第9話

「うえぇ、負けた。容赦なさすぎでしょ経験者。大人気ない」

「私も梅ちゃんに負けたけどねー」


 遊びに来ているのに、シングルスで試合形式をしているのはなぜなのだろう。ダブルスで交代しながらやった方が楽しいのではないか。そう思いながら茉凛の方を見るが、彼女は笑顔で手を振ってくるばかりだった。


 茉凛は一体何を考えているのだろう。あれで結構頭が良かったりするから、私にはわからないような高度なことを考えている……感じじゃないな。


「表と裏、どっち?」


 小牧がネットに近付いて言う。


「裏」


 くるりと回ったラケットのエンドマークは、表向きだった。やはり、小牧は運の神にも愛されているらしい。


「じゃ、サーブで」


 そう言ってから、小牧は私の服の襟を掴んで、耳に顔を寄せてくる。


「どうする?」


 舌が微かに耳たぶに触れる。大事なものをかけた勝負にするか、しないか。それを聞いているのだろう。しないと言ったらこのまま耳でも舐めてきかねない空気を感じる。二人の前でそんなことをされたら、私も小牧も終わりだ。


 だというのにこんなにも余裕なのは、私が何を言うのかもうわかっているためだろう。


「しよう、勝負」


 小牧はにこりと笑った。いつもの如く、嫌になる程綺麗な笑みだった。

 そして、試合が始まる。

 いや、試合は始まっているが、始まっていないとも言える。


「ラブフォーティー」


 間伸びした茉凛の声が聞こえる。弾丸のような速度の小牧のサーブを視認することすら叶わず、体が動かない。私が部にいた頃よりも、速度に磨きがかかっていた。私は背中に汗が滲むのを感じた。


 二ゲーム先取した方が勝ちのルールだが、すでにゲームを落としそうになっている。小牧は何を思ったのか、軽やかなアンダーサーブを私に放ってくる。


 軽んじられている、のではない。何かを企んでいるのは、彼女の笑みを見れば明白だった。私は必死になって球を打ち返すが、その全てが軽々と彼女に返されてしまう。どこに打っても、どんな打ち方をしても、無駄である。


 ふと、私は自分がひどく無駄なことをしているように思えた。

 必死になって小牧に挑み続けて、尊厳を奪われて。傷つくだけの無駄な行為と薄々わかっていても、勝負を続けている。

 本当に。

 私はどうしようもない。


『わかば』


 今のものじゃない、遠い昔の小牧の声が聞こえる。私はボールを追いかけながら、その幻聴を追った。


『私、にんげんなんだよね?』


 幼い小牧の顔が浮かぶ。彼女はさっきみたいに、苦しそうで、泣いているみたいな顔で私に問うてきた。


 人間に決まっている。どれだけ完璧だって、小牧は人を嫌いになったり、意地悪したくなったりする程度には人間だ。辛いものだって苦手だし。


 しかし、こうして何度も勝負に負けていると、それも段々わからなくなってくる。


 本当は、小牧は天から遣わされた天使か何かで、それを彼女自身が忘れているだけなのではないか。


 そんな馬鹿馬鹿しい仮定すら、本当のことに思えてしまう。

 私は必死になって彼女の打ってくるボールを打ち返すが、フレームに当たってしまったのか、ふわりと浮かび上がってしまう。


 そんな隙を逃す彼女ではない。羽が生えたみたいに軽やかにジャンプした彼女は、ボールをそのまま私のコートに打ち落とした。


 弾けるような音がして、ゲームが終わった。

 地上に舞い降りた小牧は確かに天使のような顔をしていて、私の目は完全に彼女に奪われた。汗ひとつかいていない白い肌。肩にかかった、明るい茶色の髪。髪には天使の輪が浮かんでいて、その先に、太陽が見える。


 これは、天罰なのだろうか。

 愚かにも天使に勝負を挑んだ人間への、天界からの罰。

 そんなの、ありえないだろう。

 確信を持って言えないくらいには、私の頭はおかしくなっている。


「次、そっちサーブね」


 小牧は微笑みを湛えていた。その瞳の奥に、私を見下す色はない。珍しいな、と思いながら、ボールを手に持った。


 結果は言うまでもなく、散々だった。

 もちろん勝つつもりではいたのだが、過去の幻聴とありえない考えに悩まされて、集中力を欠いてしまった。もっとも、集中できていたとしても、多分三ゲーム目には負けていただろう。


