第31話 悪夢
16
ガラス扉を開くと、針の生えた手首を踏みそうになった。
全身を切り刻まれた少年の亡骸がある。ハミだ。先端のない腕を庭園の方へ伸ばしたまま、死んでいた。
来る日も来る日も虐められるのに耐えかねて、母と養父をその針で刺し殺したハミ。《城》に来る前は矯正院にいたそうだけれど、今も、人と関わるのが苦手だった。こんな状況でも他の子の近くにいることができなくて、ひとりでいたところを襲われたのだろう。裂かれた首筋からは、まだ血が流れ出していた。
レアルが、殺した──。
揺れそうになる感情を
善も悪もない。殺さなければ、殺されるだけだ。
戦えと命じる声がする。躰が従いそうになる。何も考えず、感じることもやめ、訓練された狗(いぬ)のように敵を殺しに行こうとする。
レアルも、僕と同じだろうか。エタやテラたちを殺し、広間で皆を殺し、今度はハミを殺した。新型の《悪霊》憑き。殺戮する躰。
《施設》の最新の作品は、僕たちを貪り喰って成長する。
敵だ、と暗い声が囁く。
相手は僕たちをためらいなく蹂躙する。――黙ってやられるつもりか?
血溜りを踏んだ足跡が目に入った。殺害者。レアルだ。僕より一回り小さい足跡は、回廊へ戻り、左に曲がって消えていく。その先にあるのは食堂だ。
突然、足跡の行く手から重い音が響いた。
何かが壁に力一杯叩きつけられた音。例えば、誰かの躰が、食堂の壁に。
──パム。
全身から血が消え失せた気がした。
食堂には、パムがいる。
僕は駆け出した。回廊に出て血塗れの足跡を追う。石のタイルの上に、赤い道標。レアルの足跡は、思ったとおり、食堂の扉の中へ入っていく。
また重い物が転がる音。激しい、短い咆哮。衝撃。破壊音。
開けっ放しの扉から、床にぶちまけられた血が見えた。
食堂の惨状は、まるであの広間の再現のようだった。赤黒い池の中に倒れている躰。喉笛を切り裂かれ、噴き出す動脈血で赤く染まった狐顔。カッチェだ。食卓を挟んだ向こう側、庭園に出られるガラスの引き戸の前には、ガナリらしきものが転がっている。切断された四肢が飛び散り、何がどこにあるのかも分からない。
僕はとっさに扉の陰に身を隠し、様子を窺った。
視界に入るいちばん奥の隅に、チシャとミレ、ディナの姿がある。まだ殺されていない。
チシャはミレをしっかり抱いて、壁に背をつけていた。ディナは厨房への扉の取っ手をつかみ、両手で懸命に揺さぶっている。厨房を抜ければ裏口から逃げられるのに、どうしてか、扉が開かないらしい。
パムの姿は、ない。
もっと身を乗り出して確かめようとしたとき、視界の右から左へ、白銀の塊が飛んだ。
庭園に面したガラスが砕け散る。雨上がりの空気が流れ込んだ。
血臭を掻き乱す冷たい風の下で、レアルが身を起こした。
ガラスに叩きつけられ、全身に破片を浴びて、無数の傷を負っている。細かい赤いひっかき傷。
その繊細な傷に装飾されたように、首筋から背中、左右の二の腕から肘へと、赤錆色の大きな傷跡が広がっていた。
ぞっとするような虚ろなまなざしが、扉の傍にいる僕を捕らえた。
けれどレアルが動く前に、漆黒の影が襲いかかった。バールだ。肩や腕に傷を負いながら、獣の爪を振るってレアルの首筋を狙う。
速い。普通の《悪霊》憑きなら、抵抗もできず頸動脈を裂かれるに違いない。
レアルは違った。左腕に銀の花が咲いた。跳ね上げた腕が羆の爪を受け止め、耳障りな音が響いた。
優美な右手が変形し、別種の鋭利な爪を伸ばす。ガナリの木トカゲの爪。樹木の幹に先端を打ち込んで這い上るための、尖って湾曲した頑丈な爪だ。
バールが跳び下がろうとする。間に合わない。血が飛沫いた。左の腿を抉られ、バールがよろめく。
レアルの右手から爪が消え、皆を虐殺した白銀の蔦が伸びる。
それで斬るつもりか。
何を考える間もなく、躰が動いた。
食堂に駆け込む。床を蹴り、翼で宙を打つ。
躰が浮く。散乱した食卓や椅子を蹴って跳び越え、振り上げられたレアルの手に手を伸ばした。
――届いた。
細い手首をつかむ。着地し損ねて、血溜りの上に倒れ込んだ。生臭い飛沫が頬にかかる。拭っている暇はない。ほっそりとした躰を無理やり引き寄せて、腕の中に捕まえた。
誰も動かなかった。
転んだ僕に引きずられ、捕らえられて、レアルは動作を停止した機械みたいに躰を強ばらせていた。バールも抉られた脚を片手で押さえ、床に膝をつき、呆気にとられていた。
僕も、深い考えがあったわけじゃなかった。
