどうか、まだ分からない。でも、他にもエルリを捜している奴はいる。可能性はあると思う」


 手が届く距離まで来た。お互いの息づかいさえ感じられそうなほど近い。

 夕闇色の瞳が僕を見上げる。ほんの少し、躰が震えている気がした。ほっそりとしたレアルの躰。

 レアル、と僕は呼んだ。


「君は? エルリを知ってる?」

「……知らない」

「そう」


 片手を上げる。レアルは逃げない。怯えているのか、そうでないのか分からない。

 そうでなければいい。

 華奢な腕に、軽く触れる。レアルの頬にうっすらと血の色が上った。白い肌は磁器のように冷たく見えるのに、仄かに温かく、柔らかい。


「気をつけて。僕が知っているのは、このくらいのことだけど」


 レアルは身動きをしなかった。僕の手や、声を、躰に感じているようにも見えた。

 それとも僕の方だろうか。レアルの肌や、息や、温度を感じているのは。

 微かな声でレアルが言う。


「……パムが羨ましい」


 瞳を伏せて、苦しそうに囁いた。


「私にも、剣がいればよかった」


 躰の奥で、あの昏い熱が動いた。

 震えそうになる指先を、僕は下へ滑らせて、細い指に触れた。レアルが熱に怯んだように瞼を閉じる。

 しばらく考えて、やっと僕は、他の誰に向かっても言えそうにない言葉を口にした。


「欲しい?」


 声が掠れた。

 頷いてほしい。言ってほしい。


 けれど、不意にレアルは躰をぐらつかせた。

 激しい発作に襲われたような痛みの表情。僕の手を振り払い、後じさる。


「……誰か来る」


 低い呟きが零れた。

 僕は周囲を見回し、物音を聞いたけれど、近づいてくるものの気配は分からなかった。

 視線を戻したときには、レアルはもう以前のように虚ろな横顔で、僕に背を向けかけていた。前には気づかなかった、赤錆色の長い傷跡がうなじに見えた。


「レアル」


 振り払われた手を僕はもう一度伸ばしたけれど、間に合わなかった。レアルは見た目に似合わないあの敏捷さで、生け垣の破れ目をすり抜け、緑の壁の向こうへ姿を消した。

 追いかけようと生け垣の後ろへ回った僕は、中央棟へ戻る小径に人影を見つけた。

 こちらへ歩いてくる少年。レアルはその足音を聞きつけたのだろうか。

 近づいてきていたのは、クロトだった。いつものように不器用な歩調。両手に緑の葉を握っていた。変異種の草を集めているらしい。勿論、昼間から夢を見られる成分が入ったやつだ。

 僕に気づくと、クロトは手にした草の匂いを嗅ぐのをやめ、怪訝そうな顔で言った。


「何だよ。女にでも振られたみてえな、しけたつらしやがって。薬が欲しけりゃ売ってやるぞ? あんまり、いいの、ねえけどな」


 僕は仕方なく笑った。

 もしも今、何をしてもいいのなら、思いきりクロトに八つ当たりしたかった。






 パムの部屋に戻ろうかとも思ったけれど、僕はまた寄り道をすることにした。

 まだ何の情報も手に入れていないし、「しけた面」を友達に見せるのも真っ平だ。

 雑草に侵略された石畳の道をたどり、中央棟にいちばん近い、背の高い木の根元で足を止める。

 見上げると、繁った枝の中に、小さく黒くうずくまった子供がいた。

 捜していた相手だ。リグは相変わらず、うまく隠れている。特別に気にして捜さなければ目に留まらない。


「リグ。いい話をしようか?」


 声をかけても、枝の上の少年はこちらに顔を向けなかった。

 それでも僕を。表情や身振りを観察して、近づいても殴られないかどうか考えているのだ。

 ややあって、安全と結論が出たらしかった。小さな影が幹を伝い下りてきた。

 地面に立ったリグはひどく背が低く痩せていて、目が異様に大きい。窃盗団の見張り役をやらされていた頃に比べれば、《城》ではずいぶん栄養状態がよくなったはずだけど、もう躰がこの形に歪められてしまっている。

