第28話
スポーツの日。またテニスをしようと茉凛に誘われてはいたのだが、そんな気にもなれず、私は電車に乗っていた。
目的地は特に決めていない。ただ、海でも見ようかな、なんて軽い気持ちで電車に揺られている。
最近、小牧と勝負をしていない。近頃は彼女が強引に変なことをしてこないため、わざわざ勝負をする必要もなくなっている。尊厳を取り戻すなら早い方がいい、とは思うのだけれど。
拍子抜け、だと思う。別に、キスしてほしいわけではないし、お腹を舐めてほしいとも思わない。
しかし、最近の彼女はどこか様子がおかしくて、尊厳だとか勝負の話を口にしようとしないのだ。
多分、彼女がおかしくなったのは、シャーペンを渡したあの日からだと思う。
あれ以来、私もおかしくなっている自覚があった。私と昔買ったシャーペンを大事に持っていたかったと、彼女は言った。あの言葉の意味を普通に考えるなら、彼女は私のことを嫌っていない、ということになる。
いや、むしろ、好きなのかもしれない。
だとしたら、なんであんなことをしたのだろう。私の尊厳を奪おうとしてきたのは、一体。
好きだからこそ、全部奪いたいと思うこともある。
前に彼女が言っていた言葉を思い出す。私のことが好きだから、先輩と付き合って、振った。私のことが好きだから、尊厳を奪ってきた。
いやいや。
それは流石に。
考えがまとまらない。私は海のある駅で下車して、ふらふらと街を歩いた。夏は終わり、残暑も和らいで涼しくなってきている。今年もそろそろ、終わる。
来年も、小牧と一緒にいるのだろうか。
小牧が私のことを恋愛的な意味で好きだったとして。私の方は、どうなのだろう。私は小牧のことが嫌いだ。でも、同時に、幸せにはなってほしいと思っている。だけど、彼女を友達として好きだと思っていた頃の気持ちは灰になっていた。
たとえば、好きと言い合いながら小牧にキスをしたとする。
その時の気持ちを想像してみる。
……ないな。
笑ってしまう。やっぱり小牧のことなんて、嫌いだ。
シャーペン一本でここまで悩めるなんて、私はコスパがいい人間なのかもしれない。コスパの意味、違うかもだけど。
好きと嫌いだけで、全部二つに分けられたらいいのに。
私は小さく息を吐いて、歩き出した。
友達と遊ぶのは楽しいが、一人で街を歩くのも嫌いではない。私は夕方まで海辺の街を歩き、いくらか買い物をした。
十月になってから急に肌寒い日が増え、今日も日が傾き始めると、寒さが少し身に染みるようになる。
コート、着てくればよかった。
私は小さく息を吐いて、駅に向かった。
駅は人でごった返していた。帰宅ラッシュが始まるにはまだ早い時間だが、妙に人が多く、駅員も忙しそうにしている。
どうやら、電車は止まっているらしい。車と電車が接触して火災が起こったらしく、復旧の目処は立っていないようだった。
歩いて家に帰れる距離ではない。
仕方ない。今日はカラオケかネットカフェにでも泊まるしかないだろう。そう思ってバッグを見ると、財布がない。
おいおい、まさか。
私はバッグを隅々まで見たが、やはり財布はなかった。
どこかに置いてきてしまったらしい。キャッシュカードとかは中に入れていなかったけれど、学生証が入っている。
再発行、面倒くさそう。
私は駅の近くのベンチでぼんやりと空を見上げた。そうしていると、スマホが震え出す。なんだろうと思っていると、小牧から電話がかかってきていた。
……うーん。
何用か。小牧が電話をしてくるなんて、珍しい。
「もしもし」
「わかば、今どこ?」
前置きがない。電話するときは時候の挨拶から徐々に盛り上げていってほしい。
「どこだと思う?」
答えはない。私は苦笑した。
「なんで私の居場所なんて知りたいの?」
「……家、行ったけど。いなかったから」
なんで家に、と聞くのは時間の無駄かもしれない。
「そっか。教えても、来れないと思うよ。電車止まってるし」
「止まってるって、何線?」
「さあ。……そうだ。勝負しようか」
手が少し震える。寒いなぁ、と思う。厚手のカーディガンは着てきたが、これだけでは足りないらしい。人肌が恋しくなる、ということはないのだが。だが。
駅のホームに流れているらしいアナウンスが聞こえてくる。周りの人の声が、遠い。私は身震いした。
「私が今いる駅の名前、当てられたらそっちの勝ちね。明日まで考えといてよ。ヒントは海」
「ちょっと、わかば」
「いいじゃん、考えてよ」
「そんな勝負、したくない」
わがままだ。どうせ勝つからいいじゃないか。
「今どこにいるか、早く教えて」
彼女は早口で捲し立てる。
なんか、焦ってる?