 それほどまでに、小牧と私の実力の差は歴然としていた。


「私の勝ち」


 さして感動した様子もなく、平然と言う。彼女にとっては勝つのが当たり前だから、何の感慨もないのだろう。私がもし小牧に勝ったら、盛大に胸を張ってお前の負けだと言ってやるというのに。


「飲み物、買ってくる」

「私も行く」


 小牧はラケットをネットに放って言った。

 彼女にとってラケットはそれくらい軽いもので、どうでもいいものなのだろう。私はラケットをベンチに置いて、コートの外に出た。


 小牧がテニス部に入ったのは私の影響、だと思う。それまで彼女はテの字もないくらいテニスに興味がなかったが、私が部に入ると言ったらついてきた。


 これでもそれなりに小さい頃から頑張ってきたから、すぐに小牧に追い抜かされた時は愕然としたものだ。


 全ていい思い出、と言えるほど割り切れてはいない。

 私が大事にしてきたものは小牧にとっては全部どうでもいいものなのだろう。


 先輩への恋心も、頑張ってきたテニスも——私自身も。彼女にとっては等しく無価値で、さっきのラケットみたいに無造作に放り投げられる程度の存在でしかないのだ。


 ムカつく。非常に、とても、ムカつく。

 小牧にも何か大事なものができれば、自分が今まで捨ててきたものがどれだけ他人にとって重要なものだったかわかるだろう。


 できることなら私がそれを見つけ出してやりたいと思う。

 そして、言ってやるのだ。お前が今まで軽んじてきたものは、すごくすごく大事なものだったのだと。


「何飲む?」

「メロンソーダ」

「ワンパターンだ」

「いいし、別に」


 コートから少し歩いたところにある自販機で、小牧はメロンソーダを買った。そして、それを私に放り投げてくる。慌ててキャッチすると、彼女は笑った。


「ちょっと。炭酸抜けるでしょ」

「細かい。奢ってあげてるんだから感謝しなよ」

「恩着せがましいし。……混ぜないでよ?」

「混ぜないよ。スポドリ買う」


 私は彼女の好みを知らない。特定の味を好むということがなく、小牧はいつも違う飲み物を買うのだ。特定の好みはないと思っていたから、ドリンクバーで混沌ドリンクを作り出したときには驚いた。


 まずくなるのが好き。それは心理的な意味なのだろうが、もしかすると、単に味音痴だからあんなものを好んでいるのかもしれない。


 私はスポーツドリンクを飲んでいる彼女に目を向けた。白く滑らかな喉が動いて、胃に飲み物を送り込んでいる。


 その動作すら絵になるのが、ずるいと思う。美人というのはそれだけで人生の楽しさとかがが二割増くらいになっている気がする。


 私は彼女の横を通り抜けて、自販機で夏織と茉凛の飲み物を買う。夏織はコーラで、茉凛はミルクティだ。これくらいわかりやすい好みの方が、色々考えなくていいから楽だ。


「それ、美味しい?」

「普通」


 小牧はつまらない答えを返してくる。


「……好きなもの、ないの?」

「わかば」


 微かに心臓が跳ねる。彼女は私をまっすぐ見つめていた。いや、別に彼女は私を好きだと言ったのではなく、私の質問を無視して名前を呼んできただけなのだ。わかっているが、不意打ちだったから驚いた。それだけだ。


 そっと小牧の顔が近づいてくる。

 もう慣れてしまっている私は、何も言わずに彼女が近づいてくるのを待った。目を閉じると変に意識をしてしまうから、目を開けたまま彼女を迎える。


 人工甘味料の染み付いた舌が、私の舌を絡めとる。運動した後だからか、彼女の舌はひどく熱い。冷えた飲み物でも全く冷ませない程度の熱がこもっているようだった。私は頭が茹っていくのを感じた。


 小牧とキスするなんて最悪だ。そう思っていたのが遠い昔のように感じられる。どうせキスされるのを避けられないのなら、せめてこの間だけは心地良さと彼女の体温に身を委ねていた方が、心穏やかにいられる。