 躰を形作る定義自体が変化してしまえば、治ることはない。


「何」


 ぶっきらぼうに尋ねたリグに、僕は「交換」と答えた。

 テラを頼れないなら、情報を持っている他の子に訊くしかない。

 今のところ、敵である可能性が最も高いのは、バールだ。昨日からの彼の動きを教えてくれと言いたいけれど、そういう訊き方ではリグは喋らないだろう。当たり前だ。僕とバール、どちらがより怖いかといえば、バールに決まっている。

 別の方向から攻めることにして、僕は質問を投げた。


「最近、エタを見た?」


 知りたいのは、死ぬ前のエタの行動だ。エタは何をしていたのだろう。どうしてエルリを捜していたのだろう。それが分かれば、手がかりになる。


「何と交換?」


 ぼそぼそとリグは言った。話せる情報があるらしい。

 リグの定義の特徴は、眼だ。見た目にも明らかに「普通」の範囲を逸脱しているその眼は、不気味なほど広い視野を持っている。リグはいつもどこか木の上や物陰にいて、目立たずほとんど身動きもせずに、傍を通る子や手近な窓の中にいる子を見ている。そうやって知った情報を他の子に喋り、便利な道具でいることで身を守っているのだ。

 覗き屋のリグ。軽蔑と嫌悪と引き替えに、もっと酷い目にあわされる運命を避けている。

 さて、こちらは何を差し出そうか。僕はリグの顔の高さまで身をかがめ、言った。


「クロトが危ないものを持ってる」


 さっき邪魔された腹いせに、商売をやりにくくしてやろう。売ってやるとか何とか言っていたけれど、どうせ《城》では誰も金なんか持っていない。皆に情報が広まれば、欲しくてたまらない奴は力にものを言わせる。バールは薬には手を出していないように見えるけれど、セトやディナは、《城》に来てからしばらく禁断症状で呻いていたはずだ。クロトの奴、せいぜい絡まれて困ればいい。

 リグはこくりと頷いた。「交換」と言う。

 取引成立だ。元々、リグは殴られたり脅されたりしないで済めばいいのだから、情報の価値についてうるさいことは言わない。


「エタは──死んだ。殺された」


 小声で僕に告げる。短い沈黙。

 驚愕を期待したのだとしたら、がっかりさせたに違いない。

 心なしか沈んだ口調でリグは続けた。


「東棟の離れ。知ってた?」

「知ってた。リグも見た?」

「ん。臭いがした。見に行った。おれの他にも、気づいた奴、いると思う」


 あの惨状を見たのに落ち着いている。小さかろうが弱かろうが、リグも犯罪を手伝って生き延びてきた子供だ。色々なものを目にした経験があるのだろう。


「昨日より前は? エタが何をしていたか分かる?」


 僕は改めて尋ねた。リグは素直に答えた。


「何をしてたかは知らない。見たことはある。何日か前」

「どこで?」

「西棟。五階。ここから見て、左の四番目の部屋。カーテン閉めてるところ、見た」


 つまり、窓の外のリグに覗かれないようにしていたわけだ。秘密めかしている。

 エタはその部屋で何をしていたのだろう?

 もう少し情報を手に入れたい。


「カーテンを閉められたんじゃ、リグはお手上げだね。仕方ないな」


 役に立たない、というように、大げさに肩を竦めてやる。

 リグの弱点はこれだ。相手の気に入る情報を提供できないと、不安になる。不安になると、失点を取り返そうとして口が軽くなる。

 小さい子の弱みにつけ込むのは汚いけれど、僕だって身の安全がかかっている。手加減はしない。

 リグはやっぱり崩れた。痩せた手を振って、急いで口を開いた。


「でも、エタは後ろが甘い」

「後ろ?」

「ん。……窓の外から覗かれないことばっかり考えてる。だから、後ろ。一昨日、西棟で後をつけた」


 外から覗くのではなく、建物の中で背後から覗こうとしたわけか。面白い発想だと思ったけれど、まだ表情に出ないように気をつけて、僕は興味のない口調を装って尋ねた。


「それで? 何か分かった?」

「分かった」


 リグは深く頷いた。


「エタ、あの部屋に何か隠してた。部屋の前で困ってた。扉、蹴っ飛ばして、独り言。『何で閉まっちゃったの?』『これじゃ、出せないじゃない』──って」

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