ただ、止めたかっただけだ。これ以上の殺戮を。
銀色の髪がすぐ傍にあった。たくさんの血に汚れた髪が。貌も、腕も、指も同じだ。僕たちを殺すために送り込まれてきた躰。僕たちを殺し、戦場へ行き、この先も誰かを殺し続ける躰。
僕と、同じだ。
深く息を吸って、吐いて、呼吸を整えた。縺れた銀色の髪に指を差し入れる。
レアルは身動きをしない。いま爪を伸ばせば、簡単に僕の心臓を抉れるのに。
それでようやく、したいことが決まった。
「レアル。どうして、僕たちを殺しに来たんだ」
尋ねると、ほっそりとした躰が竦んだ。
逃げられるだろうか。
それとも、殺されるだろうか。
でも、聞きたかった。レアルの答えを。他の誰でもない、レアルの。
「答えて、レアル。どうして僕たちを殺すのか、教えてほしい」
《施設》で培われたものが頭の隅で騒いでいた。――悠長なことを言っている場合か。自分の命がかかっているのに。まずは動け。戦闘不能になるまで痛めつけろ。理由なんか、聞くな。
わめき立てる声を、僕は頭から閉め出した。レアルの躰と、浅い息づかいだけに意識を集めた。
「君は、僕を殺さなかった。パムも。庭で会ったとき、殺そうと思えば殺せたのに、やらなかった」
思い浮かぶままに口に出すと、今まで形にならなかった疑問が、はっきりと言葉になった。
「……僕には、君が、自分の意志で僕たちを殺そうとしてるとは思えない」
レアルは答えない。
僕の手の中にある手首が、弱々しくもがいた。放してくれと言うように。
まだだめだ。放せない。確かめたい。
確かめなければ、僕は先へ進めない。
「教えて。君はどうして、僕たちを殺そうとするんだ。レアル──」
理由なんか、考えればいくらだって思いついた。
命令だから。従わなければ酷い目にあわされるから。逆らったって、他に生きられる場所もないから。
僕も同じだったから、想像できる。
だけど、どれも意味のある答えじゃない。レアルが言うのでなければ。
レアルが、僕を殺したいか否かを、言うのでなければ。
たぶん、僕は愚かだった。
尋ねれば答えが返ってくると思っていた。答えを聞く前に殺されるかも知れないとは思って、それなりの覚悟もしたけれど、他の可能性を考えていなかった。
つまり、レアルが、
それから起こったことは、悪夢そのものだった。
レアルは細い息を吐いた。嗚咽だったかもしれない。僕の手を振りほどき、躰を放して、逃げるように距離を取った。
突然、白い服の下で、華奢な右肩が盛り上がった。
厭な音が響いた。
人間の躰がちぎれる音だ。
何が起こったのか分からず、僕はレアルの躰が歪んでいくのを凝視した。
見るたびに広がっていた
皮膚を裂き、血を浴びて更に膨張する。赤い肉が生え、伸びる。伸び続ける。先端に五本の指。
赤黒い肉の腕。
ほとんど真上に向かって伸びたその腕が肘の部分で二つに折れたかと思うと、血にまみれた掌が、喋るなと言うようにレアル自身の口を塞いだ。
自分の肩から生えた三本目の腕に顔を鷲づかみにされ、レアルは呼吸を止められたようにもがいた。両手で赤黒い腕をつかみ、引き剥がそうとする。
のけぞった胸の中央が大きく脈打った。
白い服に新しい赤い汚れが散る。内側から染み出し、広がっていく。
何かが、レアルの躰を内側から引き裂く。
口を塞いだ手の隙間から、レアルが痛みに耐えかねたように悲鳴を上げた。血が散った。左肩の肉を突き破って、もう一本腕が生えた。服の襟元に指をかけ、邪魔だと言わんばかりに引き裂いた。
布の裂け目から覗いたものは、赤黒かった。
鎖骨のくぼみの下に、皮膚と肉とを裂いて現れたもの。上下に長い楕円形。中心付近が縦長に盛り上がり、その周りに切れ込みが三つ。双つは盛り上がった部分を挟んで上の左右に並び、大きいひとつは隆起の下に水平に走っている。
――貌だ。
女の貌だった。僕たちよりもずっと、老いた貌。
左右双つの切れ込みが開いた。赤黒い瞼がずり上がり、白くぬめりを帯びた眼球が僕を見る。漂白されたような白の中の、濁った赤い虹彩。
憎悪と拒絶。その眼は、凍てつくような冷たさで威嚇していた。
《施設》の連中ですら、こんな眼で僕を見なかった。
止めようもなく躰が震える。本能的な恐怖と嫌悪とが絡み合って背筋を走った。目の前にいるものが理解できない。何が起こっているのか分からない。
レアル。
──君は、本当は、何だったんだ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます