第3話

『100点、パーフェクトです』


 初手で王手をかけられた気分だった。

 放課後、私たちは約束通りにカラオケに来ていた。まずはお手並み拝見と小牧に先手を譲り、小牧が選んだのは流行りのラブソングだった。


 存外普通のチョイスだ、なんて思っていると、小牧は音程だけじゃなくて声質までアーティストに合わせて歌い上げていった。


 その結果、これである。

 100点。100点なんて、テレビの歌自慢コンテストですら見たことがない。少なくとも私は最高でも98点までしか取ったことがないし、友達だって90点を超えればいい方だった。


 井の中の蛙、なんて言葉が頭に浮かぶ。

 私は焦燥で額に汗が滲むのを感じた。これ以上私の大事なものを小牧に奪われたらたまらない。


「次は何歌おうかな」


 満点を取ったくせに、まだ歌うつもりでいるらしい。私は彼女からデンモクを奪って、十八番の歌を予約した。


 メロディが流れるのに合わせて、マイクを取る。その時、無感動な小牧の瞳と視線がぶつかった。


「100点取らないと負けちゃうね」


 彼女はそう言って、部屋を出ていく。私の歌なんて聞くまでもないということなのだろうか。

 とても腹が立つ。しかし、こういう感情を込めて歌う歌ではないので、私は一度深呼吸をした。


 選んだのは甘いラブソングだ。十年くらい前に流行った曲で、あなたに会えてよかっただなんて歌詞が何度も登場する。


 陳腐と言えばそうかもしれないけれど、私はこの歌が好きだった。飾り気がなくて、とても甘くて、優しい曲調。歌っているだけで甘酸っぱい気持ちになるような歌だ。


 一人になったのをいいことに、私は感情を込めて歌い上げていく。一瞬脳裏に小牧のことがよぎったが、軽く頭を振って追い出す。小牧に出会ったことは私の人生最大の汚点であり、消し去りたい過去である。

 小牧さえいなければ、きっと私はもっと豊かな人生を送っていた。多分。


『98.553点』


 やかましいBGMと共に映し出されたのは、そんな文字だった。過去最高にいい点だが、負けている。


 わかばは歌上手いねー、なんて友達に褒められていたのが遠い昔のことのように感じる。次の曲を選んでいると、見計らったかのように小牧が部屋に戻ってくる。


 その手には、メロンソーダと、黒くて茶色い液体。

 メロンソーダは私が好きな飲み物だから、きっと小牧が飲むだろう。そう思っていると、緑色の液体が並々注がれたコップが私の方に置かれる。


「飲めば」


 私は目をぱちくりさせた。何を企んでいるのだろう。警戒したが、喉が渇いているのは確かだったので、刺さったストローで一口飲んでみる。


 変な味はしない。おもちゃみたいにわざとらしくて、子供が喜びそうな甘さで、遠くで手を振るかのように薄いメロンの匂い。私の好きな安いメロンソーダの味だった。


「顔、馬鹿みたいになってる」


 小牧は黄土色と緑色と赤と黒が混ざり合ったみたいな気持ちの悪い色をした飲み物をストローで飲んでいる。

 こやつ、まさか、混ぜたのか。それは小中学生にしか許されない禁術だ。


「余計なお世話。……もしかして、それを言うためにこれにしたの?」


 緑色の液体が、気泡をぱちぱち言わせている。

 採点画面のうるさいBGMが、炭酸の音をかき消していく。


「別に? 好きなんでしょ。ありがたく飲んで」

「……ありがとう」


 私が素直に礼を言うと、小牧はそっぽを向いた。感謝されるのが気に食わないなら持ってこなければいいのに、と少し思う。

 でも冷えたメロンソーダを飲んでいると、柄にもなく感謝する気持ちが湧いてしまう。これからひどいことをされるかもしれないのに。


「そんなに美味しいの、それ」


 私はメロンソーダを口に入れたまま頷く。


「ふーん」


 興味なさそうな声が聞こえたかと思えば、小牧の顔が目の前まで迫ってきていた。あっと思った時には、唇を奪われる。


 じゅる、と音が聞こえる。脳髄まで響くようなその音が耳にうるさくて、私は眉を顰めた。


 小牧の舌に唇を開かれて、飲んでいたメロンソーダが流出してしまう。小牧は小さく喉を鳴らしながらそれを飲み込んで、最後に私の舌の先を軽く吸ってきた。突然のことすぎて真っ白になっていた思考回路が元に戻ると、私は彼女の頬を押した。


