第23話 蹂躙
レアルの手がつかんでいるのは、リグの頭部に違いなかった。
絶叫の形に歪んでいても、見間違えるはずがない。巨大に発達した蜻蛉の複眼。高い木の枝に座ったまま、顔の向きも変えずに地上の相手を観察できる、虫の視界。
僕とバールの見ている前で、レアルはゆっくりと首を掲げた。見ろと言うように。殺した獲物を示す狩人のように。
バールが唸った。上階を仰いだ顔が色を失っていた。
「てめえか。
僕の血で汚れた爪が
バールはもう僕の方を見なかった。僕も、いま殺し合いを再開しようとは思わなかった。
全身が壊れそうだ。
レアル。そこで、何をしている?
「カッチェ! ガナリ! ハク! ──階段を塞げ! 外の庭側だ!」
バールの命令が響く。呼ばれた三人が弾かれたように走った。
手下を一方の階段へ行かせ、《城》の王自身も駆け出していた。僕には目もくれずに脇を走り抜け、回廊へ出て行く。広間から近い方の階段を使い、三階へ駆け上がるのだろう。
レアルはひどく虚ろに佇んでいた。指を開き、リグの頭部をぼとりと落とす。
三階と一階の距離を隔てて、束の間、目が合った。
得体の知れない恐怖が僕を捕らえ、動けなくさせた。
褪せた色硝子の夕闇色。もうずっと前に死んでしまった瞳。写真の中の、爆風と瓦礫に圧し殺された子供のまなざし。
《城》の外の世界が、そこに在る。
薄い唇が動いた。
逃げて。
レアルは囁いた。声は聞こえなかったけれど、確かにそう言った。
血と混じって紅に融けた滴が、ふっと目の下を縦によぎった。
逃げて。
赤い手がガラスの壁の
均整のとれた美しい躰。ひとかけらの歪みもない、神様の美術品。
この《城》でたったひとりの、《悪霊》憑きでなかったはずの少女。
細い膝がガラスの上に乗った。病に冒されたように震えながら、レアルは身を乗り出し、高みから躰を投げ出した。
白い輝きが降る。
思わず伸ばした手の向こうで、レアルの血塗れの服が裂けた。照明を乱反射して、銀の光沢が伸びる。骸骨の拳のような骨が開き、骨格を包む皮膜が血臭を孕んだ空気を受けた。
羽の形は、僕の知っているものと同じだった。テラ。地下の暗がりに閉じこもり、人間には聞こえない音を聴いていた、蝙蝠型の《悪霊》憑き。
ただ、形作る物質だけが違う。レアルの背から生え出たそれは、冷ややかな金属の輝きを帯びていた。
禍々しいほど大きく広がった羽が、落下の勢いを殺した。僕の目の前、つい先程までバールがいたその場所に、レアルは獣のように身をたわめて降り立った。
さざめく音と共に羽の形が融け、銀の光の欠片となって散る。
入れ替わるように、膝から下に白銀の装甲に似たものが盛り上がり、頑強な大猿の下肢を形作った。──鉱山の
変化を目の当たりに見ても、彼女が
僕だけじゃない。他の皆も同じだ。
異変にはとっくに気づき、扉を壊す手を止めて振り返っていたけれど、何もできなかった。
バールがいれば手を打ったかもしれない。けれど王は不在だった。立ち竦む臣民を残して、間に合わない戦いに出てしまっていた。
外の世界が、侵略を始める。
戦場の気配が場を満たしていった。
無力感と。潰える希望と。僕たちを自在に蹂躙する巨大なものの。
僕は動けなかった。テラとブロッシュの死に様が、脳裏に明滅した。
レアルは身を翻した。大猿の足が石のタイルを蹴る。服が裂けて露わになった白い背中に、まるで死病のしるしのように、醜い赤錆色の傷跡が広がっていた。
近くにいたシアが最初に犠牲になった。躰につながった蔦を一瞬のうちにつかんで引き剥がされ、全身が裂けた。
レアルの優美な手が緑の返り血を浴びると、手の甲から銀の蔓と葉とが伸び始めた。
大扉に向かって駆け出しながら、レアルは腕を振り、鋭く光る金属の蔓を一閃させた。逃げる間もなく、セトが首を断ち切られた。濁声の、ほっそりとした躰のセト。白鳥の頸と片翼。
