第2話

 別に私は敗北主義者というわけではない。いつだって小牧と勝負するときは勝つつもりでいるし、負けたら悔しいと思う。


 特に、中間テストの出来は過去最高だったから、絶対に勝つと思っていた。それだけに落胆は大きい。


 同時に、尊厳などという絶対に賭けるべきでないものを賭けてしまった過去の自分を引っ叩きたい気分になっていた。


「……梅園」


 私はパジャマのボタンに手をかけたまま、静止していた。

 小牧は私のベッドに我が物顔で腰をかけて、楽しげに私を眺めている。その瞳には好奇心や嗜虐心だけでない、私にはわからない感情が浮かんでいた。


 不可解、だとは思う。だが、それ以上に、恥ずかしさと憤りが胸を満たしている。

 小牧と接していると心が怒りばかりになるのは、いつも通り。

 しかし、中間テストで負けてからは、羞恥も混ざるようになった。


「早く着替えて。朝ごはんが冷めるでしょ」


 ごはん、の言い方が少し可愛い。でも、彼女のにやにやした表情は全然可愛くないし、むしろ憎たらしい。客観的に見れば顔は間違いなく整っているのに、ムカつく。人間の心は不思議だと思う。


「梅園が部屋出たら着替える」


 私は小牧を梅園と呼ぶ。それはちょっとした抗議の意味を込めた呼び方であり、彼女に対する敵意の表れでもあった。


「出ない。……立場がわかってないようだから言うけど、今のわかばには拒否権も人権もないんだからね」


 法治国家で生きてきたとは思えない発言に目を剥く。一度憲法の条文を見た方がいいのではないかと思うが、小牧の中にある法律は、きっと憲法にも勝るものなのだろう。


「それが嫌なら早く勝負しなよ。しないならずっとこのまま」


 結局あれから三日が経ったが、私は未だ彼女に勝負を挑めずにいた。

 別に諦めたわけではない。だが、彼女は性格以外は完璧な超人様なので、下手な勝負を挑めば負けるのは目に見えている。


 だからといって勝負を先延ばしにしていると、今日みたいに私の尊厳がゴリゴリと削られていくのだ。

 別に、同性に着替えを見られても恥ずかしくなんてない。だが、相手が小牧だと話は別だ。


 彼女の視線はいやらしい。性的な意味じゃなくて、こう、とにかくいやらしいのだ。悪意の類が滲み出たような視線を受けていると、体がむずむずして落ち着かない。


 それに、瞬きもせずにじっと見つめられたら、相手が小牧じゃなくても嫌だと思うはずだ。

 私の体は美術館の絵ではないのだから、見たって楽しくもないだろうし勘弁してほしい。


「はぁ……」


 小さく息を吐いて、着替えを再開する。嫌だ嫌だと思うから余計に嫌になるのだ。こういうのは周りを気にせず平常心でいれば、自然と心が凪いでいくものである。

 私は鼻歌を歌いながらボタンを外していく。


「下手くそ」

「うるさい」


 そっぽを向いて着替えても、小牧の息遣いだとか声だとかが嫌でも耳に入ってくる。だから変に意識してしまって、余計に恥ずかしくなった。

 平常心、平常心。


「小さいよね」


 何がだこら。私は詰め寄りたい気分になったが、ここで反応したら負けだと思い、着替えを続ける。


「中学生の時から身長変わってない。……ここも」


 彼女の生温かい手が、背中に触れる。いや、背中というより、ブラのホックに、である。そのまま前に手が伸びてくる気配を感じて、私は飛び退いた。


 なんだ。なんなんだ。この前キスしろなんて言ってきたことといい、小牧は私に一体何をさせたくて、何をしたいのか。

 私は彼女を睨んだまま制服を素早く着て、扉の方に後退した。


「あんまり生意気な態度ばっか取られると、こっちも考えないとダメだな」


 何を、なんて、聞けるはずもなかった。絶対ろくでもないことを考えているから。


 私は小牧のことが嫌いだし、小牧も私のことが嫌いだ。しかし、やっぱり付き合いが無駄に長いから、彼女の考えていることは大体わかってしまう。悪い方面の考えは、特に。


「決めた。勝負の内容」

「ん?」


 じりじり近づいてきていた小牧が首を傾げる。彼女は私よりもずっとずっとでかいから、威圧感がある。


 モデル体型とでも言えばいいのか、身長が高いだけじゃなくて手足もすらりと長くて、私くらいならその四肢の牢獄に閉じ込めることができそうだった。

 だから私は彼女を牽制するために、勝てるかどうかわからない勝負を持ちかけた。


「歌! カラオケの採点で勝負。点数が高い方が勝ち! どうよ!」


 私は威勢よく胸を張った。小牧は一瞬私の胸の方に目をやって、鼻で笑った。

 おい、どういう意味だ。


「いいよ。でも、約束は忘れてないよね。……わかばは一度負けるごとに、私に大事なものを一個ずつ捧げないといけない」


 勝負しないままだと一個ずつどころか大事なものを全部奪われてしまいかねない。でも、勝負に負けたら結局大事なものを少しずつ奪われていく。


 かといって彼女から逃げたら、学校という狭い世界から私の居場所がなくなってしまう。


 どう考えても袋の鼠だ。私はすでに詰みの状態にあるのかもしれない。だが、しかし。


 弱気になったらいけない。どんな人間にも欠点はあるものだ。私は小牧が音痴であることに賭けて、勝負を挑んだ。


「そっちこそ忘れてないよね。私が勝ったら尊厳を返してもらうから!」

「もちろん。勝ったらね」


 自慢ではないが、私は歌が得意だ。小牧は下手くそなんて言うけれど、友達とカラオケに行ったら90点は余裕でとれる。だから小牧にだって勝てるはず。

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