第15話

 私は踏み出しかけていた足を引っ込めて、コンビニの屋根の下に避難した。


「よし。どっちが先に家に帰るか勝負ね」


 私はそう言って、バッグで頭の上をガードしながら走り出した。今日の天気予報は晴れだったから、傘なんて持ってきていない。それならばさっさと走って帰ってしまった方がいい。


 そう思って走り出したものの、小牧はついてこない。振り返ると、花柄の可愛い傘を差した小牧の姿が見えた。勝負だと言っているのに、彼女の足取りはひどくゆっくりしている。

 その目は完全に私を馬鹿にしていた。

 ムカつくんですが。


「……そっちがその気なら、先行くからね!」


 私は彼女を無視して家に向かって走ろうとした。

 しかし、小牧の方を向いていたのが悪かったのだろうか。

 滑って転んだ。


 恥ずかしさよりも先に、お尻の冷たさが身に沁みる。私は立ち上がるのも億劫になって、空を見上げた。


 黒くて厚い雲から、無数の雨が落ちてきている。夏の天気は変わりやすくて、私は毎年毎年振り回されてばかりだ。その度に夏なんて嫌いだと思うのだが、かき氷を食べただけで変わってしまう程度には、嫌いという気持ちは曖昧で薄れやすいものだった。


 私にとっては多分、好きという気持ちも同じだ。ピークを過ぎたら後は薄れていくだけのもので、それを大事に胸に抱いておくことができない。


 なんだかなぁ、と思う。

 永遠の感情が欲しいわけではないのだが、時々自分が酷く薄情な人間に思える時がある。私ってなんなんだろうと思っていると、花柄が私の視界を覆った。いつの間にか追いついてきていたらしい小牧が、私を見下ろしている。


「何やってんの、馬鹿」


 小牧は一瞬私の方に手を差し出そうとして、やめたように見えた。最初から手を借りるつもりはなかったので、ゆっくりと立ち上がる。


 まだ屋根の下を飛び出してから少ししか経っていないのに、私の体はすでにびしょびしょになっている。濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 私はブラウスをつまみながら、小さく息を吐いた。


「用意周到だね、梅園」

「折り畳み傘くらい、普通持ってるでしょ」

「どうやら私は普通じゃないらしいですね」


 私は傘の外に出て、彼女に笑いかけた。傘という狭いスペースで彼女と二人でいると、良からぬことが起きそうな気がした。色々な意味で。


 それに、彼女が素直に私を傘に入れてくれるとは思えない。どうせ濡れてしまっているのだから、入れてもらえなくてもいいのだけれど。


「雨が降ったおかげで、涼しくなった」

「雨って汚いんだよ。わかばは知らないかもしれないけど」

「大丈夫、潔癖じゃないから」


 私は踊るように歩き出した。勝負はうやむやになってしまっている。


「ねえ、勝負しないの?」


 私は傘の下で無感動な表情を浮かべている彼女に問うた。


「しない。勝つってわかってる勝負のために濡れたくないから」

「たまには濡れてみればいいのに。梅園が濡れてるとこ、見たことないし」


 もう私の体はどうしようもないほどに濡れている。いっそここで全部脱いでしまいたいと思う程度には、ずぶ濡れだ。


 開き直ってしまえばテンションも上がるものらしく、私は雨で遊ぶのを心待ちにしている幼稚園児のように笑ってみせた。


「何で笑ってるの?」

「ん? 立派なメロンが育つためには、水がたくさん必要なんだよ。メロンは水を喜ぶものだから」

「意味わからないし、私の方見て笑わないでよ」

「何でさ」

「……わかばの笑顔見てると、嫌になるから」


 ここまで直球の悪口はあまり聞かない。嫌になると言われると、意地でも笑いかけたくなる。私はそっぽを向く小牧の視線を追うようにして、体を動かしながら彼女に笑いかける。


「……わかば」


 抗議するように険のある声を出しながら、彼女は眉根を寄せた。


「わかば」


 目覚まし時計のスヌーズみたいに、何度も私の名前が繰り返される。その度に私は彼女の視界に入るところに回り込んで、笑いかけてやる。


「わかばの、馬鹿」


 襟首を掴まれて、頬に手を添えられる。雨が地面に打ちつけられる音に混ざって、傘が落ちる音が聞こえた。


 唇と唇の間に雨が滑り落ちてきて、彼女の唇の味がいつもと変わる。鉄っぽいような、甘いような、変な感じがする。熱い彼女の舌が雨で冷やされているが、私の舌はどうなのだろうと思う。


 永遠にも感じられる長い時間の口づけが終わって、解放される。雨が強く降っているせいか、キスしているだけでいつもより苦しくなって、息が切れる。

 私は、笑った。


「あーあ。濡れてるじゃん。せっかく折り畳み、持ってきたのにね」


 ファーストキスにはそれなりに意味があったが、二回目以降のキスにはさほど意味を見出せない。だから私はいつものように、なんでもないような顔で彼女に話しかけた。


「私もだけどさ。梅園も大概馬鹿だと思うよ。キスして、濡れ鼠になって」


 彼女のキスには、嫌がらせ以上の、何らか目的がある。その目的について、考えればわかるような気がしたが、考える必要はないと思う。全部、考えるには遅すぎたのだ。今更、どうしようもない。

 だから私は笑う。色々な煩わしいものを吹き飛ばすように。


「勝負のためには濡れないのに、キスのためなら濡れられるんだね。変なの」


 私は濡れた髪を指で束ねた。


「どうせ濡れちゃったし、ゆっくり帰ろうか」


 折り畳み傘を拾って、閉じる。こういう時のためにバッグに入れられていたはずの折り畳み傘は、役割を果たすことなく今日一日を終えることとなった。


「わかば」


 閉じた傘をくるくる回しながら歩いていると、後ろから声をかけられる。ずぶ濡れになっても、小牧は綺麗だった。


 濡れた顔に化粧が残っているのかそうでないのか、私には判別することができない。どちらにしても整っているのだからそれでいいのかもしれない。


 ほんと、美人は濡れても美人だからずるい。

 私なんて、濡れていたら野良犬みたいなどと言われるのが関の山だろう。濡れている姿が可愛いと言われても、普段可愛いなんて言われることがほとんどないから、困るけれど。


「私も、行く」


 私は一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。しかし、すぐにあのポスターのことだと思い至る。


「祭り?」

「そう。行くから」

「んー、まあ、いいけど。拒否権はないしね。その代わり、茉凛と一緒にいる時変なことしたら許さないから」


 私が言うと、彼女の顔が微かにうつむく。長い髪が顔にかかって、表情が読めなくなった。


「そんなに……」


 ざあざあと降り続ける雨の音が、彼女の声をかき消していく。


「……いい。約束はしたから。破ったらどうなるかは言わなくていいよね」

「わかってますー」


 話はそれで終わったらしく、小牧は何も言うことなく私の隣に並び、歩き出す。彼女が私から折り畳み傘を奪ってくることはなかった。雨に濡れることを楽しんでいるようには見えなかったが、今更傘を返しても仕方がないと思い、持ち続ける。


 彼女の家に着いたら渡そう。

 そう思っていたのに、一緒に歩いているうちにそれを忘れてしまって、私は結局自分の家まで彼女の傘を持って帰ってきてしまった。それに気づいたのは、お母さんに指摘されてからだった。


 小牧なら傘なんていくらでも持っているだろうし、返せる時に返そう。

 私は小牧の傘を傘立てに置いて、濡れたブラウスを絞った。

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