第30話 弔い
結局、その日のうちには、僕はバールを捕まえることができなかった。
《城》の王だった男は生き残った子を全員食堂に集め、自分はその周囲を不規則に巡回して、敵の侵入に備えているらしかった。変異した躰の定義なのか、バールの睡眠時間は恐ろしく短い。戦場では便利だろう。それを羨ましいことだとは、僕には思えなかった。
翌朝は雨だった。霧に似た、灰色の細かな雨。夏とは思えないほど気温が低く、パムはますます体調を悪化させていた。
ひっきりなしに咳き込む友達の躰を布でくるんでやりながら、僕も寒くて落ち着かなかった。翼を出すために服を裂いて着るしかなく、背中はいつも半分以上外気に晒している。ひんやりとした空気が肌を撫でるたびに、震えが躰を走った。
久しぶりに西棟の自分の部屋で休み、僕がパムを連れて食堂へ下りていくと、ほとんど冬眠しかかっているようなディナが片手を上げた。
「バールなら……東棟って……さっき……」
「一人で行った。今、出てったばかりだから、急げば追いつくんじゃない」
チシャが補足する。食卓の上に朝食を準備していた。姉たちの傍で、ミレがおはようと言うように、僕に向かって長い耳を傾ける。
「それとも、イサもごはん食べてから──」
「ごめん。後で。パムの分だけお願いしてもいいかな」
また口に保存食を突っ込まれそうだったので、僕は急いでチシャの腕にパムを押しつけた。
パムは熱に潤んだ瞳でぼんやりと頷いた。
「行ってらっしゃい……。気をつけて……」
両腕にパムを抱き取ると、チシャは「まかせなさい」と言った。
「イサも。後で食べる。絶対ね」
「……はい」
僕は首を縦に振った。
今まであまり話したことがなくて気づかなかったけれど、チシャには不思議な威厳がある。なぜだろう。大したことを言われているわけでもないのに、逆らえる気がしない。
食堂を出て、僕は教えられたとおり東棟に向かった。
回廊から東棟に入って廊下を見渡すと、ちょうど突き当たりの扉が閉じたところだった。エタが死んでいた離れや、その先の別館に続く渡り廊下の扉だ。
バールだろう。僕は急ぎ足に進み、渡り廊下に入った。
廊下の右側は、庭園を望むガラス壁。ところどころに開閉できる部分があり、庭に出る扉の役割を果たしている。離れの表口を通り過ぎたあたりで、バールは庭園に出たようだった。留め具の壊れたガラス板が揺れている。後を追って、僕も霧雨の降る庭へ足を踏み出した。
途端に、風が吹きつけた。
屋内よりも寒い。翼をきつくたたむ。鳥のように胴体を覆えれば暖かいだろうに、肩と腕が邪魔で躰の前面に届かず、いまひとつ防寒の役には立たない。
「バール」
雨の中に佇む後ろ姿を見つけて、僕は声をかけた。
何をしているのかは分からなかった。バールが立っている場所には、一見、数本の樹と荒れた地面しかない。離れと別館との間の、何もない、誰も気に留めないような地面だ。
──いや、違う。
雨に濡れて分かりづらくなっていたけれど、よく見ると、地面に一度掘り返された跡がある。折り取られた枝が三本、僕の腕ほどの間隔を置いて、土に刺さっていた。
バールは僕を一瞥して、前置きもなく言った。
「カナは、ここだ」
僕がついてきたのに気づいていたようだった。カナが葬られた場所を捜していることは、ディナから聞いたのだろうか。突き刺さった枝を指して、「右端だ」と言った。
「端って?」
僕は聞き返した。
掘り返されている面積は広い。枝は三本。 他にも二人、ここに眠っている子がいるのか。
バールは額に張りついた髪を掌で押しのけ、薄く笑った。
「真ん中がハク。左端はヤックだ。……ハクも、自分を刺そうとした奴の隣じゃ落ち着かねえかしらねえが……」
ヤック?
