第22話 死闘

  12


 それはどういう光景だっただろう。もしも、外の世界の「健康な」人々が、僕たちを見たなら。


 両手を口に当てて立ち竦んだシアの肌は緑色で──ブロッシュに突き飛ばされて怪我をしたとき、地下の灯りの下で、あまりにも毒々しかった緑色──、皮膚から生え出た静脈がそのまま躰中を覆う蔦の葉脈へと変じていく。ディナと違って日向を好むのも、ひどい少食なのも、躰が植物と一体化しているからだ。

 扉の横にいるリリカは半人半馬。まだ何が何だか分からずにいるダウの顔の横には、太く渦巻いた野牛の角。

 ディナは小さく悲鳴を上げ、蛇の鱗をまとった両腕で自分の躰を掻き抱いた。


 そして、バール。

 易々と人を殴り殺してのける、漆黒の羆の右腕を持つ《悪霊》憑き。


《城》の王は、らしくもない間違いを犯していた。カナの死体を見るなり、思わずというふうに闇色の眸を滑らせ、カッチェを見たのだ。

 カッチェがほとんど狐の頭部を狂ったように横に振った。端正な少年の顔は目の周りにしか残っていない。

 ガナリも木トカゲの爪の生えた両手を振って後ずさり、ハクがネズミの足をもつれさせて尻餅をつく。


《城》の王と臣下たちの動揺を目にして、兎の耳のミレが混乱した声を上げた。

 戸惑いは瞬く間に皆に広がり、恐れに変わり、やがて恐慌にまで膨れ上がった。


 誰が最初に逃げようとしたのか分からない。叫びが、いななきが湧き起こった。

 大扉の傍にいたダウやリリカが扉に躰をぶつけ始める。小柄なミレや躰の強度がないシアが逃げ惑う。

 足と爪と蹄とが床を打ち、激しい音を轟かせた。


 ──僕たちは皆、《獣》だった。


《悪霊》憑き。病にかかり、躰が人でないものに書き変わる。

 見捨てられた子供たち。家族も友達もなく、守ってくれる人も助け合える相手もいない。出来損ないだの人間の屑だの言われながら、地を這って生き延びる。

 この《城》に来てようやく安息を得た、病んだ幼獣たちだった。


 僕も──。


 皆と同じように、僕も叫んだ。

 耳を聾するばかりの咆哮の中で、死んだカナと僕とから逃げていこうとする仲間たちに向かって叫んだ。

 背中で鎖が軋んだ。傷んだ金具が悲鳴を上げた。

 躰で荒れ狂う力が、背に凝縮する。

 重く冷たくのしかかり押さえ込んできたものに、抗う。


 鎖が、切れる。


 打ち鳴らされる警鐘のように、金属の断末魔が響いた。

 割れた金具が弾け飛ぶ。重い鎖の輪がうねり、石の床に落ちた。


 黒い風切り羽が空を裂く。窮屈に折り畳まれていた骨が、展開する。

 夜闇の色が広がるのが、見えなくても分かる。

 鷲の爪と嘴の代わりに、短剣を構えて。


 僕は──背に漆黒の翼を持つ《悪霊》憑きの僕は、敵に向かって地を蹴った。





「下がれ!」


 凄まじい一喝をバールが放った。

 僕に向けてじゃない。逃げ回り、他の子に押されて僕とバールの周りに踏み込もうとした子たちに対してだ。

 叫ぶと同時に右腕を振るった。黒い毛皮に覆われた羆の前肢。その先には鋭利な爪が光り、僕が突き出した切っ先を弾きそらした。

《城》の王の声には、まだ皆を服従させる力があった。口々にわめいて逃げ出そうとしていたガナリやハクやディナが立ち止まった。彼らが急いで下がると、他の小さな子たちも従った。

 広間の中央に立つバールを境にして、皆が大扉の方に集まり、中庭側にひとりだけ立つ僕と向かい合う。

 僕は翼で空を打って飛び下がった。バールは僕の動きを目で追いながら、雷鳴に似た低い声で指示を飛ばした。


「狼狽えるんじゃねえ。作業を続けろ! ──誰も、こっちには来るな!」


 王の命令だ。

 操られたように皆が動き始めた。カッチェが床に投げ出されていた重厚な書き物机に飛びつき、引きずる。ダウが慌ててカッチェに手を貸し、力を合わせて、机を大扉に叩きつけ始めた。他の子たちも一度は取り落とした棒や、家具を拾い、扉にぶつけ出した。