どうして。
「やだ」
私は捻くれ者なのかもしれない。なんとなく、今の小牧とは会うべきではないような気がした。
今小牧と会ったら、余計なことを言ってしまいそうだと思う。
聞いたら駄目なことを聞いて、失敗を重ねてしまいそうで怖い。一日寒空の下にいたら、きっと頭も冷えて、平気な顔で小牧と会えるようになるだろう。だから、今はここで震えていよう。
「じゃあね。また明日」
それだけ言って、私は通話を切り、スマホの電源も落とした。これからどうしたものか。交番に行って財布が届けられていないか聞いてみるか。でも、それも面倒臭い。
私はあくびをした。
冬の雪山で遭難した人が、寝たら死ぬぞ、なんて言われている場面を見たことがある。こういう場合はどうなのだろう。ここで寝たら、死んだりするんだろうか。多分、大丈夫だろう。
人の繋がりが乏しいという意味では、冬の雪山も人がたくさん住んでいる町も同じだ。誰も私のことを知らない町では、遭難しているも同然である。
でも、私が死にかけていたら、声をかけてくる程度の最低限の繋がりは、あると思う。私はバッグを抱いて目を瞑った。
秋の風は存外冷たく、私の心と体から熱を奪ってくる。
「……小牧」
こういうとき、小牧の顔が頭にちらつくのはなんでだろう。
人と人との繋がり。そういう目に見えないものは、いつ切れてもおかしくないし、強い繋がりが最低限のものに変わってもおかしくはない。少なくとも私の気持ちは簡単に変わってしまって、信用ならない。
小学二年生の頃、最善だと思った小牧への対応。あれも、一年後には最悪の対応だったなんて思うようになった。
色々後悔して、勝手に傷ついて、傷つけられたりもして。
私は一体、なんなんだろう。
小牧とずっと仲良くいられたら、こんなことで悩まずにいられたのだろうか。好きだと言って、好きと返されて。そんな関係を、小牧に望んでいた?
好きも嫌いも、勝手に消えていく。
人が私に見せてくる感情も、同じだ。友達として好意を寄せてくれているように見えていた小牧も、実は私のことが嫌いで。でも、本当は好きかもしれなくて。
どっちなんだろう。浮かんだり沈んだり、現れたり消えたりする感情は、跳ねて飛び回るバッタみたいに捕まえづらい。
変わらないものがあったら、安心できるのかな。
明日も明後日も、変わらず言えるような感情があれば。
自分の心がよくわからないから、小牧に会いたい。会いたくない。彼女の心を知りたい。
そんなの今日始まったことじゃない。ずっと前から、知りたかった。小牧のことを誰よりも知りたくて、彼女を誰より笑顔にしたくて、悩まず生きていけるようにしてあげたかった。
中学生の時だけ、じゃない。
小牧はずっと私の心にいた。
どんな思い出の中にも、小牧の姿がある。それがなぜかなんて、私はとっくに知っているはずなのに。
後悔と嫌いという感情に覆い隠されて、見えなくなっていた。私自身も、見ないようにしていた。
でも、だけど。
いつだって小牧のことで頭がいっぱいなのは。
「……好き」
なのかも、しれない。もう、そんな気持ちは残っていないはずなのだが。
中学生のときぶつけられた悪意を忘れたわけではない。
でも、あれだけでは壊せない思い出が、私の胸にはある。後悔もたくさんあるけれど、それでも私はいつだって彼女と一緒にいた。だから、小牧のことを本当の意味で嫌いになることなんてできない。
悩んで、苦しんで。それでも必死に生きている彼女のことが、私は嫌いになれない。
笑顔にしてあげたい、と思う。
幸せにしてあげたい、と思う。
それは多分、私にできることではないのだろうけれど。
考えているうちに、意識が遠のいた。
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