第25話 休戦協定


 飛びかかろうとして、膝が折れた。

 ずっと眠っていた躰が急激な運動に抵抗する。僕がふらついた僅かな間に、バールは攻撃に対処した。一気に走り寄って距離を詰め、左手で僕の両手首を捕らえて壁に押しつける。背中と壁とに挟まれ、翼の骨が軋んだ。


「血の気の多い奴だ。昨日まで死にかけてたとは思えねえ」


 呆れたような声でバールは言った。


「上腕骨三本、肋骨四本、臓器損傷、その他諸々が二日でこれか。大したもんだな、《恵みレキ》ってのは」

「バール。手荒にしないで」


 パムが懇願する。

 痛みを無視して、僕は力一杯身をよじった。膝で蹴ろうとするけれど、躰の距離が近すぎてうまくいかない。手を振りほどけない。

 ありったけの憎悪を込めて敵を睨むと、パムの声が、今度は僕を押しとどめた。


「イサも。待って。動かないで」

「──どうして!」


 僕は怒鳴った。止められる理由が分からない。

 この男は、カナを殺したのに。

 チシャが動じもせずにパムの躰を持ち上げて、僕の目の前に差し出した。金色の眸が僕と視線を合わせて、諭すように言う。


「イサ、落ち着いて。最初に言っておくけど、バールはきみを殺さない。――一昨日の夜、怪我をしたきみをぼくのところへ連れてきてくれたのは、彼だよ」


 何を言われているのか分からずに、僕はパムの眼を見つめ返した。

 そんなはずはない。

 バールは僕を殺そうとしていた。監視し、罠に嵌め、狩り立て、凶器を向けて戦った。

 僕の情報を引き出すために、カナを捕らえて責め殺しさえしたじゃないか。


「……どうせ、情報が目当てだろう。用が済めば、僕だって」


 他には考えられない。

 一昨日の夜、バールは言った。――「てめえが本命か」。

 その視線の先にいたのは、レアルだ。

 胸が軋んだ。

 血に染まったレアル。殺戮される《悪霊》憑きたちの悲鳴。

 バールは、僕が彼女の共犯者だと考えて、尋問するために命を救ったに違いない。死体から聞き出せることは多くない。生きている口の方がずっと雄弁だ。

 ──話すものか。

 奥歯を強く噛みしめた。元々、僕が彼女について知っていることは少ない。けれど、その僅かな情報さえ、一言たりとも話すものか。

 レアルが何であっても、今は関係がない。

 僕はこの男を赦さない。


 パムが困ったように眉を寄せた。


「そうじゃないんだよ、イサ。バールは……」

「話すことなんか何もない! カナを殺した奴に」


《城》へ来て初めて、僕はパムの言葉を乱暴に遮った。


「尋問したければ、やればいい。僕は殺されたって構わない──」


 言い終える前に、口を塞がれた。

 チシャだ。麦粉の保存食を、僕の口に無理やり突っ込んでいた。表情が険しい。


「落ち着きなさい、情報屋。殺されてもいいですって? 誰に治してもらったと思ってるの?」


 鞭で叩かれたような気がした。

 僕のあの酷い傷を治したのは、パムだ。


「……ごめん」


 保存食を何とか噛み砕いて飲み込み、小声で謝る。

 パムはただ微笑んだ。

 チシャが言葉を続ける。


「それから。……カナのこと、あなたが怒るのは当然だけど。でも」


 ──


 と、思慮深い象の《悪霊》憑きは言った。


 一瞬の空白。


 それから、戸惑いが押し寄せ、僕を呑み込んだ。

 僕の手首を拘束している男を見る。

 バールは、何の表情も浮かべていなかった。


「大人しくしてるなら放してやる」


 声も平坦だ。

 パムを見る。《城》に残ったたったひとりの友人は、小さく頷いた。

 僕の表情をどう見たのだろう、やがて、バールの手が離れた。


 僕は痛む手首を押さえ、壁に体重を預けた。背中と壁に挟まれ、圧迫された翼が不快感を訴えた。


「言っとくけど、本当に、バールじゃないわよ」


 食卓の方からディナの声が飛んできた。伏せていた頭を上げ、こちらを見ていた。


「バールにあの子を殺す理由なんかない。──それに、バールはあのとき、広間で、カッチェたちにカナを交代で見張ってろって命令してたわよ。殺すなら、そんな命令しないでしょ。違う?」

「命令をした後はずっと、わたしたちと一緒に扉を壊そうとしていた。殺せなんて言わなかったし、一度も広間を離れなかった。こっそり出て行けるようなときもなかった」


 チシャが補足する。


 嘘じゃない、と理性が囁いた。


 他の子ならともかく、バールが誰にも気づかれずに広間を出入りすることはできなかっただろう。あの夜、《城》の臣民は皆、王に従って動いていた。次は何をすればいいのか、どう動けば守ってもらえるのかと、王の一挙手一投足に注目していたはずだ。

 バールにカナを殺す理由がないというのも、そうかも知れない。カナは山猫の《悪霊》憑きだけれど、バールにとって脅威になるような戦闘力はなかった。仮に情報を搾り取りつくし、尋問の必要性がなくなっても、急いで殺す意味はない。むしろ、人質としての価値を考えれば、当面は生かしておきたかったはずだ。

 つまり──一昨日の夜、ディナがバールの命令を聞いた時点では、バールはまだカナが生きていると思っていた。そして、その後も、カナを殺す機会はなかった。


 バールは、カナを殺していない。


 強く目を閉じる。壁に寄りかかっていなければ、倒れそうだ。

 記憶を辿る。

 そうだ……。一昨日の夜、確かに、僕は見た。カナの亡骸を目にしたときの、バールのあの顔。完全に不意を突かれた驚愕。《城》の王の、初めての動揺──。


「……カッチェとガナリは?」


 やっと出た声は、掠れていた。捕虜をいたぶって、やりすぎて殺したなんていうのは、よく聞く話だ。

 わめこうとした二人の手下を、バールは面倒くさそうな手の一振りで黙らせた。


「こいつらじゃねえ。こいつらには、武器は持たせてなかったからな」

「あの短剣は、おまえのじゃないのか」

「違う。あれは良い獲物だった。あれを持ってたなら、俺は今、おまえと話してねえ」


 意味を理解するのに、三秒ほどかかった。

 ── 一昨日僕と戦ったときに、勝って殺している、と言いたいのだ。

 僕が睨みつけても、バールは気にした様子もなかった。

 口を開いたのは、パムだ。


「イサ。ぼくは、きみに生きていてほしいんだ」


 応える言葉が見つからなかった。

 どんなことになっても、パムは、常に、パムだ。


「バールは、きみが《城》の皆に危害を加えないのなら、協力してもいいと言ってる。きみたちは話をするべきだよ。協力して、生きて《城》を出るんだ」


 今ならそれができる、とパムは言う。お互いの目を曇らせていた誤解と敵意が薄れた、今なら。


「バールも。それでいいでしょう?」


 パムが言うと、バールは顎を引き、軽く頷いた。

 驚いた。

 パムのバールへの態度は、《城》の他の子に対するのと同じだ。要するに、対等。何の恐れもへつらいもない。

 パムらしいと言えばパムらしいけれど、バールもそれを当然のことのように受け容れているのが意外だった。

 バールは人間らしい形をした方の手を軽く振り、食卓を示した。


「話す気があるなら、座れ。――休戦協定といこうじゃねえか」


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