 そうわかっているから、私は何も考えずに彼女の唇を貪った。


「小牧ちゃんは私のことが大好きなのかな?」


 唇が離れると、私はからかうように言った。


「そうだって言ったら?」


 彼女は凍りついた表情を浮かべていた。何を考えているのか、全くわからない。

 私が彼女について知っていることは、実はそう多くない。勝負して、負けて、遊んだりもして。長い間一緒にいたのに、私はまだ彼女のことを全然掴めていない。

 嫌になるくらいに。


「信じない。好きな人の尊厳を奪おうとするとか意味不じゃん」


 ふん、と鼻を鳴らす。小牧は瞬きという運動を忘れてしまったかのように、私を凝視し続けている。


「そうでもないかもよ。好きだからこそ、全部奪いたいと思うこともある」

「好きって、互いに尊重し合うってことでしょ」

「違う。互いの目を奪って、心を奪って、他に何も映らないようにするのが好きってことだよ」


 歪んだ考え方だ、と思う。誰かを好きになったって、その人のことだけを考えて生きていけるわけではない。好きな人以外にも大事なものがあって、大切にしたいものがあって、そうやって人は生きている、はずだ。


 小牧は違うのだろうか。誰かを好きになったら何もかも捨てて、その人のことだけ考えられる。そんなの、ありえるのだろうか。


 ありえるとしたら、どうなのだろう。性格を除けば完璧なこの少女に愛される人間は、幸せなのかもしれない。


 もし何か奇跡が起こって小牧が誰かを好きになって、付き合う日が来たとしたら。私はそのとき、何を思うのだろう。


「曲がってる。歪んでる。間違ってる」


 私は夏織たちの分を近くに置いてから、メロンソーダのキャップを開けた。ぷしゅ、と音がして、泡が溢れる。慌ててキャップを閉めたが、もう遅い。溢れた緑色の液体は私の手を汚して、ベタベタにしてしまう。


 公衆トイレの石鹸と同じ色なのに、得られる結果は真逆である。

 その辺の水道で洗ってこようと思ったが、ふと思いついて、汚れた手を彼女の方に差し出した。


「舐める? 大好きなわかばちゃんのおててだよ」


 かなり馬鹿にした声色で言うと、流石に気分を害したのか、彼女は眉を顰めてそっぽを向いた。彼女の両手は、ぎゅっと握られている。


「好きな人ができたらさ。舐めてあげたら? 喜ぶかもよ」


 私は近くの水道で手を流してから、ペットボトルに口をつけた。どんな気持ちで飲んでも、メロンソーダはメロンソーダだ。


「喜ぶわけない。変態じゃないんだから」

「じゃあ、彼氏ができたら試してみる。変態って言われたら梅園の勝ちね」

「そんな勝負、受けないから」


 彼女は不機嫌そうに言う。私たちはしばらくそうして無言で飲み物を飲んでいたが、流石に夏織たちに買った飲み物がぬるくなってしまうため、コートの方に歩き出した。


「ねえ、梅園」


 夏の始まりを感じる風が、私と小牧の間に吹いている。小牧は流れる髪を押さえて、私の方を向いた。


「あれ、どういう意味なの?」


 ほんとに好きになった人と付き合うことなんて、一生ない。彼女はさっき、そう言った。それは単に彼女が人のことを好きになれないために出た言葉なのか、それとも、叶わない恋でもしているのか。


 小牧が本気で落としにかかれば、男だろうと女だろうと簡単に落とせるはずだ。彼女に叶わない恋なんてあるはずがない。


 さっきからずっと気になっていた。彼女があんな顔であの言葉を口にした理由が。


 小牧は完璧すぎる自分は人間ではないかもしれないなんて、小さい頃本気で悩んでいた。その不安を打ち明けてきた時の表情によく似ていたから、心配になる。


「あれって、何」


 小牧は眉根を寄せた。だよね、と思う。わからないように聞いたんだから、当たり前だ。


「なんでもない! 忘れん坊さんに聞くことじゃなかったね」


 私はいつものように笑った。

 わかるように聞いて、前みたいに悩みを打ち明けられて。


 それで、前みたいに間違った対応をしてしまったら。今度は何が起こるのかわからなくて、どうしようもなく不安だから。だから聞きたいこともまともに聞かず、私は逃げた。

 私は馬鹿だ。本当に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る