蔓の先端はランの胸も貫いた。食虫花の酸性の液を垂れ流す胸。誰を抱くことも、抱かれることもない躰。銀の蔦が引き抜かれ、ランは粘液の混じった血を噴き上げて床に転がる。
真紅と銀が交錯する。全身に新たな血を受け止め、次々に躰の形を変えてレアルが駆ける。
逃げようとしたフロルの花弁まじりの髪に白銀の蔓が絡んで引き寄せ、のけぞった喉を銀の牙が喰い破った。鋭い嗅覚を誇ったエタの、犬の牙。噴出する血と、皮膚からむしり取られて散る緋色の花とを浴び、レアルの肌にも銀の薔薇が咲いた。蕾が次々に生まれて開き、豪奢な鎧のように躰を覆う。
歌のように長く、絶叫が響く。
死に物狂いで大扉に叩きつけたリリカの牝馬の半身が蔓に切り裂かれ、自分の身を守ろうと机を振り回したダウも銀の腕の一振りで払いのけられる。倒れたダウの頭を大猿の足で踏み、耳の上から生えた角をレアルはつかんだ。力任せに引き抜く。ダウの頭蓋骨は卵のように割れ砕け、歪んだ顔面から眼球が落ちた。
鉄の大扉の足元に立つと、レアルは血と灰白色の脳髄に汚れた片手を、黒光りする金属の表面に当てた。
手首から生えていた銀の蔦が霧消する。
ほっそりとした美しい手が扉を押した。
錠が軋む。皆の手をはね除け続けていた金具が、加えられる力に耐えられずに、折れる。
扉が、開く。
外の空気が流れ込んだ。深い夜の闇を帯びて。
凄惨な血の跡を引きずって、レアルは《城》から出る。
突然、躰が動いた。
僕は残った力を振り絞って立ち上がった。自分のものではなくなってしまったような全身に鞭打って、後を追った。
正面玄関の扉の外には、壁が立ち塞がっていた。冷たく重い灰色の壁だ。見上げるほどに高く、どこまでも左右に延びている。
レアルの躰がまた変化した。
腕と脚が白銀の金属を生じ、形を変える。身軽で器用な小猿の手足。節くれだった長い指。エルリ。
再びシアの蔦を片手から伸ばし、先端を壁の上へ投げ上げると、レアルは蔓を伝って壁を駆け上った。
僕も走った。足の下で、同胞たちの血が跳ねた。壊された扉を踏み越え、外へ出る。
レアル。
背中が遠ざかる。灰色の壁の向こうへ消える。外の世界に呑み込まれて、手が届かなくなる。
僕は地面を蹴った。痛みに悲鳴を上げる翼を無理やり羽ばたかせ、跳躍に高さを加える。足りない。灰色の壁を蹴って、斜め上方へ。翼で空を打つ。次は《城》の外壁。もう一度、滑りそうな足で蹴りつけて、さらに上へ。
壁の高さを超えると、初めて《城》の外が見えた。
地表を闇が覆っていた。見渡すかぎり、森。暗黒の夜。遙か彼方に思えるほど遠くの地平に、やっと、仄かな街の灯らしきものが瞬いていた。
レアルは壁の外側の地面に降り立ち、僕を見上げていた。
足元に赤い光が流れている。それは闇の入り口を示す灯火のようにも見えた。禍々しく輝く球体が、円陣を描くように設置されている。
「──レアル」
壁の上に降り立って僕が叫ぶと、レアルは苦痛に満ちた顔をした。僕を憎んでいるようにさえ見えた。
もうひとつの冷え切った手。武器を取り、殺し、歪み、自らも壊れていく躰。
まだ、躰の奥が痛いほど熱い。
レアルは声を上げた。
「来ないで」
足元に流れる光が、炎のように広がった。血に汚れた金属の躰を包み込み、巨人の指のように立ちのぼった。
赤い光に囚われて、レアルは僕の名前を叫び返した。
「来ないで、イサ」
退けなかった。危険だと分かったけれど、僕は壁から外へ飛び降りようとしていた。
レアルがそこにいて、叫んでいる。
光が延びた。
球体から放たれた光芒が、胸を薙ぎ払った。
銃弾の直撃に等しい衝撃。激痛。意識が引き裂かれ、視界が霞んだ。
躰が壁の内側、《城》の中へと傾くのが分かった。止める力が、ない。
地に闇が深く口を開ける。
片手で宙をつかんだまま、その暗い
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