「変態」

「勝負に負けたのは誰だった?」


 うぐ、と言葉に詰まる。


「……もういい。で、美味しかった?」


 せめて私の唇を奪ったのなら美味しかったと言え。そういう目線を送ったが、彼女はどこ吹く風だった。


「いや、全然。生ぬるいし」

「だったらこっち飲んで。メロンソーダが馬鹿にされたままじゃ帰れない」


 私はコップを小牧の方に寄せた。


「もういらない。私はこれがあるから」


 墨汁と泥水の中間みたいな液体の入ったコップを揺らして、彼女は言う。


「それ、混ぜたでしょ、色々。絶対まずいし、小学生じゃん」


 小牧と一緒にドリンクバーを頼んだことはなかったから、こういう一面は初めて見た。ファンクラブの会員なら喜ぶかもしれないが、私は十五歳にもなってこんなことをしている小牧を見て、少し引いた。


「混ぜた。コーラとか、烏龍茶とかね。まずいけど、こういうのが好き」


 静かな口調で、小牧は言う。薄い唇が紡ぐ言葉は耳に心地良くて、それが腹立たしかった。


 この世の終わりみたいな飲み物飲んでる癖に。

 ちょっと顔が良くて、声が綺麗で、歌もうまいからって。

 ……全然ちょっとじゃないけれど。


「一個で完成されたものでも、混ぜたらまずい。それが好き」


 変わった趣味だ。一個で完成されたものは、完成された一のまま味わうのが最高に決まっている。でも、彼女がそんなことを言う理由も、心当たりがないわけじゃない。


 完璧な自分と、重ねているのかもしれない。

 彼女は何をしたって完璧で、だからこそ他者を見下しているし、普通な癖に突っかかってくる私が気に入らないのだ。でも、多分、彼女は完璧じゃない自分になりたいとも願っているのだろう。


 謎の液体のように不味くなって、元の色がなんだったのかもわからなくなりたいと願っているのだとしたら。


 ムカつく。

 私は無性にムカついて、私は彼女からコップを奪ってストローに口をつけた。


「まっ……ずい」


 甘くて苦くて変な臭いがする。こんなものになりたいと願っているのだとしたら、常人には理解できない感覚である。


 でも、そんなまずい液体を一緒に飲んで、まずいと言うくらいは私にだってできる。彼女が抱いている感情を否定して否定して否定して、それで。


 それで、彼女を完璧とか完全とかそういうものから、引きずり下ろしたいと思う。


「こんなの飲んでたら病気になるよ。混ぜるならオレンジジュースとカルピスとかにすればいいじゃん」


 自分は完璧な人間である。そんな彼女の考えを、何より否定したいと思う。多分それは、私が今までの人生でしてきたことの中で、一番難しいことだけれど。


「それじゃ、まずくならないでしょ」

「まずいのがいいの?」

「美味しいものがまずくなるのがいいんだよ。……わかばには、わからないだろうけど」

「うん、わかんない」


 完璧じゃなくなるにしても、まずくなる必要はないと思う。オレンジジュースとカルピスみたいに、美味しくなる組み合わせだってある。


 混ざったものはもう、一個の製品として完璧だったオレンジジュースでもカルピスでもないだろうけど、でも。

 美味しいなら、それでいいはずだ。


 混ざり合ったものがまずくなってしまったら、元々あった価値が全部否定されることになる。それは少し、違うと思う。


「梅園のことはやっぱりわかんない。好きじゃないしね」


 もやもやしたまま言葉を口にして、デンモクで新しい曲を予約する。すぐにメロディが始まったが、今度は部屋を出ていかなかった。その代わり、小牧はマイクを手に取って、スイッチを入れる。


 私の声に、歌手本人みたいな完璧な声が重なる。

 歌が上手いといっても素人な私と、プロみたいな彼女の歌。調和するわけもなく、掛け違えたボタンみたいに気持ち悪い音の重なりが室内に反響する。


 小牧のコップが目に入る。今の私たちは、まさしくあれだ。でも、私にうまく合わせようとするのは小牧ではないし、小牧にうまく合わせようとするのは私ではない。


 だから私たちは必然的にぶつかり合って、調和を失って、よくわからない色になっていく。


 今の私たちを誰かが見たら、きっとあの中身を飲んだ時の私みたいな顔になると思う。


『82点。もう少し音程を意識するといいかも?』


 私も小牧も、一人だったら絶対出さない点数が表示される。

 私は気持ち悪い胸の内を誤魔化すのも兼ねて笑ってやろうかと思ったが、小牧がぼんやりと点数を眺めているのを見て、やめた。


「下手くそ」


 マイクを置いて、私はつぶやく。小牧は何も言わなかった。


「今度は一人で歌うから。聞いてて」


 私は返事を待たずに歌い始めた。小牧の横槍は入らなかったが、どうにもさっきのデュエットで調子がおかしくなったのか、その後一度も90点を超えることができなかった。

 何をどう言い訳しても、負けは負けだった。

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