ここしばらく、思い出すことすらなかった名前だった。ナイフ使いのヤック。鸚鵡の冠羽と混じり合った派手な赤毛。嘴と濁声。地下の食料貯蔵庫でバールに叩きのめされて、その後一度も《城》では見かけていない。やっぱり死んでいたのか。
「あんたが墓を作ってやったのか?」
僕が尋ねると、バールは眉間に皺を寄せた。
「馬鹿か。食料の横に放置しとけねえだろうが」
確かにそのとおりだ。でも、中央棟の食料庫からこの場所までは、かなり離れている。バールは死体を担いでここまで運んだのだ。自分が殺した少年の躰を、この誰の目にも留まらない場所に葬るために。
思わず、声が零れた。
「何なんだ、あんたは……」
僕と同じ《
敵を弔えなんて、《施設》では教わらない。
僕だってやらなかっただろう。ヤックの死体なんて、地下の食料庫から運び出して、適当なところに埋めて、二度と顧みなかっただろう。
なのに、あんたは違うっていうのか。
「ハクもあんたなのか。……カナも、あんたが自分で?」
バールは頷きもしなかった。答える必要がないと言うようだった。雨に濡れた貌を片手で拭うと、用は済んだとばかりに歩み去っていった。
取り残された僕は、全身に霧雨を浴びて立っていた。掘り返された地面は濡れて黒く、突き立てられた木の枝だけが、そこに何かがあることを教えていた。
粗末すぎて存在に気づかれないほどの墓所。誰にも邪魔されない眠り。
《城》の王の歓心を買いたい子たちがヤックの墓を貶めることを、バールは案じただろうか。そのために敢えて何もない場所を選び、目立たない墓標を立てただろうか。
まさかそこまでと思う一方で、きっとそうだという気もした。
僕は右端の地面に刺さった枝の前へ行き、片膝をついた。
水を含んだ土の上に掌を置いて、頭を垂れる。冷えた雨滴が全身を濡らして、清めの水のように頭から顎や首筋へと伝って落ちた。
唱えるべき言葉は知らない。《施設》では、祈祷は戦死者を称えるためのものだった。カナは、違う。
――カナ。
僕は呼んだ。
僕は、覚えている。君を見つけたときのあの顔を。必死に叫んで、助けを求めているみたいだった表情を。
たとえ君を殺したのがバールじゃなくても、バールは君を力ずくで踏みにじった。
他の言葉はまだ聞きたくない。バールも、《施設》も、同じけだものだと憎んで、軽蔑していたい。
そうじゃなかったら、どうやって君の苦痛に応えたらいいのか分からない。
僕は間違っていると思う──?
痛みを込めた呼びかけに、答えてくれるものはなかった。
どのくらいうずくまっていただろう。
雨は止み、薄日が差し始めていた。立ち上がる気になったのは、情けないけれど空腹のせいだった。
傷が癒え、疲れも取れた今、躰が栄養を求めているみたいだ。チシャは賢い。僕に必要なものを知っている。約束どおり、朝食をとりに行かなければ。
僕は中央棟の方へ戻り始めた。雨上がりの庭園は静かで、美しかった。雲間から零れる光の下で、樹々の葉や花々が潤み、色彩を増している。噴水の横を抜け、水滴を乗せた藪を回り込む。気温が上がったら湿度が高くなりそうだ。あまり蒸し暑くならなければいいけれど。
木立を抜けて、中央棟のガラス扉が視界に入ったそのとき、足が止まった。
紅い。
半透明のはずの両開きの扉が、紅い。内側から赤黒く濡れ、陽光を浴びてぬめぬめと輝いている。
雨水とは違う粘性を帯びた雫が、磨りガラスの上を滑り降りていった。
血。
それが意味するものは、ひとつしかなかった。
レアルが戻ってきたのだ。
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