 バールが皆を広間に集めていたのは、大扉を壊すためだったのか。

 混乱と恐怖に押し出されるように手を動かしている皆を一瞥して、僕は何の感情もなく理解した。

 出口。《城》から出て行けるみち

 僕だけじゃない。今は皆、必死にそれを求めている。もしかしたら、バールも。


 ──逃がすものか。


 僕は短剣を握り直した。

《城》の王は臣民を一人残らず労役へ追いやってしまい、自分はベルトからナイフを抜いていた。獣に変異していない左手で柄を握り、僕に対峙する。

 獣の右腕を躰の前に。躰を斜めにし、凶器を握った左手を引いて、僕の視界から遠ざける。

 僕が近づけば爪に捕らえ、動きを止めた上で刺し殺すに違いない。


 やれるものならやってみろ。


 叫びが喉からほとばしった。

 身を低くし、刃を前に構えて、敵めがけて突っ込む。

 正面からの突進をバールが右腕で薙ぎ払おうとする。広げた翼で急制動をかけ、爪をかわす。躰を沈め、敵の側面へ。向きを変えて襲いかかってくるバールの爪を片翼で払いのけ、肋骨の間を狙って斬り上げる。バールが跳び離れる。蹴りつけられた石の床が高く鳴った。

 追撃する。バールのナイフが僕の短剣を受け止める。振り下ろされた爪が翼に食い入り、突き出した刃がバールの鎖骨の上を浅く裂く。

 咆哮。血が流れる。

 叩きつけられる凶器と、腕と、爪と翼。

 殺し合う。

 一撃でも多く──苦痛を。この痛みと憎しみを。

 人工の凶器と変わらないほど鋭利なバールの爪が、脇腹を掠めた。崩れた体勢を立て直す暇もなく、白刃が突き出される。

 引き裂かれた翼が重くなる。背中に灼けつく痛み。長い間鎖に縛られていたせいで、付け根が傷んでいるようだ。

 ちぎれ落ちそうな翼を羽ばたかせて、僕はもう一度敵から距離を取る。

 闇色にひかるバールの眸に刃を突き立てることしか考えられなかった。


 思い知らせてやる。カナが味わった苦痛の、恐怖の、何百分の一かにしかならないとしても。

 分からせてやる。躰に刻みつけて、血の味で教えてやる。

 何があっても倒れるものか。


 バールが荒い息をついた。翼に邪魔をされて思うように武器が届かず、僕の移動速度や攻撃の方向の不規則な変化もうっとうしいようだ。

 だけどまだ大した傷は負っていない。持久力では、おそらく僕が不利。

 再び攻撃を仕掛けようとした瞬間、バールが動いた。

 左手の凶器が光る。避けようとして、僕は躰を捻った。

 ──読まれた。

 漆黒の長身が踏み込んでくる。獣の爪が肩に食い込んだ。

 肉が裂け、激痛が躰から力を奪った。

 押さえ込まれる。撥ねのけられない。


 殺される。


 ナイフの刃が迫った。

 感じたのは恐怖よりも怒りだった。僕は折れそうなほど強く奥歯を咬み、短剣を突き出した。


 殺してやる。

何もできないまま死んだりなんかしない。絶対に抉り取ってやる。眼球を貫いて、その奥の脳髄まで。

 僕が死ぬときには、おまえも同じだ。





 柔らかく重いものが、刃にぶつかった。

 バールの爪が肩から離れ、痛みとともに生温かい血が噴き出して躰を濡らした。短剣に突き刺さった重いものに引きずられて、僕は床に膝を突いた。

 バールも片膝を床に落としていた。僕を刺すはずだったナイフが何に邪魔されたのか分からないでいる。声もなく、両眼を見開いて「それ」を見つめていた。

 僕たちは奇妙に、鏡に映ったように対称に、互いの武器を「それ」に突き立てて、動くことを忘れていた。


 血がまだ流れ出している。「それ」の表面を染めて流れ落ちる。


 僕の短剣やバールのナイフの刺し傷じゃない。

 胸から腹を断ち割った裂傷だった。体温を感じるほど新鮮なはらわたが、それ自体別の生き物みたいに傷口から這い出していく。

 上方から僕とバールの間に割り込むように落ちてきて、僕たちの攻撃を遮った「それ」の正体を、僕はやっと認識した。

 すぐに分からなかったのは、頭部がなかったから。人間の五体の形をしていなかったからだ。

 半ば二つに裂かれて、首と手足を折り取られた、子供の胴体。

 バールもほぼ同時に同じ認識に至ったようだった。


「リグ──?」


 いったいどこで見分けたのか、低い声で呟く。死体から武器を引き抜き、立ち上がる。一歩退いて僕から離れ、手足のない躰が落下してきた方向を振り仰いだ。

 吹き抜けの三階。露台のように広間を見下ろす廊下。

 ガラスの仕切り壁の向こうに、人影があった。


 血飛沫に染まった、白い躰。

 服も、ほっそりとした手足も貌もすべて。長い美しい銀色の髪も。

遠目にも顔立ちが見分けられた。二度と忘れることのできない瞳。黄昏の紫を帯びた、夕闇色の。

 まるで僕の知らないところでたった今まで戦い続けていたかのように、全身に血を浴びて、レアルが立っていた。



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